来た紳士は恐縮しながら、
「実は僕自身運転して来たんです」
と答えた。
直ちに取り調べが開始され、紳士は一応H署に連行されたが一通りの取り調べによって即日帰宅を許された。
加害者たる紳士は、某会社の重役で法学士伯爵細山宏、殺された紳士は某省の役人中条直一と判明した。
細山伯の警察で述べた所によると、彼は毎朝其の時間に自宅から自身自動車を運転して必ずその場所を通り勤先に出る。丁度其の日は今までのクライスラーの代りにおろしたてのパッカードを運転して通った。昨年頃まではもっとおそく出かけたけれ共、今年になってからは健康の為というので割に早く出かける。そうしていつも日比谷公園を東から西、即ち日比谷門から霞門を抜ける順序だった。この日もいつもの通り走って来ると左側の鉄柵と車道との間の細い舗道の上を歩いて来る人を見た。此の儘進んでも無論衝突の憂えはないからと思って、念の為にクラクソンを鳴して進んで丁度その人とすれ違いそうになった時不意に、その男が車道によろよろと入って来た。むしろ飛び込んだ。ブレーキをかけたがどうすることも出来ない。仕方がないから、あわてて右にさけようと思って、ハンドルを右に切ったけれど及ばず、相手の頭を前右車輪にかけてしまった。
その後、警察の調べた所によると、中条直一は別に自殺するような動機は認められなかったけれども最近では非常な神経衰弱に罹《かか》って居たから、かかることは在り得べからざることではないと云うことだった。
然し、H署ではこの事件を「業務上過失致死事件」として、一件書類を区裁判所検事局に送って来たのである。
伯爵細山宏が検事局から呼出を受けたのはそれから二週間程経てからであった。
係りの大谷検事は、当時所謂バリバリの検事だった。検事の問に対して伯爵は警察で申し立てた通りの答えをした。
「時に、あなたは、昨年T海岸で死んだ吉田豊という人のお兄さんですね」
「そうです。吉田は私の実弟で、あの家の養子に行ったのです」
「そうですか、それはお気の毒でした。しかし、とするとあなたは被害者の中条にも度々お会いになったことはあるわけですね」
「はあ」
「この日、むこうから来た紳士が中条だということは、この事故の起らないうちに判りませんでしたか。無論、後には被害者は僕の知っている男だと仰言ったそうですが」
「いや、とっさの場合ではじめはよく判りませんでした」
「そうですか、いやそれならそれでよろしい」
対話は極めて円滑に進捗《しんちょく》した。凡てに渉って三時間たてつづけに調べられたが、ようやく一通りのことは終ったと思う頃、伯爵がきいた。
「いかがでしょう、私は許されましょうか。私の考えでは自分には過失はないように思いますが」
「私としては今は何も云う必要はないと思いますが、一応あなたの御身分に対して好意的に申しましょう。問題は、あなたの云う通りだとして、果して法律上過失があるかないかということなんですよ。あなたのいうことがほんとかどうか不幸にして立証すべき何物もない。死人に口なしで相手は死んで居る。又第三者で見た者が一人もないのです。従って少くもあなたの云われることを嘘だと立証すべき事実がないのです。そこであなたの今までの供述に従えば御安心なさい、この事件は不起訴になります。私はこの事件を不起訴にすることにきめました」
「ありがとうございました。これで私も安心致しました」
伯爵がよろこんでドアをあけて出ようとする時だった。不意に後から声がきこえた。
「細山さん、しかしそれはあなたの計画通りに進んだわけじゃないですか、予期した通り、考えた筋書通りに!」
細山伯爵はこの時ふりかえって大谷検事のすごい皮肉な微笑を見なければならなかった。
「細山さん、事件は之ですんだのです。然し私は検事としてでなく、個人としてあなたと少しお話したいのですがね」
伯爵は思わず、もとの椅子に腰を下さなければならなかった。
「伯爵、之は私が個人として云うことですよ。検事としていうべきことは終りました。だからもはや安心なさってよろしい。ただ私大谷一個人としてお話したいことがあるのです。
私は自分の職業の立場から常に犯罪ということに興味をもって居ます。如何にして犯罪を捜査するかということは云わば如何にして犯罪を行うかという事を考えることです。だから私は事件を調べることに趣味があるばかりでなく、もし私が犯人だったらどうするか。又はどうしたかというようなことをいつも考えるのです。
あなたは、よく、山や海で二人づれの一人が不慮の死をとげた際に、一回もこれを疑ったことはありませんか。私は自分が検事だからというせいか、いつもあれは妙に思うのです。成程殺人としては動機がない。しかし動機がないということはただ外に表われないというだけですか
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