、その他から考えて、犯人は非常ないい頭の持主である。
[#ここで字下げ終わり]
2
「しかし、何故、僕がこれだけの点を確信したかということは今更いうまでもなく、今までの僕の言論で判るだろう。そして、ここに重大な疑問が一つ残つている。それは、犯人は如何なる力をもつてあれまでやす[#「やす」に傍点]に沈黙を守らせていたか[#「沈黙を守らせていたか」に傍点]、ということである。この点は僕にどうしても判らなかつた。しかし、意外にも早川辰吉が出現した。そして十七日に彼女に会つたことが判つたのだ」
「うん、そうそう、そう云えば君は辰吉が捕まつた日にすぐあいつに十七日にやす[#「やす」に傍点]にあつたろうときいたがあれは出たらめじやなかつたのかい」(被疑者第四回参照)
「無論出たら目ではない、やす[#「やす」に傍点]はあの日誰かに会つていたにちがいないと僕は考えていたのだ。だから辰吉の供述をきいてるうち、彼だとさとつたのさ。しかし辰吉があの犯人でないことはよく判つていた。とするとだ、佐田やすはあの日に辰吉以外にもう一人誰かに会つていたことになる、それは誰だろう、ここで僕は第一に伊達を考えたんだ。しかし、彼に何の力があつてやす[#「やす」に傍点]を沈黙せしめていたかということが判らぬ、結局これは出来ないことだという結論を得たんだ。のみならず、彼にレコードのトリックが思いつくか。あの時あのトリックを思いつき得る人間は、ひろ子か、林田か、僕自身なのだ。そこで僕はひろ子伊達共犯説をちよつと考えて見たのだがこれは後になつてそうでないことが判つた。(あらしの前第三回及び警部の論理第七回参照)こうやつて考えて行くと結局あとには林田という人間が一人残る。彼には今あげた六つの条件は全部当てはまるのみならず、大変な事を一つ思い出したのだ。それは二十日の夜秋川邸を辞する時、彼がやはりスリッパのことを云つたというのさ、さつきも云つた通りあのスリッパの一件は僕は全くの偶然から発見したんだぜ、それを林田はどうして知つたろう。僕はここでいかなる天才犯人にも盲点ということのあるのに今更気がついたのだよ。彼は自分の頭から考えてウカとあの点が僕にも判つていると思いちがえてしまつたんだ。ちようど探偵小説の作家と同じだ、自分に全部の事実が判つているものだから、読者にももう判つていると思つて肝心の説明をとばして平気で進んで行き勝ちになる。それとまるで同じ事よ。
「さて、林田が犯人ではないかなと考えて来るとどうだい、万事都合よく説明がついて来るじやないか。やす[#「やす」に傍点]子が早川辰吉と会つた後、林田がやす[#「やす」に傍点]に会つたとすれば彼ならば確かに沈黙させる方法をもつている。すなわち、さつき云つた第一テーマさ。それから彼なら従来、駿三に送られた脅迫状を見ているからそのまねをして自分で書き得る。十七日の午後に駿三が彼の所に行つているから、第二のテーマすなわち薬のすりかえも思い付く。それに彼ならば秋川家の状態が如何に犯罪に利用し易いか観てとれるだろう。しかし第二の事件の時に彼はたしかにさだ子と二階にいた筈だが。……これはかなり重大な疑問だつた。しかしこれは、考えた末、やつと解けた。あいつさだ子のアリバイを立てて実は自分のアリバイを立てているのだ。ではどうしてさだ子を沈黙させたか。さだ子が彼を充分信頼しているのは何故か。こう思つて来るとここに第一テーマが又ひびいて来たんだ。早川辰吉の供述中に、やすが自分に大変親切な方がある[#「やすが自分に大変親切な方がある」に傍点]と云つたというのがあつた、それと同じ手だとやつと悟つたのだ。君は四月二十一日に僕が秋川邸でさだ子に『それ以外に何か御心配なことがあなた御自身でも何もないのでしよう。たとえば、その後伊達君が邸内でうろうろしているのを誰かに見られたなんていうことはないんでしよう』とやつたら『そ、それは勿論でございます』とあわてて云つたけれど、明らかにあれはうそだという表情だつたが、あれをおぼえているだろうね。(あらしの前第五回参照)これで僕は一層確信を強めたんだ。
3
「林田としてはあのレコードのことを僕にきいて来たのも大失策さ。あいつ俺の音楽青年だつたことを知らないのだ」
「やはりあれも盲点の一つかね」
「うん、ともかく失敗だつたよ。さあこう考えて来ると林田が正しく犯人だ。皮肉にも彼は僕らと共に犯人を探しまわつている。ただ判らないのは、一体何のために彼が秋川一家を恨んでいるのか、ということだ。伊達の素性の方は、さきに手がまわしてあつたから大ていあの時分に判つた。駿三が君に語つた以上に僕にはあの頃になつては判つていた、ことに今から二十年前の出来事だつたから、姦通事件もほぼ今泉町の人々の口から知ることが出来たが、林田の方はさつぱり判らぬ、そこで僕はあの病気の間を利用して出来るだけ彼の素性を探らして見たけれども、東京に出てからの事は判つたが、その前の事はどうしてもはつきりしない」
「そうそう、君が病気の時に僕に三ヶ条の問題を出したつけね。第一、一番危険な場所は秋川邸内だ、と云つたね。あれはどういうんだい」(第三の悲劇第四回参照)
「もし犯人が林田だとすれば、必ずやつは秋川邸内をえらぶに違いないのだ。それはあの位えらい奴の考えそうな事なんだよ。事件を深刻にする為。ミステリーを深くする為。つまり彼の虚栄心さ。同一の邸内で殺人をつづけて行くことは極めて難しい。しかし俺はやるぞ! というつもりなんだ。ちようど自惚れの強い探偵小説家が、同一の場所で度々人を殺すのと同じさ。極めて困難な仕事だし、読者からは動きがないと批難されるだろうが、でも作者はこの一番困難な作を完成しようとするつもりなのさ。外でやればほんとの犯人にとつても作者にとつてもわけはないのだがね。林田にはやはり自信と自惚れと、しかして稚気とがあつた。林田ならきつとわざと困難な方を選ぶと僕は思つたんだ。のみならず、秋川の家族に嫌疑を蒙らせるのにも都合がいいからな」
「では第二、誰でも一応疑えというのは、君は林田をも疑つていたということだね」(同上参照)
「そうさ。しかして第三の伊達が警察にとめられている限り殺人事件はおこらぬ、というのは、伊達が犯人だという意味ではない。林田が犯人だからさ。林田はすべての殺人の嫌疑を伊達にかぶらせようとしているのだ。従つて彼が警察にとめられている間は、林田は手を下さない。伊達の行動があいまいな時をえらんで必ずあいつ、ことをするのだよ」
「僕にはどうしても判らぬことがある。君がそれだけ林田を疑つていたならば、何故、早く警察に訴え出なかつたのだ。そうすれば初江は少くも助かつたかも知れないじやないか」
「ああ、君の批難は一応もつともだけれども、二つの理由からして僕は弁解するね。第一は、今となつてこそ僕ははつきりいつているがあの当時は今思う程の自信がなかつたのだ。というのは、何故彼があんなまねをするかということが判らなかつたしすべてが一つの推理の上に立つていたからね、他のもう一つの重大な理由は僕が法律家だからさ。いいかえれば僕は法律というものがどの位力のないものかをよく知つているからだ。かりにあの時僕が彼を訴える。しかし、一体どこに彼を犯人だと名指す証拠があるか? そもそも何を証拠に彼を弾劾できるか、なるほどさだ子は林田のアリバイをこわすかも知れない。しかし林田の二十日の夜のアリバイが立たぬとなつても彼が殺人犯人だといえぬことは、伊達の場合と全く同じさ。(あらしの前第一回参照)
4
「一にも証拠、二にも証拠だ。林田の犯罪には一つも直接証拠がないんだ。ねえ君、君は刑事がどうやつてすりを捕えるか知つているかい。たしかにあいつが怪しい、ホラ今あの男にあたつた、と思つてそれだけでは捕えてもだめなんだ。刑事はひそかにすりの後を尾行するんだぜ。そうして確かな証拠を握れるまでいつまでもいつまでもあとを追う。云いかえれば被害者が、ほんとに物をとられるまで、待つているんだ。僕が検事をしていた時にも、刑事が余り早くすりを捕えすぎたんで、どうしても証拠があがらず、起訴することが出来なかつた場合がいくらもある。林田はたしかに犯人に相違ない。しかも、将来に於いても誰かを殺すだろう、しかしこれだけでは、あいつを捕えることはできない。いや、あるいはあの辺で捕まれば、彼としては『待つてました』かも知れない。『では私が犯人だという証拠をあげて下さい』と来る。そうすれば警察も検事も一遍にダアだからな。それも通常の犯人ならいざ知らず、林田程の者ならばどうにでもして嫌疑から逃れることを知つているよ。証拠のない殺人! この位始末の悪いものはないんだ。」
「成程、訴え出ない理由は判つた。それにしてもそれならばせめて警部にでもその話をしておく方がよかつたのじやないかな。でなければ将来被害者たり得べき三人の娘にでも警告しておくのが正当だつたじやないか」
「君は警部のあの頃の考え方を思い出していない。のみならず警部をして確信せしめるためにはやはり確たる証拠を必要とするのだよ。警部はすなわち法律家の一人だからな。それを見せない限り、僕の云うことは寝言とより外考えられなかつたに違いない。現に今日、さだ子の首をしめたのが林田と判つていてすら警部は未だ信じ切れぬようすだつたじやないか」
「それじや娘に警告するという方は?」
「なおいけない。娘にばかりじやない、君にもかくしておかねばならなかつたんだ。君でも三人のお嬢さんたちでも皆正直すぎる。もし林田が犯人だという事を聞かされれば、君らは必ずその様子を顔色で表わしてしまう。さだ子の如きは、僕より林田を信用している関係から、あるいは僕の考えを林田に告げるかも知れない。そうすれば事はますます危険になる」
「というのは?」
「君は佐田やすが何故殺されたか知つているだろう。もしあの頃林田が自分に嫌疑がかかつていると悟れば、彼はまず第一に、あの二十日の夜、アリバイを立てさせたさだ子を殺すにちがいないんだ。さだ子がまず早速危険に陷る。だから林田を疑つていることは決して本人に悟らせてはいかん。実に秘中の秘なんだ。これで僕が自分の考えを誰にも洩らさなかつた理由が判つたろう」
「では君は怪しいと信じただけでいかんともすることが出来ず、ちようど刑事がすりを捕えるのと同じように次の被害者の出来るまで待つていたわけかい」
「じようだんじやない。人の生命は蟇口とは違うよ。いくら何でも僕は第三回の殺人を待つていたわけじやないんだ。しかし、現今の法律の立て前として、あの智力優秀な林田に対してあれ以上何が出来るか考えて見給え。僕はただ心配して最後の謎を解こうとしていたのだ。最後の謎というのは、脅迫状は一体誰から最初来たか、伊達夫婦の身寄りの者とすればその者は何処に今いるか。しかして一体林田が何故秋川家をあんなに呪つているのか、ということだ。それを明らかにすればあるいは何か確たる証拠を掴むことが出来るかも知れないと思つていたのだ。
5
「僕は一刻も早く自分で林田の故郷へ行かなくちやならんと決心した。ところへあの発熱で床につかなければならなかつた。この間に、しかし面白いことが判つた。それは早川辰吉の性質だよ。彼が変態性慾患者だということだ。(第三の悲劇第十回参照)あれで僕はますます林田犯人説のたしかな事を信じた。そうだ。林田ともあろうものが、どうしてやす[#「やす」に傍点]を殺すのにあんなにあわてたか。必ず彼の計算のどこかに誤りがあつたに相違ない。とすればどこだろう。ここにやつと解決が与えられた。すなわち林田はやす[#「やす」に傍点]の辰吉に対する気もちを誤解したのだ。しかし相変らず証拠はなく僕はただ君に注意するより外仕方がなかつたのさ」伊勢海老の皿がさがると、大きなビーフステーキが出て来たのでわれわれはしばらくその方を片付けにかかつたが、やがて藤枝は語りつづけた。
「二十五日にとうとう初江が殺されてしまつた。最初あれを聞いた時は
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