いないようだが、僕がきいて見ようか。ねえ君。あの第三回目の事件の時、里村が林田の指令をうけて初江に怪しい電話をかけたろう。この電話の内容は初江が死んでしまつている限り、林田以外の人には何も知れていないわけだ。ところが林田はあの事件の直後、千代の電話の内容を正直に云つてるが何故だろうね。もつと何とでも外のでたらめが云えたわけじやないか」
「うん成程。林田はあの際、正直にいうことが一番利益だと信じてたのじやないかな」
「そうだ。そこだよ。林田は当局にできるだけうそをいわずに事を運んでいる。これが彼のずるい所さ」
 それから約二十分程われわれは雑談を交して久し振りでのんびりと休息すべく尾張町で袂を別つたのである。この時藤枝は云つた。
「稀代の犯人が世に実在するね。探偵小説の悪人がえらすぎると云つたあの言葉は取り消した方がいいかも知れんね」
 私が答えた。
「いや、その必要はあるまい。結局わが藤枝真太郎の上に出ないということが判つたよ」
      ×      ×      ×
 さて、長々とつづいて来たこの物語もこの辺で読者とお別れしなくてはならなくなつた。
 ただこの日以後の事をいささか記して筆をおきたい。
 林田の死んだあとで、さだ子の部屋から警察に引上げられた紅茶の茶碗の中には果して劇毒が発見された。
 彼が自殺した翌日、藤枝は再び警察に現れて前日説明し残した点を充分明らかにし、その為、伊達正男、早川辰吉両名については殺人の嫌疑は全く晴れるに至つた。ただ両名とも他の罪名に触れる点はあつたらしいが、藤枝の尽力によつて二人共即日釈放された。
 これで対警察の問題は解決がついた。
 林田の家は完全に調べられたが一つとして後日の証拠になるものは発見されなかつた。
 殊に林田がはたして林田文次の胤であるか、山田信之助のそれであるか、というような点については何らの書類も残つていなかつた。また林田自身の遺書らしきものも発見されなかつた。
 従つて、彼が自殺の動機は、藤枝の説を信じたためか、それとも藤枝に観破された失望の極か、その辺が全く判らない。ある人は前者なりと信じ、ある者は後者なりといつている。
 二つの中いずれかだということは判つているけれども、さてどつちかということは判らない。

      13[#「13」は縦中横]

 この問題と、さだ子の生母が何者なりや、ということは、永遠の謎である。
 里村千代から秋川駿三にあてて送られてあつた筈の多くの脅迫状も、林田の家からは発見されなかつた。無論、完全にいつのまにか焼きすてられてでもしまつたものだろう。
 里村千代の娘は一応取り調べられたけれども大したことはなくすぐ釈放された。彼女はただヒステリーの母に迫られて、心ならずもタイプライターを打つたにすぎなかつたからである。
 一番大切なのは、事件後に於ける、藤枝の秋川一家を朗かにする努力だつた。
 すでに度々記した通り秋川一家には、ひろ子とさだ子の二人しか生存しておらず、このたつた二人の姉妹がかたきの如くにらみ合つているので、まずこの気分をなごやかにさせることが、藤枝にとつては犯人捕縛以上の骨折だつた。
 彼はまず、事件の経過を姉妹の前に全部展開し、次に事件中の二人の心理をはつきりと指摘した。それから、ひろ子に対しては、その論理的な頭脳とクリミノロギーに関する知識を充分賞讃するのを忘れなかつたけれども同時に、そのさだ子に対する嫌疑の根拠なきを力説した。次いでさだ子に対しては、彼女が恋人と共に悩みぬいた労苦に満腔の同情を表わした後、如何に彼女が巧妙に林田の欺瞞にひつかかつていたかを説明した。
 こうやつてやつとのことで両者間の誤解を解いたのである。
 幸にして、好漢伊達正男の存在が、これが為には極めてよい効果を表した。
 彼は、あらぬ疑を身に受けてさんざん苦しみ抜いたが、さすがにスポーツマンらしく朗かさと明るさを失わなかつた。ただ自分のはじめて知り得た過去を思つては一時全く暗い気持になつたらしいけれども、それも間もなく回復したらしい。彼にして見れば、恋しているさだ子から疑われ、その姉のひろ子から怪まれたということは、償い難き傷手であつたろうが、すつかり姉妹の間がとけると彼は男らしくすべてを水に流してほんとうに心から明るくなり、はては自分から進んで姉妹の間を一層よりよくするようにさえ努力した。
 その結果、林田の死後三日目には、秋川家にはじめて明るい朗かな笑声がきこえるようになつたのである。
 ひろ子は、いつの間にか宏壮な邸宅と八十万の富の所有者となつてしまつた。しかし彼女はやがて間もなく実現すべき、伊達正男、秋川さだ子の結婚を機としてその富の半分を譲ることをわれわれに発表した。また里村千代の気の毒な娘に対しては、伊達が全責任を負つてやることが決定された。
 嵐の去つたあと数は減つたが、秋川家は、以前より決して不幸ではなくなつたのである。
 そこで私であるが――読者もすでに察せられるだろうけれど、実は私一人はいささか憂鬱ならざるを得ないのだ。
 大家の一令嬢としてのひろ子でさえ、ちよつとつり合えぬ私である。そのひろ子は今や数十万の巨富を擁する主人となつてしまつたではないか。
 私の心の奥にいつともなく湧いた恋心は、一たまりもなく打ち挫かれねばならぬ。
 私は彼女を、人生の一地点でクロスした美しき女性としてただ頭の中に残しておくつもりである。
 藤枝はこの事件の後、時々ぼんやり考えこんでいる私によくいうのであつた。
「そうくよくよするなよ。何が幸になり、何が不幸になるか、一寸さきはまつたくくらやみだ。また何か事件がきつと来るよ。美しいお嬢さんが持ちこんでね。そうして今度はあんなブルジョアでないのがね」と。



底本:「殺人鬼」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS No. 195、早川書房
   1955年(昭和30)年4月30日初版発行
   1995年(平成 7)年9月30日3刷発行
初出:「名古屋新聞」
   1931年(昭和6年)4月〜12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※誤植等の確認にあたっては、「殺人鬼 浜尾四郎全集第※[#ローマ数字2、1−13−22]巻」桃源社、「日本推理小説大系第4巻 大下宇陀児 浜尾四郎集」東都書房を参照した。
※仮名表記の揺れは、拗音、促音の小書き如何を含めて、底本通りにしました。
※句読点に傍点を付すか否かの不統一は、底本通りにしました。
※「里村千代子」と「里村千代」、「村井かよ子」と「村井かよ」の混在は、底本通りです。
入力:今泉るり
校正:はやしだかずこ
2005年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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