取り交されたならば、或いは二人の中の一人が、生命を失うようなことにはならなくてすんだかも知れない。然しとうとう要之助は目を開《あ》かず、藤次郎もそれ以上、彼を起そうとはしなかった。
翌日、藤次郎は腹痛と称して終日ねた。
彼は腹よりも胸が苦しかったのである。凡てはめちゃめちゃになったように思えた。
それでも未だ、彼はもしや、と考えた。藤次郎にとっては同じ屋根の下にいて、而ももう一人の女給と同じ部屋にねている美代子の所へ、要之助が忍び入るという事は一寸考えられなかったのだ。
それから彼はどうかして事実をつきとめようと決心した。しかしその後何ごともなかった。尤も藤次郎は決心はしながらも、じきに深い眠りに陥いってしまうのが常だったが。
ところが昨夜《ゆうべ》の出来事はもうどうにも何とも云いようがなかったのである。
彼は真夜中頃に突然目がさめた。
パチンと誰かが彼の頭の上にいつもついている十二|燭《しょく》の電気を消したのである。明るい部屋が突然暗くなったので、却って彼は目をさましたのかもしれなかった。
その時その闇の中ではっきり彼がきいたのは要之助が、
「なーに、かっぱさん、豚のように眠ってるよ」
という声と誰か他の人間がくすりと笑う声であった。
秋の日かげはうららかに射している。
藤次郎は燃えるような胸の焔をいだきながら浅草公園の池の辺を歩いている。
何ともかとも云いようがない。それにわざわざ……。
虫も殺さぬような顔をした要之助があんな図々しいことを云ったり、したりするとは思わなかった。女も女だが男も男だ。奴は全く食わせものだったのだ。いやに真面目らしくおとなしく振舞っていたのは女をひっかける手段に過ぎなかったのだ。田舎にいる頃、あれでは何をしていたか判ったものじゃない。
斯う考えた時、藤次郎は百足《むかで》でもふみつけたような気持に襲われた。
今朝、国から来た友達をつれて東京見物をさせてやるから、という好加減《いいかげん》な口実を設けて一日のひまを貰った時、主人にいっそ昨夜のことを告げてやろうかとも考えた。然しそれは自分にとって余りいい結果をもたらさないかも知れない、他の方法で要之助が存在しないことになれば或いは局面が一転するかも知れない、と思って彼は何も云わなかったのだ。
昨夜殆ど眠れなかったために、一日さぼろうと思った彼は、秋の一日を草原の中でねて暮そうかとも考えたが、結局、いつもの慰安所たる公園に来てしまった。彼は、どこかの映画館に入るつもりなのである。
朝めしを食う気がしなかったので食べずに出て来たせいか、妙に空腹を感じて来た。
然しわざわざめし屋に入る気もしなかった藤次郎は、池の角の所に出ていたゆで卵屋の所で、四ツばかり卵を買うとそれをそのまま袂に入れた。彼は映画を見ながら之を食べるつもりなのである。
卵を買ってぶらぶら歩いて行くと人だかりがしていた。見ると人力車をたてかけてその上に袈裟衣をつけた僧形《そうぎょう》の人が一生懸命に何か云っている。彼はふと足をとめてその話をきいた。何か宗教の話ではないかと思ったのだ。所が突然その坊さんは、
「然るに現内閣は……」
と云いだした。藤次郎は何となく興味を失って、そのさきにあった群衆の方に歩《あゆみ》をうつした。彼は今どんな話にも興味がもてない。然しどんな話にでも、興味をもとうと努めているのである。
その一つさきの群衆の中心には角帽を冠った大学生風の男が手に一冊の本を携えてしきりに喋舌《しゃべ》っている。否どなっている。
「諸君は恐らく、そんな事はめったにあるものではないというだろう、と思うから愚かなんである。君等は法律を医者の薬と同じに考えているから困る。薬は病気にかかってはじめて要るものだ。然るに法律はそうでない。君等が一時たりとも法律を離れては存在し得ない。たとえば君等は大屋に渡した敷金なるものは如何なる性質のものか知っているか。よろしい。之は或いは知っている方もあろう。ところで君等の中には大屋もいるだろう。その人々はその敷金を消費することがはたしてどの程度に正しいか知っているか。今日君等は電車で又はバスでいや或いは円タクでここへ来たろう。電車に乗って切符を買うことはどういうことか知っているか」
大学生と見える男は法律の話をしている。
藤次郎は、法律なら俺には判るぞ、とその男の話をききはじめた。
「抑《そもそ》も電車の切符は、片道七銭也の受取であるか、それとも電車に乗る権利を与えたことを認めた一つの徴《しるし》であるか、之が君等に判然とわかるか。本書第百二十八頁に、大審院の下した所の判例がある。ちゃんとその点は判例を以って説明してある。円タクで来た諸君に問おう、君等はもし途中で円タクが動かなくなったらどうする。たちの悪い運転
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