少しだってよくなる筈はない。
 俺は丁度盲人が杖なしで歩くように往来を歩いている。ひょっとすると医者も俺を人殺しだと思って居るのじゃないか。綾子が医者にしゃべって居るのかも知れない。そうして俺を出来るだけ危険にさらすようにして居るのじゃないか。
 俺は人殺しじゃない。人殺しを考えたことはある。けれどやったおぼえはない。
(次は死の前日の手記)
 ×月×日
 こんなへんな気もちで生きている気はない。豊だって俺があそこにつれ出さなければ、死ななかったんだ。そう思えば俺は死んでやってもいい。しかし細山には殺されたくない。よし俺は奴のような自動車にのって来る人を利用しよう。あしたはあいつの来る頃、日比谷で他人の自動車にとびこんで死んでやる。細山が丁度通る頃、わざと他の車にとび込んでやる。どんな車でもいい、細山以外の自動車にとび込んでやろう。あそこまで用心してあるいて行かなければならない。
 最後に、綾子に云う。人知を以て神の業をはかる勿れ。

 読み終った伯爵は、この時ハッと今まで少しも気にしなかった事を思い浮べた。
「そうだ。あの日はじめて、それまでの箱型のクライスラーをやめて、買いたてのパッカードを動かしたのだった」
 再び中条の日記を見ていた伯爵の目には涙があふれた。それが頬を伝って来た頃、彼は机の上に面を伏せて、長い長い間動かなかった。
[#地付きで](〈文藝春秋〉昭和五年七月号発表)



底本:「日本探偵小説全集5 浜尾四郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1985(昭和60)年3月29日初版
   1997(平成9)年7月11日5刷
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:はやしだかずこ
2001年2月26日公開
青空文庫作成ファイル:
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