よ。いや愛すればこそ、ますます疑うというのが女の気もちなんだ。

      14[#「14」は縦中横]

「もし恋と信頼とが平行するか比例するものならば、世にこれほど幸福なことはない。しかし恋は多くの場合、疑いを生むものだ」
「だつて男を絶対に恋して信じている女があるじやないか」
「それは、恋の範囲に於いてのみ男を信じるのだ。つまり自分以外の女を愛さぬということを信じるのみで、その他の Norm を犯さぬということを信ずるのではない。又実際世の中には、恋する女の為に犯罪を行う青年が多いじやないか。君だつて恋女房のために窃盗をした男をずい分知つてるじやないか。だからそれだけ男をその方面で疑つてもいいわけじやないかね」
「藤枝君から恋愛論をきかされるとは思わなかつたね。まあその恋の気持は判つたとして林田の犯行の方はどうなつたんだい」
 検事が口を出した。
「すなわち、さだ子が一人で二階にいる五、六分の間に敢行されたのさ。彼はヴェロナールがきき目をあらわした時分にそつと風呂場にはいつた。彼はまず外から声をかけたろう。これはヴェロナールのきき目がもし未だ現れておらぬといけないからだ。中から返事がない。そこでそつと戸をあけて見ると、ヴェロナールは全く効力を表わして初江は湯につかつたままぐつすりと眠つている。まさにチャンスだ。無論林田がはいつて行こうが誰がはいつて行こうが全く気のつかぬ状態である。ここでわがジョセフ・スミス・メード・イン・ジャパンはあの The Counsel the Crown のボドキン氏の論告にあつた通りのまねをする。いきなり初江の両脚を両手で引上げたのだ。事は一瞬にして決した。(風呂場の花嫁第八回参照)彼はそれから何くわぬ顔をして二階に上り、さつき云つたようなことをさだ子にしやべつたという次第。それから、ひろ子が初江の死体を発見して大騒ぎとなつた。小川君と林田が風呂場に行く。小川君が僕に電話をかけている間に林田はヴェロナールのパラフィン紙をかくして、健胃剤を流してそのパラフィン紙を浴場でひろつたと称して警察に出し、初江の着衣の中から残りの健胃剤を探し出したということになる。どうだね。これで、第三回の悲劇の説明はついたつもりだが……」
 藤枝はいささか得意の面持で一座を見渡した。
「ねえ君、あの日僕が君と一緒に君の家に行つたら『これで僕は今までの考え方を根本的に改めなければならないかも知れん』と云つていたがありやどういうわけだい」(ひろ子の推理第一回参照)
 私は思い出して聞いて見た。
「うん、あれか。あれはあの日一日だけ僕の頭にあつた考えなんだ。これは後にいうが、僕はあの日まで、犯人は男だ[#「犯人は男だ」に傍点]と確信していたんだ。ところが、あの犯罪は断じて女の犯罪だと思つたんだ。あの時云つた通りのわけでね。(同上参照)しかし、翌二十六日に、初江の胃から健胃剤のかわりにヴェロナールが発見されたときいて僕は再び元のテオリーに戻つたんだ。だつてあんなものをのまされていては、女でなくたつて男だつて初江のそばに近づけたはずだからね。だから僕は非常な事実だと云つたんだよ」(警部の論理第三回参照)
「それにしても林田がわざわざそんな危険なスミスのまねなんかしたのは妙だね。第一回の時のようにだまつて昇汞でものませた方がたしかだつたろうがね」私がきいた。
「君は犯罪人のもつ虚栄心を知らないかい。彼には僕らがめんくらつて五里霧中でいるのが面白かつたんだよ。すばらしい殺人がやつて見たかつたのさ」

   運命の相似三角形

      1

 藤枝はちよつと黙つて茶をぐつと呑みほしたがすぐ続けてしやべりはじめた。
「さて次は五月一日の事件、第四の悲劇の説明に取りかかるはずなんだが、ここで僕は順序として何故林田があんな犯罪を行つたか。すなわち今回の連続した殺人の動機を説明しようと思う」
「そうそう、それだ。まずそれを充分に承りたいものだね」
 奥山検事が朝日をプカリプカリとふかしながら、勢いのいい声で云つた。
「恐ろしい運命のいたずらだ。宿命の三角形だ。幾世の前からさだめられた深刻な運命だ。と云えばいささか文学的になるが、科学的に説明すれば、僕らは今度の惨劇から遺伝というものの強さをしみじみと感じたのだよ。人間に自由意志なんてものはないよ。僕らはまさにデテルミニストに左袒しなければならぬ。シェークスピヤは人間に自由意志のないことをその戯曲で示した。わが大近松もまた……」
「というと、林田の父が犯罪者だつたとでもいうのかい」
 危く藤枝がまた脱線しかけたので検事が我慢しきれずに口を出した。
「そうではない。そんな意味ではない。被害者の側だよ。林田家対秋川家の問題なのさ。ねえ、僕らは秋川駿三という名を余りに考え過ぎていた。秋川駿三の血統ということを少々無視しすぎていたのだ。この問題が秋川対林田である限り、真理は永久に表面に浮んでは来ないよ。君らは秋川駿三が養子であることを御承知の筈だ。小川君、君はいつか僕のオフィスで秋川駿三が何という家から秋川家に入つたか、ということを興信録で読んだはずだつたね」
 こういわれて私ははじめてそのことを思い出したのである。(美しき依頼人第六回参照)
「秋川駿三は二十三才の時、徳子と結婚し、同時に秋川の姓を名乗つた。その以前、彼は山田駿三と云つていたのだ。(同上参照)事は今から約四十年以前、中国地方のある一寒村に於ける二つの家の悪因縁話からはじまる。ああ、君らは、あの伊達、秋川両家の話を思い出したのだね。そうだ。ちようどそれと同じようなこと、いや全く同じことが今から四十年前、伊達、秋川両家の事件から更に遡ること二十年前に、行われたのだ。所は中国の一寒村、二つの家というのは林田文次すなわち英三の父の一家と、山田信之助すなわち駿三の父の一家との間に、恐ろしい運命がいたずらをしたのだよ。宿命の三角形が形づくられたのだ。山田信之助という男は、健《たけし》、駿三という八才と五才になる男子まであるにかかわらず、林田文次の妻満子と関係してしまつたのだ。いいか。ここでも姦通劇が行われたのだぜ。そうして、二十年後の伊達捷平と同じく、この林田文次という男は当時病気で床についていたために、彼は妻の不貞を知りながらも、悲憤の涙を呑んでそれを見ていなければならなかつたのだ。しかしその結果は伊達の場合とは多少趣きをことにしている。満子が先に死んだ。自殺だと伝えられているが、あるいは夫文次にひそかに殺されたのかも知れない。何分四十年以前のでき事なので、この辺の調査は充分にできない。この点は伊達捷平の場合よりずつと調べが困難である。自殺とすれば彼女は、伊達かよ子と同じく自分の罪を悔いたのであろう。そこで残された文次はどうしたか。彼は今云つた通り当時から病身だつた。そうして妻が死んでから七年生きていたけれどもその間妻と山田信之助とを呪いつづけた。満子が死んだ時、二人の間には一才になる子があつた。これがすなわち林田英三である。

      2

「秋川一家にかかる殺人事件を惹起した呪いは決して二十年前の伊達捷平の呪いではない。
「彼の呪いは里村千代を通じて脅迫状となつて表われた。しかし、この多くの生命を犠牲にした呪詛は実に四十年以前の林田文次が山田信之助に対するものだつたのだよ。彼は妻に死なれ、もしくは妻を殺してから、一才になる英三が八才になるまで、山田信之助を呪いつづけた。すなわち自分が死ぬまで呪いつづけたのだ。幼き英三は、哀れにも幼年時代を悪魔のような呪いをふきこまれ通して育つたのだ。彼にはだから天が下に山田信之助程憎いものはなかつたのだよ」
 藤枝はチラリと私の方を見たが、私はこの時、昨日の林田と藤枝の話を思い出したのである。(最終の悲劇第四回参照)
「文次が死ぬ時に、永久に山田信之助及びその一族を呪えという遺書を残したかどうか遺憾ながら判らない。しかしそういう遺書を残すということは、あり得ることでもあり又ありそうなことだね。孤児になつた英三は親戚の手で育てられ、一方山田一家は、気もちが悪くなつたのか、まもなく岡山県に移つてしまつたんだ。英三は無事に育つて学校に入りやがて卒業した。彼はその間中、心では山田一家を呪つていたかも知れないが、ともかく自分の人生のコースをわり合にしつかりと進んで行つた。封建時代の息子なら父の仇を討つのに一生を捧げたかも知れぬが、明治に生れた彼にはそんな気もちはなかつたのだろう。しかし幼時に吹きこまれた呪いは、根強く彼の頭の中で生長して行つた。
「ところが、山田信之助は林田文次が死んでから八年程たつて病死している。当時英三は十六、七だから、彼の手がのびたわけではない。ここにおいて、恨みはその子の健《たけし》と駿三にうつつたわけだ。ところが健は、結婚して間もなく僅か二十七で一人の息子を残して死んでしまつている。これは正しく病死だ。健は駿三より三つ上だつたから健が死んだ時に駿三は二十四才、しかして英三はそれより四つ下だから二十才である。健の残した小太郎という子はどうしたかというと、十二才の時に、近所に蝉を取りに行くと云つて出たまま行方不明となり、間もなく古池の中からその死体が出たが、他殺の嫌疑なく、誤つて足を踏みはずして死んだものと認定された。何分中国の一寒村での出来事だから誰にも大した注意をひかれずにすんでしまつた。しかし今から思うと、当時私立大学を出た頃だつたからあるいは彼の手がのびたのかも判らぬ。が、これは永久に解けぬ謎さ。そこでいよいよ英三の仇は秋川家に入つた駿三及びその家族ということになつたわけだ」
「そんなら、何故もつと早く仇討に着手しなかつたのかね。まるで探偵小説みたいじやないか。ある一家を呪う犯罪人は、探偵小説の中でも一番まずい時にいつも出て来るじやないか。シャーロック・ホームズだの、フィロ・ヴァンスなんかが登場してからやり出すからいけないんだよ。林田英三だつて君のような名探偵が出て来る前にやつつけりやよかつたのに」
 検事が好い質問をした。これは私もこの時、胸にいだいた疑問であつた。
「名探偵はおそれ入るね。シャーロック・ホームズやフィロ・ヴァンスの場合はいざ知らず、我が林田英三君は現れるにはちやんと現れるべき時をえらんでいるよ。決してその点は不用意じやないよ」
「というのは、例の脅迫状の一件かい」
「そうさ。これには林田英三の心理に立ち入つて見る必要があるんだ。彼は、学校を無事に出て名探偵になつて安楽にくらしている。何もすきこのんでこんなさわぎをする必要はなかつたんだ。では何故こんなまねをはじめたか。

      3

「直接の動機は今も云つたように里村千代の脅迫状だつたんだ。これを受け取つた駿三が、この世の中でたつた一人の頼りとして林田をえらんだ。これは無論、駿三が、私立探偵として林田の功績と声名をよく知つていたからだ。そこで駿三は林田だけには過去の罪を悉く述べたのだ。駿三の白状を聞いた林田は運命の相似形をしばらく驚嘆して見つめていたにちがいない。しかも頼つて来た相手は、四十年前の宿命の三角形の一角にいるべき山田家の息子だ。この三角形の相似がどれほど彼をおびやかしたかは蓋し想像するに難くない。幼少の頃、深くほりこまれた呪いが、成人した林田の頭の中で再び息をしはじめる。彼は何者だ。私立探偵である。犯罪人を追うことによつて、犯罪を研究することによつて、彼は完全なクリミノローグになつている。しかも、自分の過去をめぐる宿命の三角形の中に、相似形が又ここに一つあらわれている。もし犯罪が行われればフレッシュな内側の三角形が無論問題になるべきで、それがため林田が関係している四十年前の三角形は巧みにかげにかくれていることが出来る。
「永年の間、眠つていた呪いが頭をもたげはじめた。加うるに犯罪学者としての彼の自信が彼をけしかけた。いざという場合にはことごとく嫌疑は脅迫状の送り主にかかる。更に加うるに秋川家のあのふしぎな家庭内の空気がある。時正に乗ずべしというわけさ」
「それにしても藤枝君、君
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