子をえらんだとすれば、更に奇怪なことになるんだ。……もう仕度はいいのかい。じやすぐ行こうよ」

      8

 間もなくわれわれ二人は、自動車上の人とはなつたが、車が私の家から秋川家に向つて走つている間、藤枝は急に黙り込んでしまつて、一言も私に話しかけず、頻りとシガレットをふかしていた。
 こういう場合は、いつも、彼が何か重大な考え事に耽つている時にきまつているので、私はその思索を妨げぬように何も云わぬ事にして、自分のポケットからケースを取り出して、チェリーに火をつけた。
 車が昨日のあの美しいひろ子を送つて来た、秋川家の門の処に着いた頃は、車中一杯煙草の煙だつた。
「おい君、裁判所の連中ももう来ているらしいぜ」
 彼はわざと車を門の外にとめさせて降りながら、つづいてステップに足を下ろした私にこう云いかけた。
 成程、玄関のすぐ側に一台の幌型の自動車がついている。
「あれが君、警察の車だよ。こつちにあるのはこの家の医者の車らしいね」
 玄関まで歩きながら、藤枝は、他の側《がわ》においてある二台の自動車を指した。
 外からは、ゆうべこの家に何事かあつたとは、ちよつと見えないけれども、それでも一時に自動車が三台もここについているということは、吉凶いずれかの意味とすぐとれるであろう。
 宏壮な玄関に立つと、何事もなかつたように大きな戸が堅く閉ざされていたが、ベルを押すとまもなく戸があいて、内から女中が出て来たが、その顔つきには明らかに興奮の色が見えていた。
 藤枝は、懐中から名刺を出しながら、取次の女中に
「一番上のお嬢さんに私の来た事をお伝え下さい」
 と云うと女中が丁重に、
「あの、お嬢様からのおいいつけで、先生がお見えになつたらすぐお通し申せということでございますから、どうかこちらへ」
 と云つてスリッパを二足そこにおいた。
「そうでしたか。……じや、ちよつと待つて下さい」
 こういうと彼は、私にさきに上れと手で相図をしたが、急に踵を返すと、つかつかと裁判所の自動車の処に行つた。その運転手は、さきに藤枝が検事をしていた頃からの知り合いと見えて、何か二言三言交していたが、やがて藤枝はいそいで戻つて来た。
 私はその間、自分がさきに上るわけにも行かないので、自分の名刺を女中に渡すと、しきりに女中が上れというのを遠慮しながら、藤枝がもどるまで靴の紐をときながら待つていたのである。
「やあお待ちどおさま」
 彼はこう云いながら、靴を脱ぎはじめた。
「今聞いたらね、検事局からは奥山検事が来たんだそうだ。ほら君もよく知つてるだろう。いつか牛込の老婆殺しの事件の時に君にも紹介した事がある人さ。丁度よかつたよ」
 二人は案内されるままに上ると、すぐ右手にある応接間に通されたが、まもなくやさしい絹ずれの音がして、昨日のひろ子が入口にあらわれた。
「先生、よく来て下さいました……とうとう大変な事が起りましたの……」
 彼女はこう云つたが、見ると昨日とはまつたくようすが変つていた。顔の化粧もろくろくしていないが、泣きはらした美しい眼が、彼女に更に一層のいたましい妖婉さを与えている。

   悲劇を繞る人々

      1

「とんだ事でした。ほんとにとんでもない事でした。しかし、まだお母様のおなくなりになつた原因ははつきり判らないと思いますが、あるいは何か過つて呑まれたのかも知れません。が、万一、お母様が誰かに……」
 藤枝はここまできて口をつぐんでしまつた。
 母を失つたばかりのこのやさしい女性の前で、その次の言葉をはつきり口に出す事は、さすがの女性蔑視主義者である彼にも出来なかつたらしい。
 いや、それほど、この時のひろ子の有様はいたましかつたのである。
「これは、つい余りの事に度を失つてしまつて、昨日のお礼も申し上げませんでした。それにあの小川さん、昨日はまたわざわざお送り下さいまして、私はおかげ様で無事に帰りましたけれど……母が……母がとんだ事になりまして……」
 彼女はこう云つて、またもハンケチを目にあてたのである。
「お礼どころじやありません。……私改めておくやみを申し上げます」
 私はやつとこれだけを云つたけれども、なんと云つてひろ子を慰めてやつていいか全く途方にくれてしまつた。
「もし何かこれが犯罪ならば、きつとこの藤枝が仇を討つて見せます。そうです。きつとです」
 彼が、きつとなつてこう云うとひろ子は顔を上げてたのもしそうに彼を見た。
 こういう場面によく出会《でくわ》すらしい藤枝も、ひろ子を慰めるのにはちよつと困つたとみえ、しばらく、ばつのわるいような沈黙がつづいた。
 しかしこの沈黙は折よく次の瞬間にうまく破られた。
 ドアをノックする音がきこえると同時に、入口から司法主任がはいつて来たのである。「や、藤枝さん、小川さんも御一緒ですか。暫くでした。今こちらであなたが見えるときいて待つていたところです。奥山検事が見えておられます。今屍体の現場に行つておられますから、なんでしたらすぐおいで下さい」
「いやありがとう。高橋さん、じやすぐまいりましよう」
 高橋警部の声に応じて藤枝はすぐ私をうながして立ち上つた。
 丁度そこへお茶を二つもつて来た若い女中に、ひろ子が何か云つているのにかるく挨拶しながら、二人は早速高橋警部の後について廊下に出た。
 私が、警部と藤枝のあとについて廊下に出ると、さきの二人は何か小声で話し合つていたけれども、私にははつきりきき取れなかつたが、『他殺』という一言が警部の口から出た事ばかりはききのがさなかつた。
 廊下を右に曲ると階段である。われわれはそれを上つて二階の廊下に出た。
 玄関からここまですつかり西洋間である。
 さすがに大実業家の家だけあつて実に堂々たるものだ、階段の壁の所に、ルーベンスの三人の女が立つている、なんとかいう画の写真がかかげてある。
 廊下の右手に三つばかり部屋があるらしいがみんな戸がしまつていた。
 そこを少し行くと、警部が立ち止つてふりかえりながら右側の大きなドアをかるく叩いて、
「ここです。屍体のおいてあるのは、検事もここにおられますから……」
 と藤枝に云つた。
 藤枝は幾分緊張した顔で私の方をさそうように見たが、ふと傍《かたわ》らの壁にかけてある美しい色の額をさしながら私にささやいた。
「オイ君、ゴッホだぜ。さつきのルーベンスの『ドライ・グラチェン』に気がついたかい。金持にしちやめずらしい趣味だね」

      2

 途端に右手の戸があいて、警部が先ずはいり、つづいて藤枝がさつさと中にはいつて行つた。後から私もついて行つたが、此の部屋は外見と違つて広い日本間である。二十畳もあるだろうか、見渡したところ、ちよつとお客でもする座敷らしいが、その上手の方に立派な床がとつてあつて、秋川夫人の屍体はその上に横たえられているらしく、その周囲にかねて顔を見知つている奥山検事が坐つて、かたわらの洋服の人と何かひそひそと語つているのは、おそらくは裁判所の書記ででもあろうか。
 死者に対する――殊に、ちやんとこうして形よくととのえられた屍体に対する礼儀を守つて、藤枝は小さい声で奥山検事に挨拶をしているらしいので、私は遠くの方にすわつてかるく一礼した。
 それから警部と検事と藤枝は、かたわらにいた二人の医者らしい人と屍体の手にさわつたり、顔を見たり、いろいろの事をしていたが、私にはいつこう判らないので、なんとなくそこにいるのも窮窟な気がして、またちよつと礼をして戸の外に出て、廊下の所でシガレットを取り出し火をつけようとしていると、そこへ不意にひろ子が現れた。
「おや、おはいりになりませんの」
「ええ、私にはよく判りませんから……仏様におじぎだけして出て来ました」
 いつのまにかひろ子はもう涙をすつかり拭いたと見えて、晴れ晴れとした顔つきになつていた。
「では、こちらへおいでになりません? 父も妹もおりますのよ。御紹介致しますわ。あなたや藤枝さんの事も、もうこんな事がおこつてはかくしてもおられないので、父にけさ話してしまいましたの、そうしたら父は大変喜んで御目にかかりたがつておりますわ。父は父であわてて今朝、なんでもやはり知り合いの探偵の方に来て頂くように申しておりましたのよ」
 彼女はこう云つて私をうながしながら前に進んだ。
 屍体のおいてある座敷の次の間の戸をあけながらひろ子は、
「お父様、小川さんがお見えになつてよ」
 と云つて私の方を見てにつこりほほえんだ。
 次の瞬間、私は、隣室に劣らぬ大きな日本間の敷居を跨いだが、そこにずらりと並んでいる人々を見て、ちよつとめんくらつた形だつた。
 私は、いきなりひざをつきながら、
「私が小川雅夫です」
 と丁寧におじぎをした。
 すると正面にきちんとすわつていた立派な紳士が答えた。
「お名前はひろ子から承つております。藤枝先生とご同道になつたそうで、私秋川駿三です」
 見ると、鼻下に立派な髭をたくわえた一見品のある紳士であるが、ひどく痩《やつ》れて病人のようにしか思われない。昨夜の悲劇もさる事ながら、かねてから神経衰弱にかかつていたという事もよくうなずける。
 駿三のそばに二人の美しい娘が黙つてすわつている。これらの人々は、隣室で今行われている検屍の結果如何を心配しているのだろう、皆緊張した顔をしていた。
 駿三が一人一人紹介した。
「これが次女のさだ子、次が初江です。その向うにおりますのが当家におります大学生の伊達正男です」
 娘は一人一人ていねいに礼をしたが、最後に制服で窮窟そうにすわつていた学生が、ひどく丁重なおじぎをしながら、
「僕、伊達です」
 と云つた。それは映画俳優にでもありそうな立派な男で、年は二十七八にもなろうか。

      3

 私はこの若者の立派さに驚いたけれども、同時に、いつたい此の伊達という男は、秋川家とどういう関係になつているのかしらといぶからざるを得なかつた。
 こうして秋川一家の人々と一間に並んでいるところを見ると、少くともこの家で客としての待遇を受けている人にちがいない。
 こういう学生がここに住んでいるときいていなかつたが……ははあ、判つた、ひろ子の婚約者ででもあるのかな!
 私がこんな事を考えながら、一応のくやみを述べている所へ、高橋警部がはいつて来た。
「あちらで一通り検屍も終りましたから、秋川さん、ちよつと来て下さい。検事がお目にかかり度いといつておられます」
 予期したものの如くに秋川駿三は、立ち上つた。
「はあ、ではすぐにまいります。私の書斎でお目にかかります……オイやすや、皆さんを書斎にお通ししてくれ」
 こう云つて彼は私の側を通つて座敷から出て行つた。丁度それと入れ違いに藤枝が廊下にあらわれ、室内の人々にちよつとあいさつをすると私を招くので、私は直ぐ立ち上つた。
「ここの主人の取調べがあるんだ。僕と一緒に来給え」
 駿三の書斎は今までいた部屋を出て戻つて右側、すなわち夫人の屍体のおいてある部屋の斜め向い側にあつた。
 はいると中には今、女中に導かれたばかりらしい検事が書記と何か話しながら朝日をうまそうに吸つている。高橋警部は、室にはいらずそのまま急いで出て行つた。
 部屋は洋室で、真中に大きな机が置いてあり、その上に書類がたくさん載せてあつた。そばに、卓上電話がおかれてあつたが、凡て金のかかつている事が目につくばかりで、いかにも実業家の書斎らしい。両側の本棚の中もガラス戸をのぞいて見ると、カーネギーの伝記だとか大倉男の言説だとかいうものばかり、そうでなければ、予約で売りつけられたらしい二、三十円の馬鹿値のついている出版物ばかりでうずめられ、それも、多分読んだ事はないのだろう、いかにもきちんと並べられていた。
 さつき廊下で見た美術趣味などは全然ここには感じられない。
 やがて、女中がお茶をもつて来て去ると、駿三が重々しい顔をしてはいつて来た。
「一通り、今あちらの方は取り調べました。それで、このお宅で起つた事ですから、まず御主人たるあなたに、昨夜の有様を一応おききしよ
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