手は新宿からここまでのせるのをいやがって本郷あたりで故障だからといって君等を下ろしてしまう。このあいだもそういう目にあった人が僕の所へ相談に来た。僕は直ちに本書第三百一頁を開いて見せた。ほら、ここに明かに記《しる》してある。斯くの如く法律知識は必要なものであるにかかわらず、多くの人は殆ど其の必要を感じていないとは実に解すべからざる事実である。法律を知らずして世を渡らんとするは、闇夜に灯火なくして山道を歩くようなものではないか。
然し、諸君、君等はいうだろう、それは民法に就いてのみ云うべきことである。刑法などの知識は正しい人にとっては必要はないと。だから困るんだよ。いくら正しい人にでも其の知識は絶対的に必要なのだ。例をあげて見ようか、仮りに諸君の中に気狂いがいて、いや之は失敬、諸君の中には無論いない、いなければこそこうやって僕の云うことを静聴していらるるわけだが、だが、諸君、世に馬鹿と気狂い位恐ろしいものはない、今ここで僕が斯うやって話をしているとき、突如気狂いが刀を抜いて斬りつけて来たらどうするか、逃げ得れば問題はない、その間がないのだ。やつを殴るか斬られるか、という場合だ。判り切ってるじゃないか、無論殴ればいいと君らはいうだろう。よろしい、然し殴り殺してもいいかね。よろしいか、ここで一寸考えて貰いたいのは相手が気狂いだという所だ。我が国の法律は勿論、大ていの国では気狂いには刑事責任を負わしては居らん。気狂いが人を殺したとて無罪になるにきまっとる。その気狂いの行為に対して正当防衛が成立するかどうかという問題なのだ。それ、刑法にはただ『急迫不正ノ侵害』と書いてあるのみで一こう詳しいことは書いてない。之については大家の説がいろいろある。然し大体に於いて積極説に一致している。君らも或いは結論に於いては同じ考えかも知らん、が、その理由を知っているか、更に例をかえて、もし狂犬が現われたらどうする。無論君らは、之をぶち殺すだろう。この際之は正当防衛といえるか。抑《そもそ》も動物に対して……」
ここまで聞いて来た時、藤次郎は右側の男に一寸突かれたように感じた。妙な気がして右の袂に手をつっこんで見るとさっき買った敷島の袋が見えない。あわてて首から紐をつけて帯の間にはさんである蟇口に手をやるとたしかにあるので安心したが、もう右側の男はどこかに行ってしまった。煙草一袋だが掏《す》られた感じはひどくいやなものだった。
彼は大道の法律家をそのままそこに残してぐるりと歩をめぐらした。そうして池畔を廻って××館という映画館に入ってしまった。
彼が席に腰を下ろして、卵をむしゃむしゃやりはじめたとき、映写されていたのは外国の喜劇であった。
朝から不愉快な思いに悩みつづけていた彼は、ようやく、そのスピードの早い写真を見て胸の悩みを一時忘れることが出来た。そうしてそれが終って次の映画がはじまる頃は、彼は全く夢中になってそれに見入っていた。
それは一種の犯罪映画であった。或る悪人の学者が――説明者はそれを博士博士と云っていた――財産を横領せんが為に、何とかいう伯爵夫人を殺そうとするのである。伯爵夫人といっても舞台がフランスだから伯爵の妻ではなく、夫はないのだ。そしてその女が死ねばどうして博士に財産がころがりこむことになっているのだか其の辺はよく藤次郎には判らなかった。しかしそんなことはどうでもいい。この映画の中で、面白いのはその博士が伯爵夫人を殺す方法で、彼は自分で手を下さない。ここに或る美男青年が現われるが、博士はその男に催眠術をかける。男はその暗示に従ってある夜半、夢中の中に恋人伯爵夫人を殺してしまう。
時計が大写しになる。正に二時五分前。
「其の夜の二時頃であります。彼はがばとはねおきました。彼は夢中のまま伯爵夫人の部屋へと進むのであります。ドアー(説明者は戸のことをドアーと発音した)の鍵穴よりうかがい見れば……」
説明者の説明につれて映画はクライマックスに達する。夢の中で自分の部屋から出かけて行く所を、その青年に扮した役者は非常に巧みに演じた。彼は説明者のいうところと一寸違って伯爵夫人の寝室の戸をこつこつと叩く。夫人は恋人の声を聞いて戸を開くと、男が不意にとびかかって絞殺する。この辺は極めてスリリングであった。藤次郎は空になった卵の袋を握りしめながら映画に見入った。
之から名探偵の活躍となりついに博士がほんとうの犯人であることがわかる。博士はいよいよ追跡急なるを知るや自動車をとばせて逃げだす。結局は逃げ場がなくなって自殺をしてしまい、青年は許されておまけに百万長者となるという、後半は全くくだらないものだった。
が、藤次郎は息をもつかずにこの映画を見終った。
彼が××館を出たのはもう夜になってからである。いつもなら他の館に入る彼は何思っ
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