途上の犯人
浜尾四郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)焦《いらだた》しさ

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)その後御結婚|被遊《あそばされ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)更に又なめくじ[#「なめくじ」に傍点]に
−−

          一

 東京駅で乗車した時から、私はその男の様子が気になり出した。思いなしではなく、確かにその男の方でもじろじろと私の方にばかり注意して居る。
 色の青白い、三十四、五の痩せた男である。身なりは大して賤しい方ではない。さっぱりした背広を着し、ソフトを戴いて居るのだが、帽子は乗り込むとすぐ棚の上においたようだった。外套は特に取り立てていうような物でない。
 私はこの男を確かにどこかで見た事がある。向こうでもこっちを知って居るらしい。彼は私の席と反対側の一つ向こうの席に腰かけて居るのだが、余り混雑して居ない三等車の中で、こういう視線の戦いをつづけて行くのは決して愉快な事ではなかった。
 向こうはどこまで行くのかわからないが、私は今夜T市迄行かなければならない。その長い数時間、この変な男と向かい会って居るのは少なからず閉口なわけである。
 列車が横浜近くまで来た時、私は、前に腰かけて居た人が降りる為に立ち上ったので、そちらの席にうつって変な男の方に後を向けたのだった。
 その時、私は急にその男を思い出して「なーんだ」とつぶやいたのである。
 確かに会ったに違いない。然しどこで見たかどうしても思い出せない、という気もちは、こういう経験のある人には、その妙な焦《いらだた》しさがはっきりと判るだろう。
 私は、いつもこういう場合、いろんな人達を、頭の中で素早く分類をして思い出す事にしている。第一は数年間検事をしていた関係から役所でいろいろな人間に会っているので(しかして一番こういう人々の数が多いから)まずこの方面を思い出して見るのだ。しかしこの変な男の顔はどうしてもその中には思い出せなかった。
 次に、現在自分がつまらぬ探偵小説を書く所から雑誌社の人々や同じように文筆を弄している人々によく会う。しかもそれがごくあっさりした通り一遍の知り合いである事が多い。それで第二に私は此の方面の人々を頭の中で捜索して見たのである。所がこの変な男はこの中にもどうしても見当らないのだ。
 最後に、私は、単純な顔見知りを、職業別にして考えて行ったのだが、とうとうこの中にも変な男の顔は出て来ない。
 学校時代の友人や法律家としての現在会う人々の顔は忘れっこないから、結局この変な男はそのどれにもはいらない事になる。
 そこで仕方がないので私は、偶然あった人々を一人一人考えて見た。例えば円タクの運転手の顔とか帝国ホテルのボーイの顔とかを。
 すると突然一昨夜、新宿から塩町までの市電の中で此の変な男を見たのをようやく思い出したのだった。
 無論意味なく電車の客をおぼえているわけではない。私がその時この男に注意したのには十分理由があった。
 新宿から私が電車に乗った時この男は一緒に乗り込んで来た。それからあと殆ど私の顔を見つめ通しだったのである。車掌が切符を切る時にも、こっちを見ていてぼんやりして何か車掌に云われていた位だった。
 私はその時「いやな奴だ」と思った。こんな場合、視線の戦いには決して一歩も譲らぬ事にしている私ははっきりと逆に睨み返してやった。するとこの男はすぐに目をそらしてしまう。そうして、私が他へ視線をやると又ちゃんと私を見ているのだから実にやり切れない人間である。
 しかし塩町で下車してしまってあそこの雑踏に足を入れた瞬間から私はこの男の事を全く忘れてしまった。もし今列車で再会しなければ一生思い出す筈のなかった顔なのであった。
 その男だ。たしかにあの男だ。あの妙な男が今同じ列車に乗って居るのである。
 私は今更、雑誌一つ持たずに乗った事を後悔した。元来私は子供の時から汽車に乗って車窓の景色を眺めるのが好きだったが、その趣味は今でも抜けない。それに自宅に居る時は決して勉強家ではないが濫書濫読の癖があるのでたまに汽車旅行などする時は、何も持たず、ぼんやりと車外の景色に見入って居るのを常としている。それが為今日も何も手にせずに乗り込んだのだ。
 もっとも東京駅で新聞を二、三買ったが大森を通過する頃にはそれも読んでしまったので、もはや何も見入るものがない。仕方がないから、変な男を気にしながらも車外にうつり行く晩春の景色に見入って居た。
 いつもなら、こうして居てもそれにうっとりとなってしまうか、でなければ又何か面白いストーリーの題材が頭に浮かぶのだが、さっきからあの男の事が妙に頭にこびりついてどうしても離れない。
 今にも後から何か云いかけられはしないかと、こんな気がしてどうしても落ちついた心持になれないのである。
 列車は第三十三列車名古屋行、普通車で東京駅を出たのが午前十一時三十五分だった。午後一時すぎ漸《ようや》く国府津についたので私は弁当を買うと同時に、手当り次第に、売子から雑誌を二、三冊買い求めた。そうして箱根のトンネルをくぐっている頃には盛んにその本をあけて見たのだが、しかし、どうしてもある一つの作に身を入れる事が出来なかった。
 ここで、読者は、たった一度会って睨み合ったその男を私が何故そう気にするか、という事を疑われるだろう。実際私も早くそれを云いたいのである。書けさえすればいくらでも書きたいのだ。しかし、いざその男に対する気もちを描写しようとするとどうも自分の筆の拙いのを嘆じないわけにはいかない。
 一言に云うとその男は、さきにのべたように、ごく平凡な姿ではある。しかし、何といっていいか妙な妖気がただよっているのだ。
 一昨夜市電で見た時はそうでもなかったが、今列車の中でよくよく見て居ると私は蛇におそわれたような気分になって来た。否蜘蛛を見た感じにも似て居た。更に又なめくじ[#「なめくじ」に傍点]にさわったようにも思った。
 この蛇と蜘蛛となめくじ[#「なめくじ」に傍点]の混血児のような感じのする男が、私の後方に五尺位を隔てて腰かけて居る、という感じは決していいものではない。この気もちは只想像して貰うより外ない。
 私が、どうしても本に身を入れる事が出来なかったのは、そういう次第なのである。
 私は、今にも肩越しになめくじのような手が出て来はしまいか、蛇のような首が出て来はしまいか、蜘蛛の足がまきついて来はしまいかと、びくびくして居た。
 汽車が三島を発した時、とうとう此の蛇ははっきり私の目の前に首を出してしまったのである。

          二

 汽車が三島駅を発すると間もなく、後から急に、
「もしもし」
 という声がしたので、私はとうとう来たなとびくっとした。
 私は、それ迄その男がどんなに腰かけ、どんな風にしていたかは少しも見ないようにして居た。
 現に(これは甚だ尾籠な事で恐縮だが)箱根を過ぎた時、尿意を催したのだが、この車の便所に行くには、どうしても彼の前を通らねばならないので、私はそれを避けてわざわざ後方の車の便所に行った位なのである。
 だから、彼が今までどんな表情をしていたか知る由もないがおそらく私の頭を見つめて居たのだろう。
「もしもし」
 と云われた時、すぐにこれがあの男の声だと感じたからすぐに私は振り向いた。
 ふり返って見た時は、既に私の右手に、その男がにやにやしながら突っ立って居るのである。
「…………」
「××先生じゃありませんか。どうもさっきからそうだと思って居たのですが」
 人の名を聞く時は、まず自ら名乗るのが礼儀である。私はこの問が快くなかった。
「あなたはどなたですか?」
 相手は不相変《あいかわらず》にやにやして居る。
「私はごくつまらぬ田舎の教師ですが……××先生でいらっしゃいましょうね」
「ええ僕は××ですが……」
「いや私もそう思って居りました。一昨夜電車の中でお会いした時も、たしかに雑誌で見た先生のお顔だと思ったのですが、つい申しそびれて……今日ここで偶然お目にかかったのは、ほんとうに幸いです」
 何が幸いなのか、私には少しも判らない。
「先生の御作はいつも愛読して居ります」
「いや、それはどうも恐縮で」
 小説家に対する最大のお世辞は、その文章を読んで居る事である。従って、こっちから云えばはたしてほんとうに読んでそう云って居るかどうか判らない、と云う事になるので、当らずさわらずの、いいかげんの返事をしておいた。
「近頃ずい分探偵小説が流行するようですが結構です」
「結構だかどうだか判りませんよ」
 この返事は私としては極く意味のない言葉だったのだが、相手は急にきっとなって云った。
「先生、先生はほんとうにそう思いますか?」
「何がです」
「つまり、今のようなこんな探偵小説流行の風潮を結構だとは思わない、若くは嘆かわしいとお考えになるのですか」
 これは真面目な問題である。相手は教師だという以上、教育上からこの風潮に対して、恐らく反対の気勢をあげるのだなと私は思った。
「あなたは今ただ田舎の教師だとおっしゃった。紹介のない相手にいきなり口をきいて、しかもその人の意見をはかせる以上、僕は君自ら、はっきりとお名乗りになるのが礼儀だと考えますが……」
「これは申しおくれて相すみません」
 彼はこう云いながら、上衣のポケットから余りきれいでないシースを取り出し、その中から一葉の名刺を抜き出して私に手渡した。
 見ると、それには『相川俊夫』という四字が印刷されてあった。
「T市から数里隔った××という村の小学校に勤めて居ります。どうぞよろしく」
 なめくじ男は、ここで今更改まってピョコンと一つおじぎをした。
 私が一応はっきり切り込んだので、なめくじ男は、話の腰を折られたと見えて、暫時《しばらく》黙った。
 そのかわり、私の前のシートにゆったりと腰を落ち付けて、何か考えて居る。
 列車は既に沼津を過ぎて鈴川あたりを走って居る。
 晩春の美しい森や小川を眺めながら私はつとめて気分をまぎらわそうとつとめた。
 相川というなめくじ男はこの時、ふと外套のポケットからウイスキーの罎《びん》を取り出して、
「先生一ついかがです」
 とやった。
 私は元来一滴も酒を口にしない上、この日は法律家としてやむを得ない旅行をして居るので、目的地に着けば相当仕事の上のまじめな準備もしなくてはならず、その上こんな得態の知れない男に何を呑まされるか判ったものではないから、きっぱり拒絶した。全く拒絶の形だった。辞退したのではない。拒んだのである。
 なめくじ男は、拒絶されても一向平気で、
「ではやむを得ません」
 と云いながら、自分で一杯生のままでのみほした。気がつくと、もう前から少しやって居るらしく、目の中が少し紅くなって居る。
「で、先生、さっきの話ですが……」
 又してもさっきの論題である。
「私は、探偵小説家たる先生に、そうです、特に先生にはっきり申し上げたい」
 この時、なめくじ男の顔から、俄然《がぜん》なめくじらしい表情は消え去って、鎌首をもたげた蛇のような鋭いようすが現われた。なめくじ男、否もはやそうではない、蛇男は更につづける。
「私は先生のような人が、ああいう小説をよく書いて居られると思うのです。実に不思議でならないのです」
「というと、どういう事ですか」
「先生は元検事でしょう? そうして今弁護士です。いずれにしても法律家である筈です。そうして、正義という事の為に常に不正と戦うべきことは同じ筈です。その先生が、世を毒するような、あんな探偵小説を書くのは不思議です。先生には一方では社会を正しく導かねばならない勤めがあるのです」
「冗談云っちゃいけない、僕は社会を導くなんてそんな大それた考えをもった事はありませんよ」
「いや、先生自身は自ら社会を指導する気はないかも知れない。しかし正義を奉ずる法律家に、それだけの覚悟がなくてどうするのです? もし先生がそれを考えて居
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング