那、あの足場の悪い所だ。あっという間に足をすべらせて彼は下の岩に向って落ちこんだのだった。
 俺はしばらく茫然としたが、直ぐにその原因は判った。綾子は前から知っているだろうが豊は、今になっても蜘蛛に対して極度の恐怖心をもっている。自分から見ると殆ど理由のない恐怖だが、あの刹那あの崖の上に立っている松の木からたれ下《お》ちていたのだろう。丁度彼の顔にあたる所に五寸に余る大蜘蛛が彼が落ちてからなおブラブラしているのを自分は見た。
 豊が口ぶえをふいてのんきに歩いている所へ、不意にこの大蜘蛛が顔にあたったのだ。
 蜘蛛だ! と認めた刹那、彼は恐怖の余りとび上ったのだ。その途端に足をすべらせてしまったにちがいない。
 ああ思えばあの時、あの蜘蛛をそのまま、おいておけばよかった。自分も気味のわるい余りに叩き殺して海に捨ててしまった。自分は何という愚か者だ。もしあの時、誰でも一人人間があのありさまを見ていてくれたなら、俺の人殺しの疑いをはらしてくれるだろうに。又もしいっそ俺が訴えられれば弁解の辞は十分にあるのだ。しかし、妻は俺を人殺しと確信しているくせに、一回も俺に訊ねない限り何を云ってもむだなのである。俺はもはや綾子の沈黙の復讐に対しては沈黙の争いをつづけなければならないのだ。
 しかし、俺はこのごろ凡ての人々に人殺しと呼ばれているような気がする。俺は人殺しを計画した。しかし実行はしなかったんだ。ああこの苦しみをいつになったら晴らす事が出来よう。
 妻以外では、豊の兄の細山伯がたしかに疑っている。ああ毎朝、俺と顔を合わせる意味がわからない。俺は不愉快だけれど、俺が、あの道を通らなくなればなお伯は俺を疑うだろう。おお伯よ、いっそ俺を裁判所へ訴えてくれ!
(この間、日記の日附が三ケ月程あいている)
 ×月×日
 俺はたまらない、こうやって無実の罪を凡ての人々からきせられて見られているのは。綾子は断然俺を人殺しと見て居る。一言もそれにふれない限り、俺も一言もいうまい。伯爵も毎日あうが何の為にわざわざあの時分通るのだろう。そうして訴えるようすもない。彼は俺を殺すつもりなのだろうか。
 それ程疑うならいつでも殺されてやる。しかし、汝の復讐は神の目から見れば真正の復讐ではないのだ。
(この間数日のへだたり)
 ×月×日
 昨日は危く自動車にぶつかる所だった。
 医者は毎日歩けという。併し
前へ 次へ
全14ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング