るなんてそんな事がある道理がありません。私は決してそんな疑いをもつてきいたわけではないのです」
「でも……」
「でもも何もありませんよ。そんなこと心配しないでいいんですよ。では薬局にはあなたが電話をおかけでしたか」
「いえ、女中に申しまして電話をかけさせました」
彼女の声はやつと落ち着いて来た。
「いつも私がもらつている頓服薬を、すぐに使を出すから作つてくれつてそう申してやりましたの」
「では、薬局ではあなたがおたのみになると考えたでしようね無論」
「まあそうと思います。母がのむのだとは云つてやりませんでしたから。それに木沢先生が御処方なさつた私の薬と申してやりましたから」
「使いは?」
「佐田やす子と申す、うちの女中が夕方とりにまいりまして、夕食ちよつと前に帰つてまいりました。いつもと同じ袋にはいつておりまして封がしてございました。丁度私が台所にいたので、やすや[#「やすや」に傍点]は私にその袋を渡しました。それで私はそれを一時自分の帯の間にはさんでお台所で手伝つておりました」
「その薬があなたの名であるが実はお母様がおのみになるのだという事を、あなたはその女中に話しましたか」
「いいえ――ですから女中は私がのむと思つたかも知れませぬ。母と私との話は二人きりで致しましたから、はつきり誰も知つている筈はないのでございます。姉は昨日夕方になつて帰つてまいりましたから、これもよく存じますまいけれど、母が頭痛がすると申しておりましたから、ことによつたら私のところに来た薬をのむと思つたかも知れません。でも、私は薬の話は誰にも致しませんでした。それから夕食となりましたが、私は、いつも自分がねるすぐ前にのんで発汗するのがいいので、母にもねる時のませるつもりでおりました。母も、もとより自分が進んで求めたものでもないので、忘れたのか私には催促もせず、自分で何かいつもの煎じ薬を作つておりました。それで私は夕食後自分の部屋へ戻り、帯の間の薬を自分の机の引出しに入れておきました」
「それから、ずつとねるまで部屋におられましたか?」
8
極く僅かだつたが、さだ子の顔に一種の困惑の表情が浮んだ。
「そりや、うちの中ですから時々室から出ましたけれど、たいていは部屋におりました」
「そうすると、だいたいあなたはずつと部屋にいたとすると、その薬は無論机の引出しにそのままあつたと思わなけりやなりませんね。これはただ私の思いつきですが、あなたの部屋に誰か外の人がいたことはありませんか。またはあなたが外に出ているうちに、誰かがお部屋にいたというような事は。たとえば女中さんでも……」
さだ子の顔には今度ははつきりと不思議な表情が浮んだが一瞬にしてすぐ消えた。
「……いいえ……」
彼女は小さな声で答えた。
「それから?」
「夜十一時頃私はベッドに入りましたが、その前に母の部屋にまいりました。母は父がまだ起きているので、寝室にはおらず居間に一人横になつておりましたので、薬を封じた袋のまま渡し、ねる時におのみなさいと云つて先に寝室にはいつたのでございましたが、昨夜はいつこう眠くなかつたので、もつと起きているつもりでございましたけれど、これよりおそくなりますと父がやかましいので、いちおう寝室に入りました。でも眠くないので、トマス・ハーデイの小説をよんでおりましたが、いつのまにかうとうととしたとみえ、そのままベッドの上に眠つてしまいました」
「ではお母さんの寝室にはいられた時は知らぬのですね」
「はい、全く存じませんでした。それからどの位たつたか判りませんが、ふと目をさますと、私はハーデイの本に手をのせたまま、横になつておりましたが、なんとも云えぬうなり声が聞えるのです。はつと思つて起き上るとその声はたしかに母の寝室からきこえるではありませんか。私は驚いてドアをあけ、母の寝室の前にいつてお母様、お母様と叫びましたけれども、中からは苦しそうなうなり声がきこえるばかりで、一向に戸のあくようすもありませぬ、戸をわれるように叩きましたが駄目です。それで私は隣室にねている父の方の戸を割れるようにたたきますと、父は泥棒がはいつたとでも思いましたか、手にピストルをもちながら『誰だ、誰がやられた?』と云つてとび出してまいりました」
「ちよつと待つて! 誰がやられた?」
「はい、父も無論あわてたのでしよう。誰がやられた? と申して飛び出して来ました。それで私は母の部屋をさしますと、父もそのうなり声をきいたと見え、驚いて『どうした? 徳子』と叫んでおりましたが、そのうちねまきのままでさわぎをきいてかけつけた姉も一緒に力を合わせまして戸を破つてはいりますと、母が床の上に身をくねらして苦しんでおりました。
父がいそいで抱きあげて介抱しましたが、もう唇の色が変つており、物も云えぬようでございました。ただ夢中で一方を指さしますのでその方を見ますと、さつきの薬の袋が破つてあり、中のパラフイン紙に包んであつた粉薬をのんだらしくその包紙がすててありました。早速木沢先生に来て頂いていろいろ注射などして頂きましたけれども、御承知の通り甲斐がなかつたわけでございます」
彼女がここまで語つて来た時、今までどこに行つていたか高橋警部が、不意にドアをあけて部屋にはいつて来た。それを見ると検事は、
「ではさだ子さん、今日はこれ位にしておきましよう。またききたい所があつたら後でよびますから」
といつてさだ子にもう去つていいという合図をした。
9
さだ子が書斎から姿を消すと同時に、検事は警部に向つて云つた。
「高橋君、どうだつたい。矢張り同じ事かね」
「はあ、今度は主人が帰つていましたから、直接主人について充分取り調べて来ました。しかし、どうも西郷薬局の方には間違いはないようです。警察の野原医師もそれから、この家のかかりつけの木沢[#「木沢」は底本では「野沢」]医師も同行して専門の方の調査をしていましたが、やはり向うでは間違いは起つていないようですよ。
さつきも申した通り、私はけさ早く、木沢医師から秋川徳子変死の報をきくとすぐかけつけましたが、薬の紙、その他証拠品を領置すると同時に、何より先に西郷薬局店にかけつけ同家について取り調べたのです。
かくの如き変死者の出た場合、自殺であろうと、過失死であろうと、あるいは他殺であろうといずれの場合であれ、徳子が何をのんだかという事を第一に確かめる必要があると信じましたから。
ところが薬局に行つて見ますと、生憎主人の西郷幸吉という男は昨夜、仲間の宴会があつてそれに出たまま未だ帰らぬ、という事でした。そこで数名の雇人を取り調べたのです。
それらの供述は甚だ自然でありまして、昨夕、秋川家から電話がかかつて、二女さだ子に、木沢医師が数日前に処方した風邪薬の頓服薬を一包用意してくれと云うことだつたので、無論薬局では、さだ子ののむものと信じて木沢医師処方の粉薬を作つた、電話は雇人が取りついだが直《ただち》に主人に話したので主人自ら調剤したそうです。あそこには雇人として薬剤師の免許をもつているものが二人もいるのですが、その時は主人自ら調剤したそうです。主人は無論薬剤師です。
そうして西郷薬局と書いた袋に一包の粉薬を入れ、封じて店においておくと間もなく、秋川家の女中がそれを取りに来たので、勿論なんら怪しむ事なくそれを渡したのでした。
そこで肝心の粉薬ですが、これは絶対に間違いはない。なんでもアンチピリンを|〇・《ポイント》四だけ作り、これを包に入れ『頓服一回、秋川さだ子殿木沢先生御処方』と記して渡したそうです。此の点について、店の薬剤師二人ともその時、主人が作る所を何気なく見ていたそうですが、絶対に誤なしという事です。
ところで今また行つて見ますと、主人は、帰宅した所で、うちをあけておおいに恐縮して語りましたが、そのいう所によれば全く、さきの供述と同じです。私が領置した薬用袋をもつて行つて見せましたがたしかに、それは彼自身の渡したもので、字は自身で書いたにちがいないという事です。ただ封の所が破つてありますが、封緘紙が袋についたままでいますから、どうも薬局でアンチピリンを入れたのに、途中で誰かが外のものにすりかえた、という事も考えられぬようです。西郷には後刻警察に出頭するよう一応命じておきましたが、同行した二人の医師も一応帳簿などを調べましたが、それによつても、どうも云つている事に嘘はないようです。……それから徳子の屍体のそばにあつた包紙ですがね。すぐ本庁に送つて調べて貰つていますから、もう判るでしよう」
警部が一気にこうしやべつた時、ドアが開いて女中があらわれた。
「あの、[#「あの、」は底本では「あの、 」]電話でございます――警視庁で……」
警部はいそいで立ち上つて出て行つたが、やがて暫くすると戻つて来た。
「今、包紙を調べたそうです。少し粉末がついていたのでそれを調べた結果昇汞だという事が判りました。純粋の昇汞だそうです。何もまじつていないという事です」
10[#「10」は縦中横]
「昇汞? 昇汞をのんだんだね」
「鑑識課で調べた粉末はたしか昇汞だという事です。前後の状況から見て徳子の呑んだのはどうも昇汞らしいですな。野原君も木沢医師も同意見です。ことに木沢医師はかけつけた時、徳子の苦しみ方や、嘔吐の模様からして、昇汞じやないかと感じたそうです。なんでも二ヶ月程前に牛込のある病院で、看護婦が昇汞で自殺した時にかけつけたそうですが、その時の看護婦の様子とよく似ていたと云つていました」
「無論屍体解剖をやれば明白になることだが、昇汞嚥下は先ず間違いなしだね。自殺ではないらしい。自殺とすれば徳子がどうして昇汞を手に入れたかを先ず考えなければならん。又、同時に、それなら西郷薬局から届けた筈のアンチピリンがどこかに残つているか、あるいは両方とも徳子の胃にはいつたとしても、アンチピリンを包んだ紙が残つていなければならない。今まで調べた所では、徳子は薬局から来た薬を何も知らずにのんだとしなけりやならん。しかし、薬局ではたしかに解熱剤を作り、これが間違いなくこの家に来たとすると、それが徳子の口にはいるまでにいつのまにか昇汞に変じたことになる」
検事はこう云つて朝日の煙をふきながら藤枝の方を見てにやりと笑つた。
「いや、もつと正確に云えばだね。西郷という男が解熱剤をまちがいなく作つたとすれば、それが袋にはいつてから、徳子の胃にはいるまでに昇汞に変つたというわけだね」
藤枝が検事に対してはじめてこう云つた。
「うん、そうだ。薬局からこの家に来るまでに変つたか、この家に来てから変つたか、これが大問題だからな」
検事がまた、にこやかに藤枝に云つた。
「じや、長女に来て貰おうか」
ふと気をかえて検事が警部にこういうか、いわないうち、ドアにノックが聞えた。検事の声に応じて開かれたドアの所には、ひろ子が美しい顔をあらわしていた。
「あの、私をおよび出しになるだろうと思つてまいりましたのですが、はいりましてもよろしゆうございましようか」
ひろ子はさだ子の取調べがすんで、自分が呼ばれると思つていたのに、意外に手間どつたので、待ちかねてはいつて来たものと見える。
「ああ、あなたはひろ子さんですね。ちようど今来て貰おうと思つていた所でした。どうかこの椅子へ」
検事はこういうと朝日の喫いさしをポンと机の上の灰皿にほうりこんだ。
検事のひろ子に対する取調べも最初はさだ子に対すると同じく、主として駿三の供述に従つたもので、一応その供述を簡単に彼女に述べたのだが、ひろ子の答も大抵それと同じであつた。
「では、昨夜あなたが騒ぎで起された所から話して下さい」
「私が昨夜床に入りましたのは多分十時頃だつたかと思います。いつも枕に頭をつけるとすぐ眠る習慣なので、昨夜もそのまま眠つてしまいましたが、夜半《よなか》にふと目がさめました。後から考えますと、これはつまり父と妹が母のねまの戸を叩いていた音の為に起されたのでございましよう」
「その
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