ないか、もし信じていないとすれば、たとえ君が検事の前で彼の犯罪を列挙したところで、君もいう通り証拠がないんだから否認すればそれまでの事だし何でもないじやないか」
藤枝はこの時、食後の煙草をうまそうに一服すつた。
「君はあのナポレオンの気持を知らないから困るよ。林田は犯罪界のナポレオンだぜ。犯罪界のベートホーヴェンだ。少くも自分ではそう信じているのだ。俺はえらい、俺のやる犯罪は人智では決して観破されない。しかり、たとえこの藤枝真太郎にですらもね。
9
「すなわち彼はナポレオンにもウォータールーのあつた事を忘れていたのだ。しかしてこの藤枝真太郎がウエリントンたりブリューヘルたることを忘れていたんだよ」
林田のことをナポレオンに祭り上げた藤枝は俄然自身をウォータールーの将軍に擬している。こんな時、私はいつも藤枝の自惚れを子供が得意になつて威張つてる時のようにながめるのだつた。
「こういう自惚れをもつていた彼林田先生が、この僕から自分の犯罪を手にとるように指摘されては到底堪えられなかつたんだよ。ねえ君、君はよく大富豪が一朝にして没落し、その結果自殺した、という例をきくだろう。しかし、あの人たちの所謂一文なしに成り下つたというのは、プロレタリヤートの文字通りの一文なしとは大いに違うんだぜ。五十や百の金はまだ持つてるんだ。いや五百や千またはもつともつているかも知れないぜ。決して餓え死にするような状態ではない。では何故自殺するか。すなわち彼らは天下の富豪だと自ら信じ、その信仰の中に生きて来たんだ。その意識をひそかに、あるいは公に誇つていた。この唯一の誇りが一朝にしてなくなつたんだ。信仰が俄然姿を消した。彼らは、もはや一日たりとも生きてはいられないのだ。林田の心理だつて全くこれと同じ事さ。自分は日本一、否世界一の犯罪王だと信じていたんだ。そこへこの僕が現れてその誇りと自信をぶちこわしてしまつたのだ。彼たるもの、失望落胆せざるを得ないじやないか。誇りだよ。自信だよ。そして信仰だよ。これが一時に失われたのだから彼は死をえらぶより外に道はなかつたのさ。法律的には勿論自分が安全なことを知つていたろう。しかしこれはあの場合では彼を失望の淵からは救つてくれなかつたのだ」
なるほど、藤枝のいうことは一応もつともではある。しかしそれなら何故もつと早くその手を用いなかつたのだろう。
「では君、何故もと早くそれをやらなかつたんだい。君は第二の事件のあとですでに林田を疑つている。少くも第三の事件の後には君は相当の確信を得ているではないか。あの時君の推理を書いて彼につきつけてやつたら、林田はあの時自殺していただろうにね」
「そうは云えない、そう簡単には行かんよ。第一あの頃には、動機が判らなかつたために僕の方に自信がなかつた。第二、これは重大なことだが林田の心理状態を考えに入れなければならぬ。彼の心理状態はあの頃と今ではまるで違つているぜ。あの頃は終生の仇たる駿三がピンピンしていた。――もつとも弱つてはいたがともかく生きていた。だからもしあの時に僕が彼の犯罪をあばいてつきつければ、たとえ誇りを失つても、彼はヤケになつてあばれる勇気が残つている。しかるに今はどうだ。最後の目的たる駿三は一足おさきに死んでしまつた。彼は少からず力抜けているのみか、一体駿三は誰に殺されたのか、という疑惑の中にさえいる。僕はそこを狙つたんだよ。それですらあいつ、死に際に悪あがきをしやがつた。僕は実は昨夜の中に彼はおとなしく……そうだ、英雄らしく従容として死をえらぶと信じていたのだ。だから今朝電話で探りを入れたんだが、奴、自殺する道連れをえらんだんだよ。無理心中の相手にさだ子をえらんだつていうわけさ。それに、僕が昨日になつてはじめてこの手段に出たことには決して手ぬかりはないつもりだ。第三の事件以後、僕が彼を犯人なりと信じてからは、確実に秋川一家の人達を守つたつもりだ。今朝のさわぎをのぞけばね」
成程そういわれて見れば、第四の事件は殺人事件ではなし、結局、殺されたのは初江が最後ということになる。
10[#「10」は縦中横]
「これで秋川家の怪事件の物語は一通り君に説明したつもりだが、どこか判らない所があるかい」
藤枝はシガレットを立てつづけにくゆらしながらにつこりして私を見た。
「何だか、まだはつきりしないというような様子をしているね。そうそう、あれだろう、ひろ子がグリーン・マーダー・ケースをどうしてあんな時に読んでいたか、ということが不思議なんだろう」
「うん」
「それに就いては、一応あの家の人々の心理状態を説明しておかなくてはならん。僕はさつき遺伝[#「遺伝」は底本では「遣伝」]という事の恐ろしさを警察でちよつと口に出した筈だ。ほんとに恐るべきは秋川駿三に伝わつた血統だ。もつとはつきり云えば山田家のいやな血統だ。山田信之助はあの宿命的な三角形を形造ることによつて非常な不幸を生んだ。駿三はその子である。青年時代に見込まれて秋川家に入つただけあつて彼は相当な手腕家となつた。一代にして巨富を積んだ。しかも彼はやはり山田家の不幸な血をうけていたのだ。それは何というか、いわば好色とでもいうか、ともかく異性との問題については父同様の弱者であつたという事である。彼はすでに述べた通り、伊達捷平の妻と不義を働くようになつた。しかもまもなく、また他の女との間にさだ子という娘を作つてしまつたのだ。僕は、最初、三人の娘の顔を見た時に、さだ子はことによると徳子の娘ではないのじやないかとちよつと感じた。この疑いは、初江とさだ子だけがたつた一つ違いだという点で一層はつきりするが、後にひろ子の話によつて全く明らかになつた」
「ねえ藤枝、一体さだ子の母親は誰だろう」
「さあ、それは判らない。芸者かも知れない。あるいは素人かも知れない。僕には全く見当がつかない。しかしこれを知る必要がないではないか。いずれにしても駿三の過去の秘密だ。彼がかくしおおせてこの世を去つたのだ。今さら用もないのにこれをあばく必要はあるまい。そこで駿三という男はまた大体こうした男だつたんだね。一言で云えば社会的には立派な一人前の男だつた。しかし家庭の人としては全く成つていなかつたんだ、といえる。
「さて、こういう駿三が陽気な家庭を作れないということは明らかなことだ。さだ子を自分の家に入れた時、伊達正男を養育しはじめた時、必ずや夫人との間にトラブルがあつたにちがいない。もつとも、伊達正男を養育するについては無論事の真相は徳子にはいわなかつたろうが、さだ子の場合には多分事実をばらしたろう。こうやつて表向きは立派だが、駿三の家は、内面的には極めて暗い、じめじめした家庭を作つていたわけなのだ。
「駿三は、しかし過去のあの秘密におびやかされつづけて段々衰えて来た。ことに、脅迫状を受け取つてからは一層それがひどくなつてついには職を抛つようにさえなつた。ところで一番賢明で元気だつたひろ子が、家庭の秘密を嗅ぎ出したのだ。彼女は、かねてからクリミノロギーや探偵小説に興味をもつていた。自分の家の状態を考えてから彼女は今までの趣味をそのまま実地に応用して考えはじめたのだ。今までの蘊蓄を傾けて、自分の家の秘密を観破しようとしはじめたんだ。彼女の頭がどの程度に実際的であるかは、かつて僕が旅行に立つ前に君に説明したはずだ。彼女はけなげにも一つのテオリーを思いついていた。それは、脅迫状は妹さだ子によつて父に送られたものである、と。それ以来、彼女は僕の所に来るまで全然さだ子を疑い怪しんでいたんだ。
11[#「11」は縦中横]
「彼女は、そこでおよそ女の犯罪人というものについて種々の研究をはじめた。グリーン・マーダー・ケースは探偵小説ではあるが、それがいかにも自分の家とコンディションが似ている。彼女は、だから夢中になつてあの小説に読み耽り、可憐な少女の犯す殺人方法を研究していたんだよ。しかして、一度僕に釣り出されてヴァン・ダインの話をもち出すや、賢明なひろ子は逆に犯罪小説、探偵小説を自分が読んでいるという話から、妹が怪しいということを僕に暗示したのだ。君は、コンスタンス・ケントの話や、外面如菩薩内心如夜叉という言葉が彼女の口から出たのをおぼえているだろうね。更に、第三回の事件の直前、君と花壇の所で話していたことに至つては暗示でなくて明示だといつてもいい。
「第一の事件の直前、すなわち四月十七日の夜彼女はヴァン・ダインを読んでいた。何故だろう。彼女はあの日の午後、オフィスで脅迫状とそれからあの妙な電話で脅かされている。あの電話には君が出たが彼女はかたわらにいてきつと怪しんだに相違ない。そこで彼女は、一体彼女があの午後あそこにいたことを、何人が如何なる方法で知つたか、を考えていたのだ。すなわち彼女は、一番自己の境遇に似たグリーン殺人事件の中からその解決を見出そうとしていたのさ」
「うん、それでひろ子の気もちは判つた。他の人は?」
「さだ子は極めて内気な女だ。これは君も見てよく知つているだろう。けれど内気な女だがどうして心の中は中々剛情な女だよ。彼女は、姉が自分を疑つていることを充分知つている。しかも自分は自分で姉を疑つていたのだ。自分の過去についても必ずや何か秘密のあることは察していたに相違ない。彼女はしかし殺人事件に関しては屡々恋人の伊達を疑つていたこと、君にすでに話した通りだ。さて、そろそろ出かけるかね」
藤枝は、ボーイを招いて勘定をするとすぐ私を促して外に出た。
天気がいいので銀座の舗道[#「舗道」は底本では「鋪道」]は銀ブラの人達で一杯である。われわれは、いつの間にか、この物語の冒頭に記したある喫茶店の前に来てしまつた。
「ちよつとお茶をのもうか」
私はまだききたい所もあつたし、それにたつた今さんざん紅茶をのんで来ていても、藤枝がこうした場合必ずつき合う男である事を知つているので彼をさそつて見た。果して彼はすぐに私の申し出に応じた。
四月十七日に腰かけたと同じボックスがあいていたのでわれわれはまた差し向いになつた。
「いや、君の説明でやつとこんどの事件がわかつたよ。まだしかし一つ判らんことがある」
「何だい」
「第一回の事件直後の家族の申し立てさ。例の夫婦の寝室の鍵ね、妻の室の方からしめてあつたというがありや本当かね」
「ふん、判らないね。しかし徳子がかけておいたと思つてもよくはないかな。駿三は自分の死は仕方がない、と思つていたかも知れない。しかし家族を防ぎたかつたのだよ。だから万一、自分の室に敵がとび込んで来てもすぐに妻の室に行かれぬように徳子に注意しておいたとも考えられる。あるいはあの夜、大いに激論して妻が憤慨の意をあそこにもらしたのかも知れない。夫をシャットアウトしたんだな。しかしこの戸の事は、今となつてはさだ子の生母のことと同様、判らないね。また知る必要もないじやないか」
藤枝はエーアシップを吸いながらまた紅茶をガブガブとのんだ。
12[#「12」は縦中横]
「徳子の部屋の電気の事は?」
「うん、ありやスタンドも天井の燈も両方共ついていたと考えるべきだね。徳子は一旦床の中で薬をのんだ。そうしておもむろに電気を消そうと思つたんだろう。ところが薬のきき方が早くてどつちも消すひまがなかつたんだよ」
「それからまた一つ思い出した。里村千代だがね。あれまで伊達の捕まつたことが新聞に出なかつたのはきみも云つたように全く偶然だつたんだ。ところでもしだ、もつと早く伊達のことが出れば必ず里村ももつと早く登場したはずなんだ。それでも林田はかまわなかつたのだろうか」
「それについては僕はかつてはつきり云つたことがある筈だ。林田の方は、いつ里村が出て来てもいい用意をしていたんだよ。里村が出て来れば伊達にとつては不利だし、それに里村千代の供述なるものはちよつと当局には信用されないからね。名も知れない男から度々電話で指令が来るなんていうのはまず出たらめとしかきこえんからな。そこで君はいつこう疑問をおこして
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