現われた。要之助の美貌は同性の心を動かすより何より異性の美代子の心を動かしてしまった。
 彼がN亭に来てから二、三日の中に、既に藤次郎は、美代子が要之助にちやほやするのを見なければならなかった。ただそれだけならば未だいい、美代子は今までの態度を全然変えてしまった。藤次郎は彼女からみむきもせられなくなって来たのである。
 無論、彼は煩悶した。焦慮した。そしてその苦しみの中に在って彼は頼りにならぬものをひたすらに頼った。それは要之助が、まだ若くて初心《うぶ》だということと、彼が非常に真面目な青年だということだった。
 藤次郎の頼みは忽《たちま》ち裏切られた。要之助がまだ若く、初心でまじめであることがなおいけなかった。生れてはじめて、都会の美人に惚れられた(と少くとも要之助と藤次郎は考えたが)要之助は、まもなく彼女の媚態に陥って、彼の方からも可なり積極的な態度に出はじめて来たのである。
 斯うやって藤次郎にとっては、悩みの幾月かが過ぎた。勿論彼はあらゆる手段で美代子の気もちを自分の方にひっぱろうとした。けれどもそれは全然無駄骨だったのである。
 けれど彼は自分の心もちと、かつて自分に対してとっていた美代子の態度からおして、まさか彼等が完全に許し合っているとは信じなかった。又信じたくもなかった。然るにこの彼の考えを根柢から動かすようなことが最近に持ち上ったのである。
 今から約一週間程前の或る夜半《よなか》だった。いつもは昼の労働にまったく疲れて――読書は近頃は到底やれるものではなかったが――死人のように熟睡する藤次郎は、其の夜、二時頃に突然の腹痛で眼がさめた。
 彼は暫く半眠半醒の状態で床上に苦しんでいたが、はっきり眼がさめるとあわてて厠《かわや》にとびこんだ。斯ういう場合、誰でも比較的永く厠にいるものである。彼はようやく苦しみがおさまったのでまず一安心して出ようとした。
 すると其の時二階から階段をそっと降りて来る足音がきこえて来た。そうして全く降り切ると彼のいる厠の側を人が通る音がして軈《やが》て彼のねている部屋の障子をしめる音がした。
 此の時藤次郎ははじめて、さっき彼が眼をさました時、いつも傍に眠っている要之助が床の中にいなかったことを思いだした。
 藤次郎が部屋に戻って寝どこに入ると、要之助はちゃんとそこに眠っている。藤次郎は稍々《やや》おさまった腹をなでながら考えた。はじめは、
「奴、又ねぼけやがったな」
 と感じた。
 今彼の傍に美しい寝顔を見せている青年には不幸な病気があった。それは夢遊病である。かつて国許にいた時、夜半にまきざっ棒を以て突然側にねていた父親を殴ったことがあった。おこされてから彼は何もしらなかった。何でも其の宵に、地方を廻って来た或る劇団の剣劇を見たのだそうだ。無論それまでにも彼がねぼけるのは屡々だったが、今までそんな烈しい例はなかったのでそれ以来、家では大いに警戒して彼の寝る部屋には危険なものは一さいおかぬことにきめた。
 N亭に来たときもそのことはかねてから主人に聞かされていたが、藤次郎が要之助の夢遊病の状態を見たのは未だ一回しかなかった。
 夜半に水道を烈しくだす音が余り長くやまなかったので主人が出て来て見ると、要之助が足を洗っているまねをしていた。烈しく殴って眼をさまさせた所、彼はまったくねぼけて水を出していたのだった。
 藤次郎は其の有様を見ていた。そして主人と一緒になって彼を殴ったのだった。
 藤次郎はその時のことを床の中で思いだしたのである。然し、次の瞬間に又誰かが上から降りて来る足音を聞いた。その足音は厠の辺で止り、ガタンと厠の戸をあける音が耳に入ッた時、藤次郎は急に妙なことを想像した。
 再び戸が開く音がしてそのまま二階に戻るかと思っていると、それがずっと藤次郎のねている部屋の前まで来た。そうして暫く静かになった。外の人は中の様子を窺っているようだった。
 藤次郎はちらりと要之助の方を見た。要之助は彼に背中を向けているが眠っているらしい。すると突然障子の外から、
「要ちゃん、要ちゃん」
 とささやくような声が聞えた。藤次郎ははっと思った。それは美代子の声だった。
 然し要之助は身動きもしない。
 すると外で、
「要ちゃんてば……もうねちゃったの」
 という声がきこえたかと思うと、そこを離れる気色《けはい》がして足音はすうっとそのまま、二階に上ってしまった。
 まだしくしく痛む腹をおさえながら藤次郎は暫く天井を見ていた。軈て要之助の方を向いて、
「おい君、君」
 とよびかけた。けれど要之助はこのとき真に眠っていたのかどうだったか、兎も角、全く知らん顔をして眼をつぶっていた。
 若し此のとき、要之助が、藤次郎に対して返事をするか、又は藤次郎が彼をゆりおこすかして、当然二人の間に或る会話が
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