事と中条未亡人が生きている限り、人殺しをしたと確信されている。俺は自分の計画が完全だと信じていた。余りに完全すぎたと信じていた。しかし、大自然が行う皮肉を無視していた俺は愚かだった、永遠に俺は呪われている」
 伯爵がここまで書き記した時、ドアをノックする音がきこえた。伯爵の声に応じて小間使が丁寧に一通の封書を机の上において去った。差出人は中条綾子。書留郵便で投函日附は昨日である。
 いそいで封を押し切った伯爵の目には次のような美しい文字がはっきりとうつったのである。

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 伯爵様、先刻は失礼いたしました。折角お訪ねくださいましたのに、私実はあの時、大変考え事を致して居りましたの。それで申訳ない失礼いたしてしまいました。お許し下さいまし。あの時私はある物を伯爵様にお目にかけようかどうかとまよっていたのでございます。けれどとうとう決心してしまいました。何事も申し上げませぬ。ただ同封の文をおよみ下さいまし。そうして永遠に御身近くにおもち下さいまし。
 伯爵様、あなたの御力は偉大でございました。けれど、われわれの頭がどんなによくても神様のなさることを考える事は出来ません。神様のいたずらは、人間には判らないものでございます。
[#地より2字あきで]綾 子
[#ここで字下げ終わり]

「神のいたずら?……自然の皮肉?」
 つぶやきながら伯爵はまき込められた一片の紙に目を通した。
 そのはじめに女文字で「之は夫直一の日記の断片でございます。夫の死後、私が発見して今まで誰にも見せずにおいたものでございます。綾子」と記されている。
  ×月×日
 妻はどうしても疑っている。否疑っているのではない。俺が吉田豊を殺したと確信しているのだ。俺の手が血みどろに見えるのか、俺の顔がそんなに恐ろしいのか。俺がこのごろ夜中眠れないで役所も休んでしまったのを、良心の責苦だと思っているらしい。馬鹿! 俺がいつあいつを殺したんだ。俺は人殺しじゃない。あいつはほんとに過《あやま》って死んだんだ。
 俺が豊を殺そうとしたのはほんとだ。恐ろしいことだが俺はこの手で彼を崖からつきおとしかかったんだ。それは間違いはない。しかし、しかし、俺はあの時つきおとしはしなかったんだ。
 もう少しで彼にふれようとする途端に、豊が不意に悲鳴をあげたんだ。俺は却って驚いた。どうしたんだ? と、きこうとする刹
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