時あなたはすぐお父様の声だと判りましたか」
「はい」
「では、お父様が何と叫んでおられたかおぼえていますか」
「いいえ、なに分部屋もはなれておりますのでそれはよく判りませんでした」
11[#「11」は縦中横]
「よろしい、それから?」
「私は何事か容易ならぬことが起つたと感じましたので、夢中で戸の所にかけつけ鍵をあけて廊下に飛び出しました」
この時藤枝が検事の許しを得てちよつと口を出した。
「ひろ子さん、あなたは、騒ぎをきいてなんと感じましたか」
「…………」
「つまり、容易ならぬことというのは、たとえばどんなことです?」
「私、はつきりおぼえておりませんが、母がどうかしたんじやないかと考えまして」
「あなたは、お母様が風邪の薬を昨日求められたことを知つていましたか?」
「いいえ、それは母が死にましてから妹にききました」
「いや、ありがとう。失礼しました」
今度は検事がつづけた。
「ではそれからの話を」
「そこで私はねまきのまま廊下に出ますと、すぐに父の所にかけつけました。廊下では父と妹が夢中になつて母の部屋の戸を叩いておりましたが、父はねまきで妹はちやんと着物をきていました。私はわけが判りませんがともかく母の身の上に何事かおこつたと思いましたから、一緒になつて戸をこわしにかかりましたが、父がやつと一方を打ち破つたので、いそいで寝室にはいつて見ると母がゆかの上に倒れています。父があわてて抱き起しましたが、母ははつきり口がきけません」
「ちよつと待つて下さい。お母様の部屋にはあかりがついていたのですか」藤枝がまた訊ねた。
「はい。電気がついていました」
「お母様はいつも電気をつけて休まれるでしようか」
「いいえ、まつくらにして眠ります」
すると検事がひきとつて
「あの部屋には、天井に電燈が一つ、それからベッドのそばの机の上にスタンドがおいてある筈ですね。今あなたが云つたのはどつちの灯ですか」
ひろ子はちよつと考えていたが、
「天井の方の電気はたしかについていたと思いますが、スタンドの方はどうだつたかはつきりおぼえません」
「それからもう一つ。天井の電気のスイッチは、たしかドアをあけたすぐ左手の壁についていましたね」
「はい」
「すなわち、お母様のベッドの中からは手が届かない、ということになりますね。もしお母様がつけた灯とすれば――無論そう考えるべきですが――昨夜お母様は、電気を消さず、もしくは消し得ないうちに倒れたというわけですな」
ひろ子はなんのことかちよつと判らないようだつたが、につと微笑して軽くうなずいた。
「それから……?」
「父が母を抱きおこしまして、床《とこ》の中に入れたのですが、母は全身をもがいて中々静まりません。しかし私共がとび込んだのは、よく判つたらしく、皆でよぶと、ふるえる手をスタンドの方にもつて行くのです。私はもつとはつきり事情を知ろうと思つて耳に口をつけながら、
『お母様、どうなすつたのです?』とよびますと、母は目を大きく見開いて、何か云いたそうに口を動かしました。
私が耳を母の所に押しつけるように致しますとやつと母は物を申しました。たつた一|言《こと》!」
検事も藤枝も、警部も急に緊張した顔つきになつてひろ子の顔を見すえた。
秋川徳子は死の瞬間にたつた一|言《こと》[#「一言」は底本では「一言と」]、何といつたのだろう。
12[#「12」は縦中横]
「たつた一言」
ここまで来てひろ子はひよいと口をつぐんで検事と藤枝の顔を見くらべた。いつていいのかしら、と考えているように見える。
しかし検事も藤枝もひどく緊張したまま何もいわないので彼女はつづけた。
「母はその時、たつた一言『さだ子に……』と申したのでございます」
彼女はこういうと、やつと心の重荷をおろしたような表情をした。
「何? さだ子に[#「さだ子に」に傍点]? ひろ子さんそれは確かですか」
検事がいそいでいい放つた。
「ここは大切な所ですよ。さだ子に[#「さだ子に」に傍点]といわれたのはほんとに確かですか」
「私、うそは申し上げません」
ひろ子はきつぱりと答えた。
「いや、私の云うのはあなたがもしや聞き違えてはいないか、ということです。念の為にもう一度じゆうぶん思い出して下さい。お母さんは、さだ子[#「さだ子」に傍点]! と云つたのではありませんか」
「いえ、さだ子[#「さだ子」に傍点]とよんだのではございません。たしかに、さだ子に[#「さだ子に」に傍点]……と申しました」
彼女の答は前にもましてきつぱりとしていた。
「そうですか。で、あなたはそのお母さんの言葉、さだ子に[#「さだ子に」に傍点]というのをきいてなんと解釈しましたか? さだ子に……あとなんと云おうとしたと思いますか」
困惑の表情がひろ子の顔にあらわれた。
少しの間をおいて彼女は云つた。
「なにぶん、そんな騒ぎの最中ですもの、私ゆつくり考えている間はございませんでしたわ。すぐ皆して木沢さんに来て頂いたりなにかしたのですもの」
「そうですか。いや尤もです。では改めてききますが、その言葉を今からゆつくり考えてあなたはどう思います」
再び困惑の様子を彼女は表わした。
「さあ、私よく判りませんけれど、今から考えると、さだ子にすすめられてその薬をのんだのだとか、又はさだ子に薬をのまされたとかいうのじやないんでしようか」
「のまされた?」
検事はじつとひろ子の顔を見ていた。つづいて彼はおそらくこういうにちがいない。
「じや、のまされた[#「のまされた」に傍点]とお母さんが云いそうな状態がさだ子とお母さんの間にあつたのですか。毒をのまされたという状態が?」
ところが意外にも検事はこの重要な質問を留保した。これは後に藤枝が私に云つた言葉であるが、さすがにものなれた奥山検事は、相手が若い女性でしかもこちらの質問を充分緊張して警戒してきいている際、このクライマックスでそういう重大な問をうつかり発すると、相手はしばしばうそをいうものであり、捜査方針を誤らせることがあるのを充分心得ていたものと見える。
検事の質問は意外な方向にとんだ。
「きのうあなたはずつと家にいましたか」
「いいえ、用事でひるから出かけました」
彼女はこう云つてちよつと藤枝の方に目をやつた。
「そうしていつ頃帰宅しましたか」
「そうです。多分四時すぎ頃でした」
「それから夕食までは」
「夕食までずつと下の広間でピアノをひいておりました」
「お母さんは、あなたの帰宅当時どんなようすでしたか」
「母は座敷に、床《とこ》をしかずに横になつておりました」
「では、薬屋に風邪薬をとりにやつたことは少しも知りませんでしたか」
「はい、母が死ぬまで存じませんでした」
13[#「13」は縦中横]
「妹さんにさつき聞いたのですが、夕食には家族の方が全部一緒だつたそうですね」
「はい、それに伊達正男さんが加わつていました」
「伊達という人は妹さんの婚約者ですか」
「はい、左様でございます」
「いつもあなた方と一緒に食事をするのですか」
「はい。来られますといつも一緒に」
「ではこのやしきに住んでいるのではないのですな」
「最近まで邸におりましたが、この二月《ふたつき》程前から近所に小さい家を一軒借りておられます」
検事は何かちよつと考えていたが、ふと何気なく訊ねた。
「妹さんの婚約はもう余程前からですか」
「いえ、まだこの二ヶ月前ぐらいです」
「では婚約と同じ頃に伊達という人が別になつたのですね」
「はい、つまり妹が結婚致しますと伊達さんが今いる家に入るわけになるのでしよう。でも詳しいことは私よく存じませんわ」
「もう一つききますが、その婚約には御両親は無論賛成されたのでしようね」
「はい、父は大へん喜んでおりました。むしろ父の方から進めた話なのです」
「では、お母さんは?」
私は、この時のひろ子の複雑な表情を決して見逃さなかつた。
「母も……母も婚約そのものには別に反対は申さなかつたようなのでございます。ただその条件について父とは大分意見が合わなかつたようで……」
「条件というのはどういうことです」
「なんでも財産のことなんですの。なんでも父はさだ子にかなりの財産をつけて嫁にやろうと申すのでしたが、母がそれについて反対のようでございました。でも、私そういうことよく判りませんから、なんでしたら父にきいて見て下さいましな」
「お父さんには無論ききます。……では夕食後あなたは?」
「私自分の部屋にはいつて小説を読んでおりました」
「小説つてどんな本です?」
藤枝が妙な質問を発した。
ひろ子は藤枝の方を見ながら、親しそうなようすで、
「ヴァン・ダインのグリーン殺人事件という本ですの」
とかるく答えた。
「ああ Greene Murder Case ! そうですか」
藤枝はこう云つてぷかりと煙を輪にふいた。
「あなたはずつと部屋にいましたか」と検事。
「いえ、それから八時頃ちよつと母を見舞いに座敷にまいりました。すると」
「すると?」
「そこで伊達さんが何か母と話しておりますので、すぐまた部屋に戻りました」
「伊達はずつとお母さんの所におりましたか」
「まもなくさだ子の所にまいつたようでした。今度はさだ子が母の所に行つたようでした」
「ほほう。どうしてそれがわかりました」
「私が手洗いにまいりました時、さだ子の部屋の前を通りましたの。その時、ふと妹に用があるのを思い出してノックしながら戸をあけますと、中に妹がいないで伊達さんが一人椅子に腰かけておりました。で、私はさだ子はおりませんの? とききますと、今お母様の所に行つているつて、伊達さんが申しました」
「その時、あなたは伊達のようすに何かへんな所を感じませんでしたか。たとえばへんにあわてた様子とか……」
ひろ子はほがらかに笑いながら答えた。
「伊達さんは、妹の許された婚約者ですもの、妹の部屋にいるのを見られたからつて、あわてなんかなさいませんでしたわ」
14[#「14」は縦中横]
「では、その後の事はききましたから、今日はこの位にしておきましよう」
ひろ子はかるく検事に挨拶し、それから藤枝と私の方に礼をしながら去つた。
「君、君がきいたあの小説は一体何だい」
検事は一息ついたという形で、新しい朝日に火をつけた。
「ありや君、有名な探偵小説だよ。グリーン家の人々が一人ずつだんだん殺されてゆくというとても[#「とても」に傍点]凄い話なんだ」
「それをあんなきれいなお嬢さんがよむのかね」
「うむ、そんなこたあちつとも不思議はないさ。この頃の令嬢の趣味は、第一にスポーツ、第二に探偵小説かね。――そうでもないかな、第三か、第四かね。しかしともかく、よく読むよ……だがグリーン事件とは」
藤枝はここで妙に考え込んでだまつてしまつた。
「いやエロとかグロとか云つて全く妙なものが流行しますよ。しかし探偵小説の流行は私等から云うと嘆かわしいですな。ことに余り作家が巧妙な犯罪を書きすぎるから、われわれの方が忙しくていかん」
こう口を出したのは高橋警部だつた。
一座は屍体のある家で捜査をしているのをちよつと忘れて、なごやかなくつろいだ気分でおおわれかかつた。
しかしこの時、あわただしく戸が開かれて白髪の老体が腰をひくく、しきりにおじぎをしながらはいつて来た。
「ええ皆様、どうもとんだ御苦労様で。私御当家に永らく執事をつとめております笹田仁蔵と申しますものでございます。この度はとんだことで何とも申し上げようもございません。旦那様が大変お力落しで、なんでもかでも犯人を捕えてやらなければ、とおつしやいまして、ええ、決して皆様だけでは足りないといふわけではございませぬが、充分の上にも充分に手配をすると申すことで、けさから、有名なあの林田英三先生に御依頼致すというようなわけで、私只今先生をお連れ申しましたばかりで留守をいたし、大変失礼をいたしました」
私はおもわず藤枝と顔を見合わせた。
さては、さつ
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