、全く驚いた。度々云つた通りあの犯罪は一見女でなければ出来ぬものだ。とすれば僕の推理は誤つていたことになるのかな。けれども一方他の事実はやはり林田を指している。さだ子と二人で二階にいた時犯罪が行われたこと、のみならず彼は変な電話がかかるちよつと前にどこかに出ている。ここで僕は頭を悩ましている所へ、翌日解剖の結果ヴェロナールが発見された。これで疑問はやつと氷解して僕は万難を排しても早く中国地方まで行かなければならぬということになつた。そこへちようどひろ子がとび込んで来たのだよ。ひろ子は君もきいた通り中々頭がいい。犯罪のおこる度にさだ子は林田と二人になつている。と気がついた所は実によかつたが、折角そこまで行つていながら、林田の方を疑わずにさだ子の方を疑つてしまつた。(ひろ子の推理第六回及び第七回参照)林田がさだ子を庇つている、と見たのは無理もないがもう一歩という所だ。林田はしかし全く成功してひろ子の目をごまかしている。ただ君にあとでひろ子の欠点を指摘した時に云つたあの二十一日の午前の会話(警部の論理第二回参照)あれは林田として少々くどすぎた。失敗だよ。彼は何でもさだ子の心配を伊達の上におこうとあせつてわざと伊達のことや早川のことをさだ子に告げなかつたのだが、あれはあの際極めて不自然に見えるじやないか。僕が林田を疑つた理由の一つにもなるものだ。ただ僕は女の直観というものをほんとうに見せつけられて驚嘆したんだよ。見給え。ひろ子は何の証拠もないのに伊達の父母は自分の父母の仇だと断じたではないか。しかも父の罪亡ぼしまでに言及している。僕は全くおどろいたよ」
 私はこの時、藤枝がひろ子のあの説をきいて二度シガレットを床に落す位おどろいたのを思い出したのである。(ひろ子の推理第七回参照)
「うん、そうそう、君は驚嘆の余り二度もシガレットをおとしたぜ。殊に二度目には口にくわえていた奴を床に落しちまつたんだぜ」
「あの時は全くおどろいたんだ。彼女の Intuition に感じたのだが、二度目に僕がそんな醜態を演じたとすればそれは驚きではない。あれこそ全く Inspiration の為なんだ」
「何。インスピレーション」
「しかり、正に神の啓示! 僕はあのひろ子の断言をきいた途端、林田のことを考えたんだ。と同時に、こりや林田の父母が秋川家の仇じやないのかな[#「こりや林田の父母が秋川家の仇じやないのかな」に傍点]、と心に思つたんだよ。そこで旅行は一刻ものばせぬ急務となつた。その留守をどうするか。僕の留守がかなり心配なのさ。

      6

「しかし、僕が旅行のできない程心配ではなかつたんだ。この理窟が判るかい」
「さつぱり判らないな」
「相手が林田だからだよ。さつき警察ではちよつと云いにくかつたがね、林田は検事や警部なんか眼中においていないんだぜ。彼が好敵手と見ているのは、藤枝真太郎[#「真太郎」は底本では「信太郎」]一人だけなんだ。彼は僕の目の前で殺人をやろうという気なのだ。従つて僕の旅行の留守に殺人をやる気にはおそらくなるまいと思つたのだが、果してその通りだつた。それにしてもこの安心は絶対的のものではない。どうしようかと思つている所に警部がひろ子を疑つていることが判つた。これで僕はひろ子一人は大丈夫保護してもらえると思つたんだよ。君は僕が警部に彼の説の欠陷にもかかわらず大いにけしかけたのをひどく恨んでいるようだけれども、あれには深い仔細がある。もし警部がひろ子を拘留してしまつたらどうだい。さすがの林田もあの女には手を出せないじやないか」
 成程、これではじめて藤枝のあの時の言葉が判つた。何も知らずに憤慨した私はいささか軽率だつたかも知れない。
「警部がひろ子を拘留しない迄も、朝から晩迄ひつぱつていれば林田の乗ずるチャンスは非常に少ないことになるからね。その動機の如何を問わず林田は一番駿三を憎んでいる。従つて駿三は最後に殺される筈だ。して見れば次の被害者はひろ子かさだ子さ。だからともかくひろ子だけでも危険から離しておくつもりだつたのだ」
 彼はこう云つてちよつとだまつて私を妙な目つきでながめた。私は今更、あの時、藤枝をうらんだことを後悔せざるを得なかつた。
「旅行は全く予期以外の成功だつた。さつき僕が述べた事実がだんだん判つて来た。勿論詳しいことは判らん。何分四十年前のことで戸籍その他も不完全だから、結局村の故老にでもきくより他なかつたけれども、ほぼ僕のいつたことが判つて来たんだ。あの短時日の間にあれだけ調べることはどうして容易なものではなかつた。しかし林田がどうして秋川駿三を恨んでいるかだけはよく知れた。それから僕は伊達の方をもつとくわしく調べた。その結果、あの女の存在が判つたけれども、現在どこにいるかそれがどうしても判らん。それをたしかめている間もなかつたので急いで帰つて来た。もしや駿三が実は知つているのではないかと感じていたので、帰るや否や秋川邸に行つて駿三を調べるとあの始末。林田のいない所で駿三が死んだ。だからほんとに僕は驚いたんだが、これは殺人事件ではないと判つた」
「で、君は林田が犯人だという証拠を捕えて来たのかい」
「ところが残念ながらそれがどうしても無いんだ。そこへもつて来て林田の最後の、しかしながら最大の目的たる駿三が死んだ。さあこうなれば彼何を仕出すか判らない。では一体僕はどうすればよいか。――差し当り、あらゆる策を講じて伊達かよ[#「かよ」に傍点]の妹を捕まえなければならぬ。もしこの女が捕まればたとえ林田に会つたことはなくとも、声位おぼえているだろう。また脅迫状を送れ、とか電話を秋川邸へかけろとかいう命令を受けたことはたしかに明らかになるわけだ。そこでふと考えついたのは今まで偶然にも、伊達の嫌疑が余り新聞に出なかつたことなんだ。ねえ君、脅迫状を送つた奴はたしかに秋川駿三の仇であるに違いない。しかし正男にとつては必ず味方であるはずなんだ。

      7

「とすればだ。もし今殺人事件の為に伊達が非常に危険な状態に陷るとすれば、彼女は必ず黙視してはおられない。少くも自分が脅迫状を送つた、という事実を云わなければ伊達正男の身がいよいよ危い。だからもしこの女が死んだか、大病でない限りどうしても自分から名乗り出るだろう、とこう思いついたのだよ。それで窮余の一策として、君も御承知の通り、いつもの例に似合わずわざと新聞記者をあつめて、しやべりちらしたのだ。まさか伊達が殺人の自白をした、とはつきり僕は云わなかつたけれど、暗にそれを匂わしたんだ。新聞記者なんてものはひどく敏感でツーと云えばカーだからね。その結果、警部が立腹して僕をなじりたくなるような記事が出たんだ」
「ふん。成程。君はしかし、昨日、もう暫く待つてくれ、と云つたけれども、午後にはあの女がとび込んで来ると当りをつけたのかい」
「無論、時間なんか判らぬ。しかし今までの怪しい電話から考えて、女が東京市の内外にともかくいることが判つている。そうすれば、おそくも昨日のひるすぎには、狼狽してとび出して来ると信じていたのだ。この見込みは、正に当つて君も知つている通り、里村千代は姿を現した。しかし、残念なことに林田に対決させるひまもなく、自殺してしまつた。これで、今までのいきさつはすつかり判つたが、肝心の林田に対する証拠というものが、全くなくなつてしまつた。では一体われわれはどうすればよいか。
「蓋しこれは今まで提供された中で最大の難問題である。どの角度からながめても、林田をとつちめる方法が見つからない。目の前に犯人を見ながら手をつかねていなければならない。一方彼は非常に危険性を増している。ここで僕が最後に思いついたのが、彼を自滅させる、という一手だ。結局、僕らは彼に自殺してもらうより外に方法をもたないのだ。情無いけれどこれが法律の力の限りだよ」
 ビーフステーキの残骸をボーイが取り片付けると、藤枝は次に出て来た果物には手をつけず、すぐ紅茶を口にしつつ、つづけた。
「自殺させるたつて、これが決して生やさしい仕事じやない。まして僕自身が法律家である以上、自殺教唆を公然とやるわけにはいかん。その結果、僕の用いた手段は君が親しく見た通りだ。昨日、君と夕方別れてからの時間を利用して僕はまず僕の推理を余す所なく書き記して見た。つまり林田英三の犯罪なるものを全部書きつけてこれを封入し、君と一緒に彼の家に出かけたわけだ」
「じや、あのノンセンスだ、いやノンセンスじやない、という問題は、林田自身のことだつたのかね。僕は又伊達のことかと思つたんだが」
「そんなことはない。年を数えて見たまえ。そんなことがあり得るはずがないじやないか。正男の生れた頃には、駿三は未だ山口県にはいなかつた筈だよ」
「ふうん、成程。では林田は、君の言葉をきいて、はじめて自分の錯誤に気がついたのだろうか」
 藤枝はニヤリと笑つて私の顔をながめた。
「ねえ君、君はあの時僕がいつたことを、事実だと信じているのかい」
「だつて君は非常な自信をもつて林田にくつてかかつていたじやないか」
「しかし、あれには何の証拠もないんだよ」
 私はしばらく言葉もなかつた。
 ようやく私はいつた。
「じや、まるで君の空想なのかい。林田がいつた通り?」

      8

「空想?――空想と云えば空想かも知れない。しかし、空想が真理を云い当てていないと誰が断言できるか。僕には、あの方がほんとうだつたのじやないか、とも思われるね。証拠なんてものはつまらぬものさ。法律家が事件を裁く時に必要なものだ、議論の相手を屈伏させる時にのみ必要なものだ。それがはたして真理にあてはまつているかどうかは証拠の問題ではない。成程、僕の云つた『断じてノンセンスではない』ということには証拠はない。けれど林田の云う『ノンセンスだ』という言葉にも何も証拠はない筈だよ。何故つて君、林田自身に自分の真の父親が判るわけがないじやないか」
 藤枝はこの時妙にしんみりした口調になつて語りつづけた。
「父子、肉親! 世にこれほど大切な神秘的な重大なものでいて一方これほどたよりないものはない。君はストリンドベルクの『父』という戯曲を知つているだろう。あの父は『父親[#「父親」に傍点]には自分の子はほんとうは判らない、父親には子はないんだ』と叫んでいる。しかし子の立場から云えば、もつと情ないものじやないかな。子にはほんとうは母親すら判らないのじやないか。況んや父をやだ。君だつて、僕だつて林田だつて――否世界中の人間は、ただ父だ、母だ、と自ら名乗つてくれる人々を父と信じ母と思つている。または周囲の人々が『あれがお前の母だ、あれがお前の父だ』と云つているのを信じているばかりじやないか。『人の子には父母あり。然れどもその父母を知るよしもなし』と云いたいね。もし天一坊という人間が徳川時代にかりに存在していたとしても、だから僕はああいう悪人だつたとは思わないな。彼は人の子[#「人の子」に傍点]の代表的な不孝者だよ。彼はきつと将軍を自分の父親だと信じていたにちがいないのだ。信じていたからこそ、ああやつて名乗り出たんだろう。越前守には、それがほん物だつて偽物だつて同じことだ。どうでもよかつたのだ。……そこで林田の問題にもどる。僕は実際ああいう空想を描いた。しかし同時にそれが空想でなくほんとうであるような気がして来たんだ。林田に対してしやべつている中に、だんだん自分のいつていることが真実らしく思われて、恐ろしくなつて来た、と同時に林田英三という男が、運命という浪の中に弄ばれている気の毒な木片のように思われて来たのだ」
「でも、林田は君の意見を正しいと考え、自分がとんでもない誤りをしたからこそ自殺の決心をしたんじやないかしら」
「うん」
 藤枝の顔にはちよつと暗い影が通つたが、すぐまた明るい色に変つた。
「そう考えることは恐ろしくもあり、また満足でもある。けれどもそう思うのはいやな気がすると同時に、自惚れというものではないかという気がするよ」
「だつて彼がそう信じなけりや死のうと決心するはずがないじや
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