うと思つているのです」
 検事はこう云つて駿三の方を見た。
「いや、そりや無論私の方から申し上げなければならん事でして……で早速お話致しますが、一言で云いますと、一体どうしてあんな事になつたものか、私にも全く判らないので弱つているのです。妻は別に平生恨まれているような事もなく……」
「いや、そう云う事はまた後でききます、昨夜奥さんの亡くなられるまでの話をうかがい度いのですよ」
「そう、妻は、二、三日前から少々風邪をひいておりましたが、別段熱もなく、すこし頭痛がすると云つていたのですが、昨日午後、どうも頭痛がして困るからと申すので、いつも家に出入をしております薬局で、西郷という家に風邪薬を注文しました。それでその頓服を求めまして、夜十二時頃、寝《しん》につく時にのんだらしいのです。私はそれより少し前、睡眠剤を大分のみましてとこに入りました。

      4

 それから、私は直ぐに深い眠りに入つたのでどの位たつたか判りませんが、物音で目をさましますと、寝室の戸を頻りに叩く音がしてさだ子が、おとうさま、大変です、起きて下さい、起きて下さいと叫んでいるのです」
「ちよつと待つて下さい。僕には少し判らないが」
「あ、そうでした、寝室の模様を少し申しておかなければならなかつたのでしたね。実は私は、このごろ大変不眠症に悩まされているので――それが為に会社も一切退いてしまつたようなわけですが、兎も角妻でも誰でも側に人がいてはどうしても眠れないのです。それで私は自分一人で寝室に眠るのです。その部屋は、この部屋(書斎)の向う側で、階段を上つて直ぐ右が私の寝室、次が妻の寝室で、これも一人で眠ります。
 それから、さつきごらんの通りの日本間を二つ程隔てた向うに、三人の娘の寝室があります。ひろ子とさだ子は各自一人でねますが、次の初江と駿太郎が一室に一緒に眠ることになつているのです。それで、私が十二時前に自分の室で薬をのみ、鍵をかけてねてしまつたので、妻がいつねたかはほんとうは判りませぬ。私は自分が睡眠剤をのんで、うとうとしはじめると間もなく隣室のドアのあく音がして、つづいて私の部屋と妻の部屋の間の戸が少しあいて妻が、お休みなさいと云うのをきいたのです。だからそれは後から考えると十二時頃だと思うのです」
「成程、それで、あなたはお嬢さんに起されてからどうしました?」
「私は直ぐにはねおきました。こりや賊がはいつたなと感じましたから、護身用のピストルをとつていきなりドアを中からあけて、
『オイ、どうしたんだ?』
 とさだ子にたずねました。
 するとさだ子は、隣室を指でさしながら、
『ほら、お母さまの室であんなうなり声が……あれ……お父様!』
 と叫んで私に取りすがるのです。私ははじめて落ち着いて妻の室の前でじつと耳をすませますと、成程、なんとも云えない異様な苦しそうな声が聞えます。私はあわてて戸を破れるようにたたきながら、
『徳子! 徳子! どうしたんだ? どうしたんだ』
 と叫びました」
「秋川さん、あなたの室から奥さんの所に行くドアにも鍵がかかつていたのですか?」
 検事はさすがに、此のデリケートな問題を極平気でたずねた。
「はあ……ちよつと妙にきこえるかも知れませんけれど……妻はやはり大変神経質なので、この頃の物騒さを知つているものですから、ねるとき、必ずそこへも鍵をかけていたのです」
「すると、夫たるあなたの室からも賊がはいるかも知れぬというわけだつたのですね。これは少々用心がよすぎるようだ」
 検事はにやりとしながらこう云うと、チラリと書記の方を見たが同時に、藤枝は私の方を妙な目つきでながめた。
「つまり、私がすぐ眠り薬をのむので、この戸は全く必要が……」
「いや、よろしい。それからどうしました?」
「私とさだ子が頻りに戸をたたきますけれども、どうしても開きませぬ。そのうち、ひろ子も此の騒ぎをきいてねまきのままかけつけました。三人で協力してドアを押しますと、その一部が裂けましたので、私はそこへ力をいれて戸を破りはじめました。やつと、中へ手をつつこみ鍵をはずして、妻の室にとび込みますと、妻は、ベッドからころがり落ち、断末魔の苦しい叫び声を立てながら床の上をはいまわつておりました。

      5

 私共三人は驚いて中にはいり、とりあえず徳子を抱き上げてベッドの中に入れましたが、もう目がひつつり、手足をもがいて身を捩るようにして苦しむばかりで全く言語は発しませんでした」
「一言も云えなかつたでしようか」
「言葉はもう一言も発し得なかつたようです。ひろ子が、お母様、どうなさつたのです? と泣き声を上げながらだきつくと、その耳に口を寄せていましたが、何か云いたそうでしたが聞えませんでした。ただ慄える手で傍を指すので、見るとスタンドの側に薬紙らしいものがもみくちやになつており、すぐわきにコップがおいてあつて、そこに半分程呑んだ水がありました。それで、私はすぐ、こりや何か毒でものんだのではないかと感じたのでした。
 いや、決して自殺とは思えません。第一妻が死ぬ理由はないのです。……それでとりあえず、かかりつけの医者の木沢さんに来てもらつたのです。時間はおぼえていませんが多分十二時半か一時頃ではなかつたでしようか。木沢さんはまもなく来られました。いろいろ介抱して応急の手当をして下さいましたが、ごらんの通り、とうとう駄目になつてしまつたのです」
 駿三はこう云い終つて一息ついた。
「だいたい判りました。そこでたずねますが、さつきあなたの云われた奥さんの風邪薬ですがね。それはあと残つていますか」
「いえ、一包の頓服とみえて、残つていたのは薬局の包装用紙だけで薬はありません」
「その頓服と云うのはなんです?……処方はいつ誰がしたのですか」
「さあ、薬は何か知りませぬが多分アンチピリンか何かでしよう。処方は特に、妻の為のものではなく、次女のさだ子が数日前発熱して頭痛がひどかつた時に、木沢さんに処方してもらつた頓服薬です。それを西郷薬局に云いつけたのです」
「では、さだ子さんの為の薬を奥さんに上げた、というわけですね」
「そうです。私共素人はよくそういう事をやりますのですが……」
 駿三は何か小言でも云われると思つたらしくおずおずしながら検事の顔色をうかがつた。
「で、どなたが薬局に命じたのです」
「うちの女中が電話でそう云つたと思います。無論、妻の命を受けてでしよう」
「そうすると、薬局では、さだ子さんの薬だと思つて調製したのでしようね」
 駿三には、何故検事がここをつつこんで来るのか、ちよつと判らなかつたらしく、
「はあ、まあそうだろうと思います」
 と軽く答えた。
「もう一つききますが、薬はむこうの者がもつて来ましたか、それともお宅の誰かが……」
「電話であらかじめ注文しておいて、うちの女中の佐田やす子というものが取りにまいりました。只今ここにお茶をもつて参つた、あれです」
「では、あなたは一応お引き取り願いましよう。で、ひろ子さんか、さだ子さんをよんで頂きたいですね」
 駿三は一礼して部屋を出て行つた。[#「行つた。」は底本では「行つた、」]
 検事は、かたわらの書記をちよつとかえりみたが、また一本の朝日を取り出して火をつけ、天井をじつとながめていた。
 藤枝は何も云わずに、あいかわらず、エーアシップをふかしつづけている。
 ノックがきこえて、まもなくそこへ、次女のさだ子が、不安そうな顔つきであらわれた。

      6

 戸口にあらわれたさだ子は、姉に劣らず美しかつた。ひろ子の顔つきを理智的な美とすれば、さだ子の顔つきは情的な美しさをもつていると云える。きれいというよりは、むしろ愛らしい顔つきで、さつき見た時、ひろ子と初江とが、共通の表情をもつているのに反し、さだ子は、父親の顔にどこか似ているが、なんとなく淋しげな色がどこかに見える。これは平生でもそうなのだろうか、あるいはこの悲劇の直後だからだろうか。
「あなたは……さだ子さんですか……二番目のお嬢さんですね。今お父様にいろいろと昨夜の事情をうかがつた所です。……さ、そこにどうかおかけ下さい。……そこで、今お父様にうかがつた所では、二、三日前からお母様が風邪をひかれた。昨日は特に頭痛が烈しかつたので西郷薬局にそう云つて薬をお求めになつたそうですね。それをねる時に呑まれてから大変苦しまれて、あなたがお父様をお起しになつたという事ですが、そうですか」
 これは検事としては異例な質問である、と私は感じた。平生検事というものはまず相手に昨夜の有様を一応きいて、供述者等の供述に互に矛盾がないかを確かめ、それから後で、いろいろきくものだと私はきいている。然るに奥山検事は今、いきなり駿三の供述をさだ子の前にはつきり云つた。
 多分これは時間を節約する為と、それからこうした一家族の一人一人を調べる時は、仮りに口を合わせようとすればあらかじめ検事の来る迄にいくらでもそれは出来る事だから、却つて一人の供述をその儘伝えたほうが便宜だから検事は此の方法を取つたものであろう。
「はいその通りでございますの」
 さだ子ははつきり答えた。
「昨夜、夕食は何時頃でしたか」
「あの、たしか六時半頃と思います」
「皆さんが御一緒でしたか」
「はい、父母と、私共姉妹弟とそれから……」
「それから?」
「伊達さんでございます」
「伊達というのは? ご親戚ですか」
「いいえ……あの……」
 さだ子は急に顔を紅く染めながらちよつと口ごもつた。
「親戚ではございませんがこちらにおります方で……私と婚約の間柄でございますの」
 彼女はこう云うと下をむいてしまつた。
「ははあ成程、そうなると、つまりあなた方ご家族以外には伊達という人が一人夕食に加わつていたわけですな。いかがでした、お母様は食慾は充分おありでしたか?」
「いいえ、父も母も少々頭痛がすると申しまして……殊に母は可成りの頭痛で殆どごはんを戴きませんでした。ただ父や私共の為に食堂に出て来たようなものでございます」
「そのとき、何か食べた物で悪かつたと思い当るものはありませんか。……お母様以外に食物にあたつたという方もないのですね」
「はい、どうもいつもと少しも違わぬような品ばかりだつたと存じます。私台所で女中を手伝つてマヨネーズソースを自分で作りましたが、料理を作る女中がおりますから、なんでしたらその女中をよんで聞いて見ましようかしら」
「いや、それではそのほうはあとできいて見ましよう。そうすると、あなたも、お母様の死の直接の原因はあの風邪薬だとお考えですか」
「はい、そうとより外考えられないのでございます」
「その風邪薬――正確にいえば、その時薬局から届けられた薬は、あなた自身の名になつていたものですな」
「はい」
「そのあなたの薬を呑み度いというのがお母様のご希望だつたのですか」
「いいえ」
 さだ子はこういつたが、この質問はすこし意外だつたらしい。

      7

 彼女は暫く何か考えているようだつたが、やがてはつきりといつた。
「あの……母が呑もうと申し出したのではございませんの。私がはじめすすめましたのです。余り頭痛がするというので私が数日前にのみました頓服薬を、のんで見たらと申したのでございました。母は、平生漢方の薬ばかりのんで西洋薬を好みませんでしたが、私が余りよくきいたのでまあ無理にすすめたのでございます。でも勿論こんなことになろうとはまるで想像もいたしませんでした。今から思いますと、私の好意が母を殺したようになりまして……」
 彼女はここまで語つて来て、母の死を嘆くのか、我が身の好意が仇となつたのを悔いるのか、俄にあふれ出る涙を歯をくいしばつてこらえているようだつた。私はこの時、検事という職業は随分罪な、職業だと感ぜざるを得なかつた。
「でも私、なんにも存じませんの! 何も存じませんの! 私が母を殺すなんて、そんなこと露ほどだつて考えたことはありません」
 突然さだ子はヒステリカルに叫ぶように検事に云つた。
「そりや勿論です。あなたがお母様をどうす
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