きひろ子が「父も知り合いの探偵をたのんだ」といつたのは林田英三のことだつたのか。
藤枝にとつても、検事にとつても林田こそは実に強敵である。
林田探偵と云えば、藤枝同様、否、あるいは藤枝以上に名のひびいた私立探偵である。
読者はあるいは知つていられるかも知れないが、林田氏の探偵方法は一種独特のもので、藤枝とは又全く異り、なんぴとの追従も許さず、あの清川侯邸の怪事件の時はおどろくべき快腕を振い、競争者たる当局を全く出しぬき、もう一人の強敵藤枝真太郎もすんでの事に出し抜かれる所だつた。あの事件では、結局藤枝が、最後の勝利を占めたとは云うものの、林田英三は藤枝と全く別な方面から犯人をあて、若しあの時偶然にも藤枝の時計が七分すすみすぎていなかつたら(これは勿論藤枝としては意外な手ぬかりだつたが)犯人の首に手をかけたのは、藤枝だつたか林田だつたかいまだに疑わねばならぬと私は信じている。
あの事件では今云つたように藤枝は手ぬかりの為に却つて成功したのだが、世人は怪魔王と呼ばれたあの浜松の殺人魔の悲惨な最後をはつきりおぼえているだろう。
表向きは、犯人は警察の捜査厳重で逃げるに道なく、大川に身を投げて自殺したという事になつているのだが、実は当局の手の充分にのびた以外に、藤枝と林田の手が両方から犯人の首にのびたのであつた。
藤枝の手におちるか、林田の手に捕われるかという所で犯人は進退きわまつて自殺したのである。
15[#「15」は縦中横]
私は林田英三の経歴を詳しく知らない。けれども、藤枝のような官僚的な過去は全くもたないらしく、某私立大学を卒業後、犯罪学にひどく興味をもち、そのまま学究として進んだなら、あるいは学位を得るのも難くはなかつたろうと云われている。ただ彼の活動的気象は終日彼を書斎にとじこめることを許さず実際の犯罪事件に手を染めさせるに至つた。
私立探偵としての彼の手腕は右にも述べた通り、並み並みのものではなく、たちまちにして彼の名は警察方面と悪人達の間に評判となつた。
私はまだ一回も彼に会つたことはない。いよいよこの事件で彼にあい得るのだ。
今や殺人犯人は藤枝と警察当局との以外に林田という大敵を向うにまわさねばならなくなつたのである。実に壮観というべきではないか。
殺人鬼を繞つて当局と藤枝と林田の描く三つ巴は如何に発展するか。好奇心をもつもの、あにただ私一人ではあるまい。
「林田英三? ではここに来られても差し支えないと伝えてくれ給え」
検事が緊張した面持で笹田執事に云つた。
「はい、あの私もあらかじめそう申し上げましてすぐこちらへお通し申すよう申したのでございますが、林田先生のおつしやるには、お調べのお邪魔をしても悪いし、又旦那様方におたずねしたいこともあるから御遠慮するということなので応接間で今旦那様とお話しておいでになります」
この事件の直後、ややおくれて登場した林田探偵は、一刻も早くそのハンディキャップを取り返すべく、すでにもう秋川駿三の訊問を開始しているものと見える。まことに、聞きしにまさる敏腕さではある。
「そうか。では、あと初江と駿太郎という人がいるがこの人人は何も知らなかつたようだから、ではと……伊達正男をよんでくれ給え」
笹田執事はかしこまつて部屋を去つた。
まもなく入口にさつきの立派な青年が姿をあらわした。
「僕、伊達正男です」
極めてはつきりした口調でそう云つて検事の示した椅子に腰をおろした。そうして検事の問に対して次のように語りはじめた。
「僕は小さい時から当家で育てられました。この家の遠い親戚なのです、父にも母にも早く別れてしまつてたつた一人ぽつちです、ここの叔父さん(彼は秋川駿三の事を叔父とよんだ、しかしこれは所謂おじさんであつて、叔父甥という程近い間ではないのだろうと思う)のお世話で、中学を出て目下某私立大学の経済学部におり、本年三月卒業したばかりですが、まだ就職口も見つからないので、大学院に籍をおいております、在学中はラグビーの選手をしておりました」
そう云つてたくましい腕をちよつとさすつて見せたのである。
「君は昨日はいつ頃ここに来たのかね」
「夕方でした。このごろ近くに一軒家をかりておりますが、夕食を皆と一緒にたべるために五時すぎにやつて来ました」
「今聞けば君は、さだ子と婚約中の人だそうだね」
「そうです」
「では夕食後、さだ子の所で話でもしていたのかね」
「は、そうです」
「ずつと夜まで?」
「いや、実は、叔母によばれまして、叔母と話しておりました」
若者の顔にはちよつと不安そうな色が浮んだ。検事はそれを見逃さなかつたらしい。
「君はその時叔母さんと何か争つていたのではないかね」
16[#「16」は縦中横]
「争い? 別に争いという程の事もありませんでしたが…」
徳子と伊達が口論をしたとは初耳だ。検事は周囲の状勢から何か推察してカマをかけているのかしら。カマとすればこれは成功だつた。
伊達正男は明らかに狼狽した。
「しかし、今ほかの方にきくと何か口論があつたようだが」
「口論て、大したことはないのです。ただ叔母さんがしきりに私にせまるものですから」
「どういうことを?」
「さだ子さんとの結婚についてです。叔母さんに云われてはじめて知つた位なんですが、何でも叔父さんは今度僕がさだ子さんと一緒になると、このうちの財産の約三分の一をさだ子さんと僕にくれることにきめているのだそうです。叔母にすれば、それが甚だけしからん、という事になるのです」
「何が」
「つまりその額がでしよう、まだたくさん子供があるのにさだ子だけに三分の一を分けるというのは不当に多すぎると云われるのです」
「それで君はなんと答えた」
「無論僕は財産なんか、目的ではない。たださだ子さんと結婚するのが目的なんだから財産なんか一文だつていらない、と云つたのです。又実際そう思つていますよ。ところが叔母にはその理窟がどうしても判らないらしいのですね。僕の結婚と三分の一の財産というものとは離るべからざる関係があるらしいのです。つまり僕がさだ子さんと結婚すればどうしても三分の一という財産がついて来るらしいのです。これは叔母が判らぬというより叔父が頑固でそう云い張るのでしよう。だから僕は、余り不愉快だから、一文もいらぬと度々云つたのです」
「そうしたら叔母はなんと云つたね」
「叔母はしまいには、この婚約を一旦、取り消してくれ、とこういうのです」
「で、君は無論反対したろうな」
「勿論です。僕はとんでもないこと、さだ子さんと自分の間には二人で堅い約束をしたことでもあり、そんな今更取り消すなんていうことは絶対にできない、とこう云いました」
「結局君はその時、何と云つて部屋を去つたんだい」
「僕は、どんなことがあつても結婚する、といいました。叔母は、どんなことがあつても断じて結婚させないと主張します。結局、双方頑張り合つたまま、別れました。そうして僕はさだ子さんの部屋に戻り今の話をしたわけです」
彼はこう云つて検事の顔をきつと見つめたが、彼が徳子との話にはいるや全く興奮したようすがあらわれていた。
「つまり叔母は君の結婚の邪魔をする、といいはつたのだね」
「まあそうです。いや、まあ[#「まあ」に傍点]じやありません。正にそうです」
「うん、そうか。では今ではその邪魔者がなくなつた、というわけだな」
検事はどういうつもりか、こう云つて伊達の顔をじろりと見た。
しかし、伊達の顔色には少しもこの言葉からの動揺は見られなかつた。
「それから君はさだ子と入れかわつたのかね」
「僕がさだ子にその話をするとさだ子は驚いて叔母の部屋に行きました」
「すると君はさだ子の部屋に一人残つたわけだね」
「そうです」
「どこに君はいたね」
この問は伊達には何のことやらちよつと判らなかつたらしい。
「さだ子さんの机の前に腰かけていました」
「すると君はさだ子の机の引出しを開けることが出来たわけだね」
17[#「17」は縦中横]
この時、伊達の顔にはさつと血の気があらわれた。
「何、なんですつて? 机の引出しを開ける? 僕、これでも紳士のつもりですよ。女の人の、ことに婚約者のいない留守にその人の秘密を知ろうなんてした事はありません。さだ子さんだつて僕がそんな事をしないと信じているから、僕を一人部屋に残して行つたのでしよう」
検事といえども容赦はしない、出方によつてうんと云いこめてくれようというようすが見えた。
「いや、そう君興奮しちや困るね、私は君が引出しを開けたか、ときいたわけじやないんだ、あけようと思えばあけ得る立場にいたのだねという意味を云つたまでだよ」
「僕、あけようなんて思つたことは……」
「それならそれでよろしい。時に君は、叔母さんが西郷薬局に風邪薬を注文したことは知つていたかね」
「全然知りません」
伊達はぶつきらぼうに云つた。
それから二、三の点について問答があつたが、やがて検事は伊達に引き取つてもいいという許しを与えた。
次によばれたのは年ははたち位の当家の女中で佐田やす子という者であつた。美人とは云えないが十人なみの容色、ただ昨夜からの椿事がすつかり彼女の気持を顛倒させている上に、検事や警部という厳《いかめ》しい役人の前に出たため、青ざめきつておどおどしていた。
彼女に対する検事の問はわりに簡単だつた。
昨日薬をとりにやらせられた話に止《とど》まつていた。
「私は御当家にまいりましてからちようど十日にしかなりませぬ。昨日の午後、時間ははつきりとはおぼえませぬが、さだ子様――二番目のお嬢様が、西郷薬局の番号を教えて下さつて、お嬢様の風邪薬をすぐ作つてくれるように電話をかけろということでございましたので、その通りに致しました。十五分ほどたちましてから、西郷薬局にまいりました。はじめての所なので、お邸で道などよくうかがつてまいりました。向うにつくと、もうできておりましたのですぐ薬を受け取り、手にもつて戻りました。ちようどお台所にさだ子様がいらしつたのですぐお渡し申し上げましたのでございます」
「君は、薬局からどこにもよらずまつすぐに戻つたかね」
「はい、どこにもよりませんでした」
「誰かに会いはしなかつたか」
ちよつとやす子はためらつたようだつた。それは質問の意味を考えているようにも見えた。
「いえ、誰にもあいませんでした」
「薬はたしかに手にもつて来たね」
「はい、手にもつておりました」
佐田やす子に対する聴取はこれで終つた。
次いで笹田執事がよばれて、種々きかれたけれども、この老人は薬の件については何も知らぬようで、あまり要領を得ず、このききとりもまもなく終つた。
「じや今日はこれ位で引き上げようじやないか」
検事は、秋川家で骨を折つて作つてくれた飲物や茶菓子には一指もふれず、ただ茶を一杯のんだきりで警部をうながした。
「いずれは解剖の結果もきかねばならないが、ともかく今日はこれで……」
検事の一行は、秋川駿三に送られて玄関にと出た。
藤枝も私もそれを送つて玄関まで行つたが裁判所の自動車が門外に走り出ると、主人に案内されてわれわれ二人はそばの応接間にと通されたのである。
秋川一家と惨劇
1
主人に案内されて応接間に藤枝と私がはいると藤枝はいきなりそこに端然と腰かけていた四十二、三の紳士に対して、
「や、暫く」
と挨拶した。
するとその紳士も立ち上つて答えた。
「こりやお久しぶり。又あいましたね」
「おやおやお二人ともよく御承知なんですか。今私が御紹介しようと思つていた処だのに」
主人が云つた。
すると紳士が口を出した。
「いや、藤枝君には度々やられてますからよく存じていますよ」
「とんでもない。僕の方が林田君にいつも出しぬかれているんでさ」
二人とも、社交的辞令を用いているのだが、心では互に「何くそ」と考えているに違いない。
ただ私はかけ違つて、まだ此の有名な林田探偵には一回も会つたことはな
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