布をふるような、いなびかりだった。もう、凹地《くぼち》の家には水が出たらしく、あわただしく叫びかわす人声と、提灯の灯とが、物ものしく、闇黒《やみ》に交錯していた。
「崖くずれがあるかもしれぬ。あのお寺の墓地に。」
お久美は、早出の用意に脚絆など揃えながら、手を休めてそう思った。
手のつけようのない晩飯の膳が、そのままで下げる意味で、縁の障子のかげに置かれてあった。
「おお、ひどい吹き降り!」
膳を引きに、母家から、おひさが駈け込んで来た。
「まあ、この恰好を御覧下さいまし。傘は、風にとられるのでさされませぬ。」
そう言って、かぶって来た風呂敷きを取って笑ったが、
「おや、御気分でもおわるいのでございますか。ちっとも召上らずに。」
「何ですか、おなかが一ぱいなんですよ。」
おひさを失望させまいとして、お久美が、つづいて何かつけたそうとしたとき、
「はなれのお客さまあ!」
大声が、飛びこんで来た。おひさの家の漁師のひとりだった。江戸から、上庄の旦那の庄吉がお久美を迎えに来て、いま着いたところだという、およそ意外な知らせだった。
「わしが、出水《でみず》の助けに行くべえと、土間で蓑を着ているところへ、いきなりおもて口から顔を出して、おれぁ庄吉だ、お久美を迎えに来たというでねえか。へえらねえで、軒下に立って、お待ちでごぜえます。」
お久美は、突っ立つと同時に、濡れるのも構わず、庭を横切って、母屋へ走っていた。
「来るならくると前もって一筆知らせてくれればいいのに。」
石につまずいてよろけながら、そう考えた。
「きっと、不意に来て驚かすつもりなのでしょう。」
と、たまらない嬉しさがこみ上げて来て、裏口から駈けこんで行くと、長い土間のむこうに、家内の灯を背にして、黒い人影が立っていた。顔は見えなかったが、じっと雨を見つめているふうだった。電光が走り過ぎて、男の外線がくっきり浮かんだ。きりっとした旅装束で、片手に、笠を掻いこんでいた。
お久美は、ふところへ飛びこむように、駈け寄った。
「まあ、あなた!」
声をかけた。縋りつきたかった。男の腕が、お久美の肩へ廻ってきて、ちょっと顔を向けた。はっきりした輸廓だった。冷えびえとした額、みどり色に見えるほどのすき透った皮膚に、笑いをふくんだ切れ長の眼だった。ぞっとするくらい通った、高い鼻だった。おちょぼ口が、微笑にゆがんでいた。あの顔だった。岩井半三郎だった。
はっとすると同時に、もうお久美は、そのものに手を取られて、雨のなかを歩き出していた。揺れる闇黒の奥へ、消えた。追って出たおひさの見たのは、雨に光って吸われて行くお久美の白い足だけだった。
暴風雨は、来るのも早かったが、去るのも早かった。夜あけになって、月だった。お久美が、大雨の最中出て行ったきり帰らないので、おひさの家をはじめ、谷由浜《やゆはま》の村は、騒ぎになっていた。漁師たちが出て、月光を頼りに、足あとをさがして歩いた。男と女と、ふたりの足跡が、おひさの家から丘をのぼって、断崖のうえの野を、縺れながら突き切って、小山から松原を抜けて、そこで絶えていた。その先の、きのうまで無住|寺《でら》の墓場のあった個所は、ゆうべの暴風雨で崖が崩れて、はるか眼下の浪うちぎわに、大きな土砂のかたまりが、濃い液体のように食《は》み出ていた。寺も墓も、あと形もなかった。
「むかし江戸で売った岩井半三郎さまは、この村の出だったが、あの人の墓も、これでなくなった。惜しいことをした。」
捜査隊の一人が言った。かれは、選ばれて、その場から江戸の上庄への急使に発った。
底本:「一人三人全集2[#「2」はローマ数字、1−13−22]時代小説丹下左膳」河出書房新社
1970(昭和45)年4月15日初版発行
入力:大野晋
校正:松永正敏
2005年5月7日作成
2008年3月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング