られぬとすれば、先生は法律家たるの資格がない。法律家たる以上、それだけの覚悟がなければならん筈だ」
 この語気でも察せられるように、蛇男の勢いは非常に鋭くなり、しかも、その論旨も実を云うと、中々しっかりしたものなのである。
 私は、元来、議論にかけては可なりアグレシヴな態度をとる人間なのだが、一つにはこの相手の論理が可なり正しいのと、もう一つには例の妖気が、なんとなく気味が悪いので、巧みにその鋭鋒《えいほう》をさけようと試みた。
「確かにあなたの云われる事は真理です。しかし僕が探偵小説を書く時は、決して法律家として書いて居るのではないのですからね。その点は十分考えて頂かんと困ると思うのだが」
「探偵小説の筆を取る時は小説家、弁護士として金を取る時は法律家だ、とこう云われるのでしょう。成程、一応それでいいようには聞えます。しかしそれは胡魔化しだ。欺瞞だ! 先生はごまかそうとしているのです」
 彼の態度はますます猛烈で、その論旨はいよいよ急である。私は実は彼の頭が割にいいのに驚いたのである。
「先生は小説家だという。しかし如何なる場合でも先生が社会の一分子たる事は争いがない。あなたがなんといったって、社会に対する感化を考えないという事はけしからんです。あなたは自らお考えになった事はないのですか?」
 於是《ここにおいて》「先生」は俄然「あなた」に変じ、彼の蛇男は立派な社会評論家になってしまったのである。
 私は少し腹が立って来た。真面目に論戦してやろうと考え出した。そうして何と云ってやろうかと思っていると彼は、ウイスキーの罎を殆ど空にしながら、こういうのである。
「探偵小説家の中でも、特に私はあなたに文句があるんだ」
 此の一言はきき捨てならなかった。
「どうして、特に僕が、だ」
「あなたは法律家だ、従ってあなたの書くものには、とかく法律問題が出て来る。それが面白いかどうかは別問題として……」
「いや面白くないでしょうよ」
 私は一寸《ちょっと》からかって彼をくじいてやるつもりだったのだが、彼は少しもひるまぬ。ひるまぬ所か手をふりながら興奮してつづけるのである。
「私が特に文句をつけたいのはそこなんだ。あなたは第一殺人ばかり書いている。その上、その殺人方法のトリックが殆ど法律問題なのだ。いいかえれば、法律的に一番安全な殺人方法をいつも書いている。つまり、如何にすれば人を殺して、しかも罰せられずにすむかという事を書いて居られる」
「それで?」
「判りませんか、私のいう意味が。あなたはああいうものを書く事によって多くの人々に巧みな殺人方法を教えているのです。人を殺しても、こうすれば決して罰せられぬという事を宣伝して居るのです。かりにここに殺人を行おうとする人間があれを見て、もしまねをしたらどうします? あなたはそんな事を考えた事はありませんか」
「まさか、そんな人はないでしょう」
「しかし、幾千万の中に一人でもそんな人が居たら、あなたは何と云ってその人と社会に謝りますか? そうです、たった一人でもそういう人が出たらあなたの責任です」
「僕はそんな事は有り得ないと思う」
「いや、あるかも知れない。少くも有り得る。少くもないとは云えない!」
 彼は断固として云い切った。
 ここに至って彼は今やなめくじ男ではない。蛇男でもない。猛虎である。彼は真正面から私に迫って来るのである。実際私もたじたじの形で今更、こんな論題を追った事を後悔した。
「しかし、有り得ると君が云った所で、又ないと僕が断言したところで、つまり水かけ論に終るのだからね。ともかく君の御忠告はあり難く拝聴しておく」
 こう云って私は衝突をさけようとした。
 相川俊夫はこの時、急に口をつぐんだ。そうして又例の妖気に満ちた顔で私をながめはじめたのである。
 私は相手が黙ったので、彼が一寸まいって口をつぐんだと解したため、これ以上の論議を打ち切るために余計な事を云ってしまった。
「だから此の問題はこれ以上進んでも仕方がないのですよ。……一昨夜電車でお目にかかった時、今日のように名乗って下されば、うちででもお話が出来たのですが残念でしたね」
 私は論議打ち切りの印のつもりでこう云いながら、傍の雑誌を手にとった。
 しかるに、彼は又々執拗に迫って来た。
「若し? 若し……そうです、若しここに一人でもあなたの為に殺人者になったという人間があるという事を、私が立証したらあなたはどうします?」
「無論、あなたが、そう主張なさるなら信じないわけにはいかないでしょう。僕はそんな事があろうとは思いませんが」
「たしかにあります。一人、確かに!」
「確かに? 君はほんとうにそう云うのか」
「無論です。たしかに少なくも一人私はそういう人のある事を知って居ます。先生、私はたしかにそういう一人を知って居ますよ」
 こうなっては最早のっぴきならない。
「君は確かにあると断言するのだね。よし。それでは君はその人の名をあげて僕に知らせる責任がある。それをしないでただそんなに頑強に僕を批難しても何もならん」
 私には、この世の中にそんな人間があるとは信じられず、又若し(しかり、正に千万度も「若し」だ!)そんな殺人者があったとしたところで、まさかその人間の名を彼が私に云い得る筈はない、と思ったので、ぴっしゃりと、叩きつけるように云ってやったのである。
 此の一言ははたして効果を現わした。
 猛虎のようにつめよった彼はこの時、正にたじたじとなったらしい。口をもごもごやったきり、物凄い顔で私をじっと見つめたのである。暮れやすい春の太陽は弱い光を投げかけながら今、山に入ろうとして居る。
 この気味の悪い沈黙の数分間、私も負けずに彼の気味のわるい顔を見つめてやった。眉《み》けんのあたりに深いしわをよせながら、彼は何か心の中で苦悶と戦って居るらしい。
 私ははじめ、彼が一本参ったので口惜しがって居るものとのみ思って居た。しかし実はこの時の彼の顔色は、より深き苦しみを現わして居たものである事が後に判った。
 唾を二、三度のみ込みながら、急に相川は口を切った。今度は又、俄《にわか》に丁重な言葉を用いながら。
「先生、先生は弁護士でいらっしゃる。弁護士として聞いた人の秘密は無論お洩らしになる事はないでしょうね」
「勿論です。道義上でもいうまでもない事ですが、法律の上でもわれわれはそういう秘密を洩らすわけに行かなくなって居るのです」
(平凡な描写をすれば)相川は、しばらく、云おうか云うまいか、と頻《しき》りに考えたらしいが、結局、こう云い出した。
「それならばお話しします。さっき申した一人というのはかく申す私なのです。相川俊夫です」
「何? 君?」
「そうです。私こそ先生の小説の為に身を誤った人間の一人なのです。私はこの冬、一人の人間の生命を奪いました。人殺しをやったのです」
 読者は、私がこの時彼の正気を疑った事を無理もないと考えられるだろう。彼のようすには少しも冗談らしいところはない。否、非常に真剣なのである。だから相川俊夫が私をからかって居るとは考えられないのだ。
 私は、たしかに此の男は気が狂って居るのだな、と感じた。
 それで私は、わざと驚いたようすをせず、平気な顔をしてこう云った。
「そうですか。それはほんとですか。……では何時《いつ》何処《どこ》で、君が誰を殺したか、順序をたてて話してごらんなさい」
 私は彼がしゃべる事が必ずノンセンスだろうと思ったのである。精神病の医者でない私には、こうやったなら相手のいう話に必ず辻褄の合わぬ妙な事が出来て来ると思ったのだ。医者でない悲しさに、この際、これ以外にこんな気狂いを取り扱う方法を私は全く知らなかったのである。
「先生、きいてくれますか…………では一通りお話ししましょう」
 相川はかく前おきをして語りはじめた。
 私は念の為、周囲を見廻したがまわりは不相変すいて居る上彼の声は列車の走る音に消されて、私以外には決してきかれる恐れはなかった。
 なお先に一言つけ加えておけば、私は彼の話をきいているうちに、彼が悲しい事には(!)決して気狂いでない事を知ったのである。

          三

「初めにはっきり申しておきます。私は今から二ヶ月半ばかり前、即ちこの二月の初旬、僅か二歳になったばかりの私の娘をこの手で殺してしまったのです。これは全く間違いのない事実です。
 何故、私が我が子を殺したか? 憎くてならなかったからです。何故殺したい程憎かったか。それは、我が妻の子だったからです。我が子と私は云いました。しかし、あの赤ん坊がたしかに我が子だったかどうかは判りません。否、殺した時、私は妻の子であっても私の子ではないと信じたのです。
 私は今帰りつつある郷里(読者よ、それは偶然にも筆者の目的地と同じなのである)で、三年前にある女と結婚しました。私はおはずかしい話ですが彼女に惚れたのです。彼女も又私を愛しました。少なくも私はそう信じて居ました。
 私らが結婚する以前、私には互いに知り合いではありませんでしたが、競争者らしいものがありました。敏子――これは妻の名です――は固い家の娘なのですが、彼女の家では二階を若い男に貸して居たのです。東京生まれの水原という男が、敏子の家に居た事があります。その男が敏子に恋しているという話をきいた事があるので、水原という名は私には常に恋仇のように考えられて居たのでした。この男は私達の結婚の少し前に東京へ去りました。
 結婚までにも種々な事がありましたが、それ等は煩しくなりますから省いて、すぐ結婚生活の話に入ります。私ははじめは幸福でした。妻の家にもと居た水原の事などは全く忘れてしまった位幸福だったのです。
 ところが偶然の機会から、この幸福は全く破れてしまいました。それはたった一つの封書にすぎませんでした。結婚後暫くたってからの或る日、男文字で書かれた手紙が妻宛に来たのです。私は自分の所に一緒に来た手紙を片っぱしから開いていたので、つい、その手紙も自分のところに来たものと思い違えたのでした。無論封筒の上書きが男の字だったから、こんなことになったのでした。中から出て来たのは、水原からの手紙だったのですが、表にはっきり男の字で書いてある位ですから、中の文句だって一つもへんな事は書いてありません。
 けれど、変な事の書いてないその手紙が私には、限りなく不快だったのです。『その後御結婚|被遊《あそばされ》御幸福に御暮しの由』という第一冒頭の文句からして、気に入りませんでした。私の気もちにして見れば、私の妻は私のもので誰からも指一つさされたくないのです。私ら夫婦の間に、他の男から手紙が妻に来るなどという事は考えられなかったのです。私は、たしかに嫉妬深い男でしょう。たとえなき不愉快な数日の後、ある夜私は妻を責めて責めて責めぬいたのです。そうして水原との間について訊ねました。その時、妻はとうとう恐ろしい告白をしてしまいました。その時から私は凡ての幸福を失ってしまったのです。
 あなたは検事をして居られたから、犯人がその犯罪をどんな風に自白するか、殊に女の犯罪者がどんなにその罪を告白するか、そのいろいろな有様を知って居らるるでしょう。その夜の私の妻の告白は驚くべきものではありましたが、いざ告白という所まで決心した敏子は、実に冷静に過去の事実を述べはじめたのです。
 この告白は、或る事実を肯定したのです。彼女と水原とはかつて恋人であったというのです。いや、それ以上だったのです。よもやよもやと思っていた事が事実だったので、私は一時まっくらやみに突きこまれたようにもがきくるしみました。苦しい数日数夜を通らなければならなかったのです。はじめは、余り私が嫉妬深いので、わざと妻が私にからかって居るのではないか、と思いました。いや、むしろそうであってほしいと願ったのです。自白する妻の前で私は歎願しました。どうか今まで云った事は嘘だと云ってくれと! しかし、妻の告白は全く間違いはなかったのです。ただ敏子は、過去の罪はあくまで自分でわびるが、将来は決して左様な事はしない、
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