呆れた顔で笑ってしまった。
 中条は一時やはり「俺が疑いすぎたかな」と安心した。けれども吉田が直ちにあとから云った言葉が中条を直ちに不快にした。
「僕、今度はじき帰りたいんです。お姉さん(彼は綾子のことをいつもこう呼んでいた)とこの夏、ブルッフを合わせる約束がしてあるんですから」
「この男はひどく無邪気な人間か、途方もない、白らじらしい奴だ」と中条は考えた。
 機会があったら吉田を此の地上から失ってしまい度い、とは必ずしも今になってはじめて考えたことではない。彼がとりわけて淋しい房州の一角、T海岸をえらんだのもそこに理由があったのである。
 夏になると、二人連れの友達が山へ登ったり、海岸に行く。そして一人が誤って足をすべらせて深い谷に陥って死んだり、又は崖から海に陥って岩に頭をぶつけて死んだりすることがよく報道される。
 其の時、若し一方が他を殺したとしても、どうしてその殺人を立証し得るだろう。而してもしその動機が外面に表われない場合には聊かも殺人の疑いさえ起り得ない筈ではないか。
 誰も人目にふれぬことだ。誰も人のいない時決行するのだ。そうすればこの犯罪は永遠に人に知られない。
 中条は思った。彼の場合において、動機たり得るものをたしかに知っているとすればそれは妻一人だ。よし其の妻が自分を訴えたとしても、どうして直接の証拠を掴み得るか。
 中条と吉田が泊っている宿屋から、泳ぎに行く所までに恐ろしい岩の崖道がある。無論遠まわりをすれば安全な道があるのだが、中条等は、近道を往復した。而もこのある一部分には崖の上に茂る木と、海にそびえ立つ岩にかくれて一寸外から見えない個所があるのを中条はちゃんと知っていた。
 水泳着一枚の吉田が足をすべらして下へ落ち、頭を割って死ぬということは決して不思議ではない。現に中条自身も危いのでずい分用心して歩いているのだ。
「よし、あしたはどうしてもやっつけてやろう!」
 中条は夜の明けるまで思いつづけた。
 あくる日は前日同様の快晴で、やはり暑い日だった。
 水泳着一つになった中条と吉田が細い危い崖道を歩いて行く。吉田が先に中条が後から。
 中条は、ここと思う所まで来てあたりを見廻した。
 彼の見得る限り一人も人は居なかった。
 今やろうか、今やろうかと思って彼は吉田の後姿に見入った。
 この時、偶然が、中条の気持に対して、拍車の一撃を与えた。
 何も知らずに先に立って歩いていた吉田が楽しげに口ぶえを吹き出した。それこそ彼が綾子とよくひく「春のソナタ」のヴァイオリンパートの一節だった。
 之を耳にした刹那、中条は身慄いした。
 彼はいきなり吉田の後に身を引き付けた。……
 吉田がT海岸から誤って落ちて頭を粉砕されて即死したという急報が四方にとんだのはそれから間もなくだった。警察からは直ちに係官が出張した。東京から家族の者もかけつけた。
 けれどもそこには何ら他殺の疑いをかけるべき点もなく又自殺と見られる所もなかった。中条直一が相当地位ある某省役人であることが凡ての嫌疑から彼を救った。
 かくして吉田豊は、前途有為の身を以て、T海岸で不慮の過失死をとげたということが一般に報ぜられたのである。

          二

 中条直一は然し其の後、だんだん憂鬱になって行った。そうしてその秋には極度の神経衰弱にかかって、当分役所を休まなければならなくなった。
 同じ家に居ながら彼は、綾子とは一日中一言も口をきかぬことすら多くなった。
 綾子は綾子でピアノを盛んに独りで弾じた。而も相手がないのに、ヴァイオリンやヴァイオリンコンツェルトのピアノのパートを、やけに弾ずることが多かった。
 彼女のこの振まいは、必ずしも夫に対するあてつけばかりではなかったらしい。
 こんな時に、夫の直一はますます陰気になって行った。
 ついに、医者の注意によって毎朝ある一定の時間を散歩に費やさなければならないと云うことになって、永田町の自宅から徒歩で日比谷公園を一周して来ることにした。それは十二月頃のことである。
 年があけて、再び夏が来た。吉田の死んだ月が又来た。丁度、その月だった。中条直一は突然思いがけない禍に出会った。
 彼は自動車に轢《ひ》き殺されたのである。
 或る朝、身なりのいやしくない紳士体の男が、西日比谷検事局にあわててとび込んで来た。人を轢いた。いやあの男が自分の車で自殺したというのだ。
 居合わせたH署の巡査が早速行って見ると、公園の検事局に相対している入口から約五十間ばかり中に行った道路に、おびただしい血汐を流してこれも一見紳士風の男が自動車に頭を轢かれて即死して居る。自動車は反対の帝国ホテル側の入口から左側を通行して来たらしく、西側に車首を向けて止って居る。
「運転手はどこに居るのか」
 と聞かれて、とび込んで
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