何のために一見自分に不利に見えるスリッパのことをひろ子に敢て告げたか、この三つが判らない」
と検事がきく。
「成程。君の質問の第一と第二とは共に同じテーマの上に行われたんだ。つまりありや、林田が、われわれに時間的の錯覚をおこさせようとしたのさ。もつと進んで云えば、かくの如き短時間の中に家の中にいる者があんな犯罪は行えるものではない[#「かくの如き短時間の中に家の中にいる者があんな犯罪は行えるものではない」に傍点]。という結論に達せしめようとしたんだ。僕小川君があの部屋にとび込んだ時に、レコードははじまつてから少くも一分二十秒廻転したことが実験によつて判つた。しかるに林田のトリックに従うと、あれが僅か、二十四秒しかかかつていないことになつている。(殺人交響楽第十一回参照)自惚れだけれども、林田は自分の敵の中に、この藤枝真太郎を計算していたに相違ない。しかして彼は藤枝真太郎は必ずレコードを注意してその時までの時間を計算するということを察していたに違いない。そこで林田のトリックに引つかかると、少くも僕らは、一分間という時間を誤算するわけになるのだつた。
11[#「11」は縦中横]
「一分間といえば僅かだけれどもあの際の一分間は甚だ重大である。結局、あれつぱかりの僅かの間に、家の中にいる人間が庭に出て駿太郎にあんな残酷な真似をして、何くわぬ顔して家の中に戻つてくるなんてことは全く不可能だという信念をおこさせることになるのだ。僕が林田のこの巧妙なトリックに引つかからなかつたのは、全く西洋音楽趣味のおかげだよ。僕は今まで探偵には音楽の趣味は大して必要でないと思つていたがそうでもないな。『コプラの燭台』という探偵小説の中に、ワルトシュタインソナタのことが出ていたが、あんなのは小説だと思つて馬鹿にしてたけれど、決してそうではない。駿太郎に対しては、仇の片割れで無論憎念も手伝つていてあんな残酷な真似をしたんだろうが、主たる目的は今の時間の点さ。つまり彼は非常に巧みに、素早く失神している駿太郎をはだかにして縛つたのだ。斯様なスマートさは俺でなけりやもつまい、と彼は心ひそかに笑つていたわけさ。次にスリッパの話は君の云うように如何にも彼としては失敗だつた。あれは君の云う通り云わなかつた方がいい。ところが君、林田はあれだけの天才犯人なるにもかかわらず、やはり、犯罪人の愚挙[#「犯罪人の愚挙」に傍点]をここでやつてるから面白い。彼は自分が家の中から出て、又はいつたものだから、僕がいきなり家の中の人を疑うと思つたんだね。従つてスリッパを一つ一つ調べるとこう考えたのだよ。彼は僕の頭脳をはかるのに二度失敗している。一回は馬鹿にしすぎた。一回は買いかぶり過ぎたんだ。レコードのトリックね。あれは少々僕の耳を無視した話さね。自分に音楽が判らないからと云つて僕にまで判らぬと思われちや困るよ。ショパンの葬送行進曲位は僕だつて知つている。レコードを調べなくたつてちやんと耳できいているんだ。所がスリッパの点では少々買被られちやつたよ。成程、僕としてはあの時すぐスリッパを調べるのが賢明だつたかも知れぬ。しかし探偵小説に出て来る名探偵でない限り、そんなに頭が働くものではない。君も知つてる通り、あのスリッパの件は全く偶然のきつかけで発見したんだ。(惨死体第五回参照)林田先生はこの偶然を知らなかつたのだよ」
「そうか。それでまず第二の惨劇はわかつた気がする」
私がこう云つた時、検事も警部も同感という顔をした。
「では次に第三の事件にとりかかろう。第三の事件は四月二十五日の夕方行われた。二十日から五日ある。此の間の秋川邸の人々の心の動きがまた中々興味があるけれどその辺は長くなるからとばすとして当日の模様から説明する。御承知の通り、あの頃、僕は熱を出して床についていたため、実際自分で前後の事情を見ていたわけではないが、幸い小川君が非常に詳しくその有様をおぼえていてくれたので大いに助かつた。
「あの日、林田、ひろ子、初江、小川がドライヴをした。この日、初江の胃が悪かつたという事実を木沢医師が、小川、林田の前ではつきりいつている。林田はこれをきいて又チャンスあらば、と心ひそかに考えたのだ。ドライヴは初江の胃痛の為きり上げられて、夕方四時半に四人とも帰宅した。いつも出て来る筈の笹田が出て来なかつたので、笹田はどうしたのかと林田が先ずきいた。(第三の悲劇第十二回参照)これはこの家の中で犯罪を行う以上、家の中の人々の動静を知る必要があつたからだ。ところが林田の為には幸いにも笹田はその日の午後からずつといなくなつていることが判つた。ここでいよいよ彼は決心を堅めたのだろう。
12[#「12」は縦中横]
「さてここでまた奥山君にはいやがられるが、犯罪人の個性の具体的の表現に就いて一瞥を与えて見る。さきにも云つた通りこの殺人交響楽の第一テーマが『恋する女性の心理を利用する』というものとすれば、第二の主題は『劇薬すりかえ』なんだ。第一の殺人で鮮かにこれが行われたが、林田は第三楽章でまた同じテーマのヴァリエーションを弾じている。予め心得ていてもらいたいのは林田のような男は常にその身辺に毒薬か劇薬をもつていたと考えていいということである。では彼は如何なるチャンスにこれを犠牲者にのますべきか。初江の胃がわるい、ということを知つてまず林田の心の中には犠牲者のあてがついた。勿論相手は秋川駿三以外の者ならば誰でもいい、駿三だけはできるだけ苦しめたいから、最後に殺すとして、他の家族は誰からやつつけてもいいのだが、ひろ子とさだ子を駿三の次には、あとに控えておきたい。というのは、この二人には出来るだけ嫌疑を蒙らしておかなければならぬ。見給え、その結果、彼の考えはまんまと図に当り、ひろ子はさだ子と伊達を疑い(ひろ子の推理の項参照)また警部はひろ子を疑つていた。(警部の論理の項参照)いや、彼らばかりではない、林田の創作は、もしこれが小説ならば、読者は恐らく、一応ひろ子、さだ子を疑つたに相違ないのだ。この点から云つても、初江が次の被害者になつた理由が理解出来る。そこでもとに戻つて殺人の順序をいうと、四時半に四人が戻つて来た。そこへ木沢氏がやつて来て、ポケットから散薬を取り出し、皆の前で――すなわち林田の面前で『じやこれを夕食前三十分にのんで下さい。夕食は六時ですか。じや、五時半位に一つのんで下さい』と云つた。(風呂場の花嫁第一回参照)これを林田はちやんときいていたのだ。つまり五時半に初江という人が木沢氏からもらつた薬を呑む、ということをよく心におぼえておいたに相違ない。ところで木沢氏が秋川邸を引取ると、同時に、林田が『ちよつと用があるんです、すぐ戻つて来ますよ』といつて一緒に出て行つた筈だそうですね。木沢さん」(風呂場の花嫁第一回参照)
今まで黙つてきいていた木沢氏はこの突然の質問にいささか面喰つたようだつたが、すぐ当時を思い出したと見え、はつきり答えた。
「そうでした。私がお邸を出ると一緒に林田さんも出て来ましたよ」
「どこまで一緒においででしたか」
「何、すぐ別れてしまつたんです。私はブラブラ歩いて帰りましたが、林田さんは流して来た円タクを掴えるとどこかに行きましたよ」
「さあそこだ。林田は一体どこへ行つたか」
藤枝はそういつて一座を見渡した。
「電話だ。電話のある所だ。なるべく人に聞かれないような工合にできている電話さ」
答えたのは検事だつた。
「そうだ。君の云う通りだ」
「藤枝君、今君に云われてやつと考えついたんだよ。林田はどこからか、里村千代に電話をかけて何か云わせたんだ。それでほら、初江に怪しい電話がかかつて来たわけだね」(風呂場の花嫁第一回参照)
「そうさ。その通り。五時二十分頃に、初江をよび出して彼女に次のように警告せよと云つたんだ。『木沢氏の薬をのんではいけない、危険だから。必ずのんではいけない』と。これは林田があとで検事や警部に話した通りだ。(警部の論理第三回参照)ここまでは林田はほんとうのことを云つてる。しかし彼が千代につけた智慧はこれだけではなかつたんだ。まだあとがある。『ひろ子さんの机の上に一包薬がおいてあるがあれをおのみなさい』と、これは一つの仮説だがたとえばこんな事を云つたのだろうよ。
13[#「13」は縦中横]
「そこで僕は、かねて林田の所持して懐中していた薬にはいろいろ種類があつたと考えるんだ。もし、初江が偶然にも、あの時風呂にはいらなかつたら、林田は第一の事件の如く今云つたような電話を利用して、初江に昇汞か何かを呑ませたろうと思う。ひろ子はずつと下にいたから、その間にそつと薬を机の上におけたに違いない。ところが、ひろ子と小川君がしやべり、さだ子は伊達と会つていたために、初江が偶然五時半、すなわち彼女が薬をのむ時間に、風呂にはいることになつたんだ。ここに於いて、林田はいかにも林田らしい方法を考えついた、彼はできるだけ派手に犯罪を行おうと決心した。初江はいよいよ風呂にはいることになつたが、この時不安なのでもう一度林田に相談した。この時林田は初江に『それは電話の忠告通りにした方がよろしい。そしてその薬は風呂の中ですぐのんだ方がいいでしよう』と云つたのだ。絶対に林田を信頼している初江はすぐこのトリックにひつかかつて、ひろ子の室においてあつたかどこにおいてあつたか知らぬがともかく、林田のもつて来たヴェロナールを風呂場にもつて行つてすぐ湯の中でのんだんだよ。これが五時半のこと。そこで僕は犯行はおそらく六時前後におこなわれたのだろうと思うのだ。というのは、ヴェロナールは風呂の中でのめば普通よりもききめが早い。それにしても十五分や二十分かからなければ、前後を忘れて眠つてしまうことにはならないと思う。だから林田は初江が風呂の中でヴェロナールをのんでから誰にも知れずに風呂場にとび込むチャンスをまつていたわけなのだ。ところで六時という時を中心にして見ると、人物の出入りはこうだ。伊達とさだ子が応接間にやつて来た。伊達を送つてさだ子と林田が外に出た。まもなく二人で戻つて来ている。この間には犯行は断じて行われていない。肝心なのはその直後だよ。小川君とひろ子が話していて、ひろ子がさだ子を追いやつた時こそまさに林田にとつてはチャンスだつたんだ。さだ子も二階に上ろうとする。林田は無論巧みに同意する。(風呂場の花嫁第四回参照)そうして二人が二階に上つて行つたとこう君らは思つている。僕もはじめはそうかと思つた。ところが事実はそうではない。二人二階に上つたことは上つた。しかし林田は、巧みにさだ子をさきへ室にやつて、自分がおくれた。この点についてはさだ子が少しも林田を疑つていないのみか、また林田が例の手を用いてさだ子を沈黙さしたのだ。さつきその点をさだ子にきくとやつと語つたがやはり女性の心理利用だよ。林田はさだ子をさきに上らせると『おや、伊達君が戻つて来たようだ。僕会つて来ます。あなたは先へ行つてらつしやい』と云つたそうだ。そして六、七分たつと上つて来て『伊達が用もないのに廊下の所をブラブラしている。変な調子だつた』といぶかしげに語つたそうだ。で、あとで初江が死ぬと又々林田はさだ子に伊達を疑わせて沈黙させてしまつたのだ」
「ねえ藤枝君、君はしきりと女性心理云々というけれどね。伊達とさだ子は毎日会つてるんだぜ。さだ子だつて伊達を疑えば黙つてる筈はないからきつと伊達にはつきりと訊ねるよ。そうすれば、林田の嘘はすぐばれるにきまつてるじやないか」
今度は警部がきいた。
「じや君にはまだほんとに恋をしている女性の気もちが判らないんだ。さだ子のような立場に立つものは伊達を愛してはいるが、こんなことでは林田のような奴につつかれるとかえつて林田の方を信じて恋人を疑うものだぜ。伊達と林田の云うことがちがえば、伊達の方をますます怪しむのだよ、怪しんだからつてやはり惚れてはいるがね。女が『私はあなたを愛しています』ということは『私はあなたを信じています』というのとは大いに違うんだ
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