。
「辰吉の先の情婦岡田かつの取り調べによつて、辰吉が変態性慾者だということがわれわれには判つているはずだつたね。(第三の悲劇第十回参照)やすはつまりそこがいやだつたのだけれども、実は辰吉を好いてはいたんだよ。だからこそ、がまんできなくなるまで一緒に暮していたのだが、逃げる時別に男を作つて出たわけではなかつたんだ。そこで彼女が林田に訊かれて何と答えたかというと、これは無論『もとの夫だが嫌つて逃げて来たのに追いかけられている』位に云つたにちがいない。女というものはこの場合全然惚れていても、惚れている男だとは云いにくいものだ。殊にいやな一面がある以上、彼女はこの方面の感情だけを洩らしたにちがいない。無論変態性慾者などとは云わなかつたのだ。
「ところで林田の立場だ。彼はやす[#「やす」に傍点]と話をしているうちに、時乗ずべしと感じたんだ。あの男のことだ。やす[#「やす」に傍点]が口できらつている、と主張したにもかかわらず、彼女が辰吉に惚れている点を見ぬいてしまつた。そこでこの点が大変デリケートで同時に重要なんだが、いいかね、やす[#「やす」に傍点]は口できらつていると云つたけれども実は惚れている。しかし、口できらつていると云つたのも嘘ではなかつたのだ[#「口できらつていると云つたのも嘘ではなかつたのだ」に傍点]。さすがの林田先生も僅か五分か十分の立話中、彼女の真意を観破し得なかつたのは無理もない。ここに彼の重大の失策がある。彼は『こいつ口であんなことを云つていながら実は惚れてるな』と思つちまつたんだ。実は口で云つたこともほんとだつたんだがね。そこでいよいよ時こそ至れりと感じたのさ。
「林田は、佐田やすがひそかに人目を憚つて情夫に会見し、かつ充分惚れているのを知ると(彼のこの観察が必ずしも正しくなかつたことは今いつた通りだが)よし、この機会を利用してやれ、と思い付いたのだ。彼はここで恋をしている女が如何に利用し易いかを考えたのだ[#「彼はここで恋をしている女が如何に利用し易いかを考えたのだ」に傍点]。彼は、チャンスを逃がさず、やすのもつている薬を、自分のとすりかえたのだ」
「どうやつてかえたのだい」
きいたのは検事である。
「事は極めて簡単に、しかして公然と行われた筈だ。『お前がそこにもつている薬には怪しい点があるからちよつと見せろ』位なことをいつて受け取り中を改める、そのとたんにもつていた劇薬とすりかえたのさ。やす[#「やす」に傍点]の目の前で行われたつて巧にやれば判りつこはない。第一やす[#「やす」に傍点]が目を離さず見ていたかどうかも甚だ疑わしいよ。
5
「薬がどうしてもこの時にすりかえられていなければならぬと考える理由は、後のやすの態度でも判るけれども、それ以外に、この時より外にはあの薬がすりかえられることは不可能だつたと思う理由がある。というのはあの完全に貼り付けられている封緘紙[#「封緘紙」は底本では「封縅紙」]さ。あれは完全で中味がかわつていた。これは何を意味するか。すなわち、封緘紙[#「封緘紙」は底本では「封縅紙」]はまだ糊の乾き切らぬうちに一旦はがされ、そのまま又上から貼り直されたのである。すなわち、それは西郷薬局の主人が貼りつけてからいくらも時が経つていなかつたという証拠だ。」
「だつて、それじやあとでやすが誰かに林田のことを話すかも知れないじやないか。第一やすは林田を一体何だと思つたろう」
私は疑わしい点と思われる所をはつきりときいて見た。
「やすは林田を何と思つたか判らない。無論林田はそれまでに秋川家に行つていないからやす[#「やす」に傍点]とは初対面だつたろう。そこで彼はまず自分は探偵だとまともに名乗つて脅かしただろうと思う。君は偽刑事が世に横行することを知つてるだろう。丁度やす[#「やす」に傍点]の場合のように人に見られて悪い所を見つかつた女は、こんな場合、相手が刑事とか探偵とか云えばすぐ信用してしまうものなんだよ。ことに林田は偽どころか立派な探偵だからすぐ信じるのは当然さ。そこで彼はいきなり彼女の情緒に訴えたのだ。ねえ、判るかい。『この薬はどうも怪しいが一旦お前に返しておく。ところであの男、すなわちお前の情夫はかねて怪しいとにらまれている者だ。もし万一のことがあればあの男にすぐ嫌疑がかかる。ひいてはお前の身にも悪いことがあるに違いない。だから俺がお前たちの為に、黙つていてやるから俺に会つたことも決して人に云つてはいかん』と充分おどかしておいたのだ。その夜、主人の妻が殺される。薬が毒にかわつていた。とすれば佐田やす[#「やす」に傍点]は林田を疑わずしてまず辰吉を疑うのだ。彼女は、辰吉と二人で話していた間に帯の間の薬をとりかえられたかも知れぬと考えはじめたわけさ。手にもつて帰つたなんて大嘘だよ。あれは誰にもすりかえられなかつた、という意味だ。見給え、早川辰吉はちやんと『帯の間から薬を出して私に見せたのです』といつたのだつたか僕に自白したじやないか。(被疑者第五回参照)女が恋人を犯人と信じた場合、死んでも彼女は恋人を裏切るものじやない。林田はこの心理をちやんと知つていたんだ。実さい、あいつ程女性の心理をよくつかんでいた男はないよ。余りつかみすぎたためにその色彩が強くなつた恨みはあるがね。彼こそ全く、マクベス夫人が何故夫にダンカン王を殺させたか、ということをよく知つていた男なのだ。小川君にはかつて云つたことがあるが(殺人交響楽の項参照)犯罪には必ずその犯人の心理が出る。個性が出る。秋川殺人事件の中で見逃し難いのは恋する若き女性の心理を利用する[#「恋する若き女性の心理を利用する」に傍点]というテーマがその第一楽章に出ているが、すぐつづいて第二楽章にも現れている。すなわちさだ子が……」
「まあそんな理窟はいいから、林田の犯行を説明したまえ」
藤枝のペタンテイックなおしやべりに堪りかねて検事が口を出した。
「うん、そうさ。そこで十七日に林田は薬をすりかえてさつさと帰つてしまう。それからあと、秋川家で起つた事件は御承知の通りだ。偶然にも夜になつて母とさだ子が争いはじめて、林田の予期しなかつた位うまくことがはこんだ。あの夜の事についてはひろ子の供述が一番信頼出来ると思うよ。
6
「彼女が何故あんなにおそくヴァン・ダインを読んでいたかは後に説明する。が、これは不思議なことだが、にもかかわらず事実だ。さだ子も、夜ねついた時の事は真実と云つている。それからあとの出来事は御承知の通りさ。
「十八日になつて林田はことがうまく行つたことを笹田執事の迎えで知つた。すると彼はダイ一カイノヒゲキハオコナワレタリ、云々という手紙を三通タイプライターで打つて持参し、同時に一方僕に『五月一日を警戒せよ』というあの手紙を郵送しておいて秋川邸にかけつけた。門の所で、執事をさきに中に行かせ、郵便受箱に、自分宛、僕宛、秋川駿三宛のさつきの脅迫状を投げこんだのだ。これで、あの日、僕らの所に脅迫状が来たわけが判つたろう。児戯にひとしきことだよ。(秋川一家の惨劇の項参照)ただ偶然にも彼はこの日二個のタイプライターを使つた。
「ところで十八日にかけつけた林田が何故すぐ僕らの所に来ず下で主人を調べはじめたか。これは今から思うと非常に重大な点なのだ。(悲劇を繞る人々第十六回参照)実は彼、何より先に佐田やすの様子が知りたかつたのだよ。つまり、自分のいつた言葉の効果を見極めるのみならず、自分の言葉を更に強調したんだ。林田はあの日、下でやす[#「やす」に傍点]を訊問すると称して、また一そうおどかしたのだろう。十七日の彼の言葉の力で、われわれがいきなりやす[#「やす」に傍点]を調べた時にやす[#「やす」に傍点]は既に嘘をいつた。そこへもつて来て林田が又うんとおどかしたんだ。貴様がうつかりしたことをいえば早川という男が捕まるぞ。しかしお前がだまつていれば俺がかばつていてやる、というようにもちかけたのさ。君らは、早川辰吉の供述中四月二十日にやす[#「やす」に傍点]に秋川邸の庭で会つた時、やす[#「やす」に傍点]が辰吉に自分にたつた一人親切にしてくれる人があつて自分をかばつて[#「自分にたつた一人親切にしてくれる人があつて自分をかばつて」に傍点]くれるという言葉があつたのをはつきり思い出すだろう。(被疑者第八回参照)可哀想にやす[#「やす」に傍点]は、林田が自分を利用しているとは思わず、ひたすら彼の親切に頼つていたのさ。思いは同じさだ子もまた……ということになるのだがこれは後の話だ。
「さて、林田の魔術ですつかりやす[#「やす」に傍点]はおびえてしまつて、絶対に誰にも会わなかつたと主張していたことは諸君の御承知の通り。いや高橋さんや僕が手古摺つた通りだ。
「ところが、林田の魔術が段々ときかなくなる時が来たのだ。彼ははじめは女性の心理を捕えて安心していた。それ故にこそ五月一日に第二回の犯罪をやる気でいた。それが急に二十日に行われた。何故だろう。いうまでもなく、五月一日までは待てぬ事情が起つたのだ。どこかに彼の計算のまちがいがあつたというわけなんだ[#「どこかに彼の計算のまちがいがあつたというわけなんだ」に傍点]。(殺人交響楽第七回参照)それはすなわちやす[#「やす」に傍点]の心理の動揺だ。元来、彼女は辰吉をただひたすらに恋してのみいたのでないこと、くどくも云つた通りだ。もし彼女が林田の信じた通り、絶対に辰吉に恋をしていたとすれば、ことは彼の思う通りとなり、五月一日まで犯罪がまたれていたはずなんだ。ところが、彼女は一方に於いて辰吉を嫌つていた。そこへもつて来て、警察だの僕だのにきびしく責められて来る。何もそれほど苦しんで、自分が犠牲になる必要はあるまい。いつそ、一思いに事実をぶちまけてしまおうか、とこう思いはじめたんだ。この心理の変化を、林田は早くも見てとつた。しまつた、これは自分の思つていたのと少し勝手がちがうぞ、こりやいかんとこう彼が決心したのが、丁度四月二十日の夜なんだ。いよいよ第二の悲劇の説明にとりかかるわけだが、今までの話はよく判つたろうね。佐田やすの心理はよくおぼえていてくれ給えよ」
藤枝はこう云うとかたわらの茶を一口のんで、またうまそうに煙草の煙を天井に吹いた。
7
「四月二十日の夜、僕と小川君とが秋川邸に行つた時、そしてピヤノの部屋に行つた時、あそこでは林田がやす[#「やす」に傍点]を訊問していた。いやもつと正確に云えばやす[#「やす」に傍点]を訊問している如く見えた。僕は当時無論真相を掴んでいたわけではなかつたが、ともかく、やす[#「やす」に傍点]を落すのが切迫した必要条件だと感じていたのだ。だからこそ、あの日、林田がすでに来てやす[#「やす」に傍点]を調べているときかされて、あわてたんだ。白状するがあの時は全く功名争いからあわてたんだよ。部屋にはいると、やす[#「やす」に傍点]は泣き顔をしていた。林田は、実に剛情な女だと云つて怒つた顔をしていたが、それは実は咄嗟のごまかしで、彼はやす[#「やす」に傍点]を訊問すると称してあの部屋でさし向いになり、厳重にくり返しくり返し十七日の午後の警告を説いたにちがいない。そうして彼女から、彼女があの夜、草笛の合図で辰吉に会うはずであることを探り出した。そこで彼はこう命じたのだ。合図がきこえたら誰にも知れぬように庭の隅に行つてそこから紙ツブテを投げろ、ポストの所で待つていろと書いてやれ、という命令だ。それがすんだ頃、ちようどわれわれがあの部屋にとび込んだんだよ」
「だつてあの時、林田は、君に、一つ君の腕で充分調べて見給え、何なら僕は遠慮しようか[#「何なら僕は遠慮しようか」に傍点]と云つたぜ。もし彼にえんりよさせて君がやす[#「やす」に傍点]をほんとに白状させたらどうするつもりだろう」(第二の惨劇の項参照)
私はあの時のことを思い出してたずねた。
「うん、林田には二つの自信があつたのだ。第一は、彼がさんざんおどかした直後、いくら僕が調べたつて彼女が真実を
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