「だから約束通りじやないか。つまり君の云つたように犯人は紳士協約を守つたことになる」
「そうさ。だから俺にはいよいよ判らなくなつたんだ」
藤枝の云うことの方が余程わからない。
この時、笹田執事の案内で林田があたふたとしてはいつて来た。
意外の事実
1
「藤枝君」
「林田君」
両雄はこう云つたきり、しばらくは一言も発しなかつた。
「林田君、実に意外なことが起つた。全くおどろいた。君も驚いたろう」
「うん、全く意外だ。主人がやられるとは! ほんとうに驚いたよ」
林田の顔色にも、包みかくせぬ驚愕の色が浮んでいた。
「一体どうしたつてんだい」
林田の問に対して藤枝は今までのいきさつを少しも包みかくさずに物語つた。
「ふうん、すると、主人がベッドを出てから、僅か六、七分のうちの出来事なんだな」
「そうさ。そうして犯人は確かに庭から来たものらしい。ほれ、この窓の下に足跡がある」
「犯人は、窓から忍び入つて、一撃を主人の後頭部に加えたということになるのかな。ねえ、木沢さん」
「さよう。しかし解剖して見ないことにははつきり判らんですが」
「ただ死体の著しい特徴であるこの顔面の恐怖ね。これを何と解釈するかね。林田君」
林田は暫く死体の位置と鏡と見比べていたが、
「君も考えただろうが、駿三は最後の瞬間に犯人の姿を見た――いやもつと正確に云えば、鏡中にうつつた犯人の姿を見たのじやないかな」
「そうだ。僕もまさしくそうだと思う。それにしても、駿三は余程恐ろしい相手を見たに相違ない」
「して見ると彼は自分をつけ狙つている相手の顔を知つていたのかしら」
「彼が死の直前に僕に云つた言葉を真実とすれば、彼ははつきりそれを知らんということだつたよ」
「いずれにせよ、駿三には犯人の顔が判つていたのだ。この表情は、単に今殺されかかつているという表情じやない。もつともつと深刻なものだ」
「そうだ。例えば、平生自分のよく知つている人間が意外にも犯人だつたというような場合」
林田は、暫くまた死体の位置に注意していたが突然藤枝に云つた。
「今君の話によると、駿三は、重大な書類を探しに……」
「うん、僕もすぐそれを思い出して探したがもうないんだ」
「何、ない?」
林田は驚いて藤枝の顔を見返したがやがて、
「やつぱりこの鏡の後にでもあつたのかね。死体の位置から考えると駿三は鏡の前に立つていたことになるが」
と云つた。さすがは彼、藤枝と同じ推理の上を行つている。
この時、笹田執事がまた室にはいつて来て、
「只今警察の方々が見えました」
と云いながら、あとからつづいて来た高橋警部、野原医師らに軽く会釈した。
「いよいよほつておけん。片つ端から拘束しなくては……藤枝さん、林田さん、一体これはどうしたのです」
警部はひどく機嫌が悪い。
「林田君は全く知らないんですよ、当時うちにいましたから。僕と木沢氏と小川君がこの家にいたのです」
藤枝は手短かにまた今までの話をくり返したが、面倒くさいと思つたのか、駿三の過去の秘密については余りふれず、何か駿三が重要な用を思い出して書類をとりに来たものと説明した。
2
藤枝の話を黙つて聞いていた警部の顔にはいまだかつて見たことのない儼然たる色が浮んでいた。
「そうですか。よく判りました。しかし私は今はつきり御両君に申し上げておきます。第一回の殺人事件の時は別として、その後連続して起つた惨劇はいつも必ずわれわれ皆が、または少くも誰かその一人がいる時に行われている。第二回目の場合は御両君はじめ私自身もこのうちにいた。第三回目の時は林田さん、今回は藤枝さんのいる時に行われた。もしこのままで行く時にはわれわれの信用は全く地に墜ちねばならん。いや、もうすでに落ちているかも知れない。御両君はともかく、私自身は今回の犯人が捕まらぬ時は断然辞職する覚悟です。従来は御両君の今までの功績に敬意を払い、自由に行動をとつていただいたが、今後は私は御両君を全く普通の人同様に取り扱いますから左様おふくみを願い度い。御両君を疑わぬのが私のせめてもの好意と思つて頂きたい」
この最後の言葉はかなり失礼な言といわねばならぬ。しかし今や職を賭《と》してかかつている警部の言としては当然でもあり、また一面甚だ悲痛にもきこえた。
藤枝も林田もどう思つたか判らぬが、表向は全く恐れ入つているように見えた。
「私は今日ここにいた者全部に警察に出頭して貰い度いと思う。失礼だが藤枝さんも小川さんも、それから木沢さんにもおいでを願いたい。林田さんはここにおられなかつたけれども……」
「いや、私も無論行きましよう」
「ではそう願いましよう。家族は勿論です。雇人の二人の女中は今刑事に調べさせていますが……」
この時一人の刑事がいそいではいつて来て警部の耳に何かささやいた。
警部の顔色にはちよつと驚きの表情が現れたが、
「すぐ署の方に引つぱつてくれ給え」
と云つて刑事をまた室から送り出してしまつた。
警部の言葉に従つてわれわれは一応警察に行くことになつた。警部はああ云つたものの勿論藤枝や林田を疑つているわけではないので、一足さきにひろ子とさだ子を連れて帰ることになり、あとから両探偵、木沢氏及び私に出頭するように命じた。
秋川家には、野原医師その他刑事が残り判事検事の一行を待つことになつた。
「どうもひどく立腹されちやつて閉口したよ」
と藤枝。
「うん全く。まあ参考人となつて警察へよばれる経験もやつて見るさ」
と林田は笑いながらいう。
「一体誰を警察に引張つたか君知つてるかい」
「うん、僕はさつきちらときいた。伊達だよ。刑事が女中の久や[#「や」に傍点]を訊問したら、さつき夕方伊達らしい男がいそいで台所の窓の外を通つた、というんだ。どうもあの男が夕方ひそかに来たらしい」
「何? 伊達?」
藤枝は思わず叫んだが、しばらくして何を思いついたか、
「うん、なるほど」
と一言云つた。
伊達が、牛込警察署に着いたのは七時頃だつた。
無論、参考人だし、いかに警部がああ云つても、どうしても普通の人に対するときとはちがうので、かなり鄭重に取り扱われた。
藤枝、木沢氏、私は一緒に事件当時の模様をきかれたが、誰の言にも矛盾のなかつたこと云うまでもない。
しばらくすると、警部が、さつきとはうつてかわつたいい機嫌で室にあらわれた。
3
「藤枝さん、木沢さん、いろいろ御厄介をかけましたが、今日の犯人が捕まりましたよ」
「え、犯人が捕まつた」
藤枝がきく。
「そうです。今日あの家に侵入したのは伊達正男です。あの男が夕方、ひそかにうら門からはいり台所のそばを通つて庭に行つたのです。それからあのピヤノの部屋の窓のところに来ると、駿三がうしろをむいているのに出会したのです」
「それで?」
藤枝がきく。
「それからあとの殺人については無論未だ自白はしません。しかし、彼が秋川邸に行つた事実はようやく認めましたよ」
「高橋さん。ではあなたは今回の犯人を伊達だと思うのですね」
「無論です」
「では第二回目の事件では早川辰吉を、第一回と第三回の事件ではひろ子を、しかして今度は伊達を犯人だときめられるのですな」
「藤枝さん。つまらぬ理窟はやめましようよ。いくらむずかしいことを云つたつて、犯人を捕えなければ何にもならんのですからね」
これには藤枝も一言もないらしかつた。
「伊達が夕方出かけたということはたしかなのですね」
木沢氏はおずおずしながらたずねた。
「ああ、あなたは、今朝も伊達の容態をごらんになつたんださうですね」
「はあ、床にはいつていました」
「しかし起きられぬことはなかつたのでしよう」
「そりやそうです。起きようと思えば立つてあるくことが出来た筈です」
「伊達が夕方出かけたということは、本人もはじめは中々云わなかつたんですよ。雇婆さんも、伊達から口どめされたと見えて、はじめは中々口を割らなかつたんですが、とうとうこの方から落してしまつたんです。その婆さんの言によると伊達は夕方、林田さんの見まいをうけるとまもなく、にわかに床から出て制服をつけたがちよつと出て来るからと婆さんに云いおいて、家を出たというのです。それから十二、三分ほどたつと、顔色をかえて戻つて来たが、急に婆さんをよんで、誰が来ても何も云つてはいかん、と云つたというのですよ。今、伊達に婆さんを対決させて取り調べたのですが、とうとう伊達もこの事実を認めました。おまけに秋川家の雇人で久という女中が伊達の逃げさる時の姿を見ていますから、これはもはや疑う余地はありますまい」
「それで、伊達は殺人の点を否認しているとすると、何の為に秋川家に行つたというのですか。さだ子にでも会いに行つたというわけなんですかね」
今まで黙つて問答をきいていた林田が口を出した。
「そうです。その通りです」
「それにしちや病人が急にとび出すというのはおかしいですな」
藤枝が云つた。
「そうです。だから私も無論そこを突いて見た。すると彼のいうには、実は今まで警察ではひろ子を疑つているようだつたから安心していた。すると夕方林田さんが見まいに来てくれた時、警察ではひろ子の疑いが全く晴れたという事をきかされたというのです。林田さん、ほんとうですか」
「そうですね。私が見まいに行つてやつた時、その話も出たかも知れませんよ。……ほら、小川君、君に電話をかけてから私は伊達を見まいに行つたのでね」
「それで、こりやまた自分とさだ子に疑いがかかるかも知れぬから少しも早くさだ子にこのことを告げようというので病をおして出かけた、というわけです」
4
「成程、無理はないな」
と藤枝がつぶやいた。
「ところがそれならばいつもの通り裏門からはいつて裏口から上り、二階のさだ子の部屋に行けばいいわけなのです。何故彼は庭へまわつたか、しかも雨の中をね。私はここが怪しいとにらんだから早速この点を突つこみました。伊達の弁解によれば、左様な次第で行つたのだから、なるべくさだ子以外の者には会いたくない。殊にひろ子には顔を合わせたくない。二階に行けばきつとひろ子に偶然会うことになるから、なるべくならば庭からさだ子の部屋に声をかけたかつたとこういうのです。これからが肝心のところで面白いのですよ。伊達の供述に従うと、彼は裏門から庭に廻つた。そうしてさだ子の部屋のすぐ下に来て上を見たが、成程、すぐ下からは窓は見えない。それで、うしろむきに七、八歩あるいた、とこういうのです。その時、ふと見ると、ピヤノの部屋に人かげがする、ことによるとさだ子ではないか。さだ子なら極く都合がいい、とこう思つて彼はあの部屋に近づいたのです。部屋の中が暗いので、彼は向つて右の窓の所に行き、窓に手をかけてひよいと顔を出すと、その途端に中で、ウンという妙な声がすると共に、駿三が仰向きに仆れるのが見えた。それで何事か判らないが、おどろいて、そのまま逃走した、とまあこういうのです」
警部は語り続けて、プカリと朝日の煙を吐いた。
私は藤枝か林田が何かいうかと思つたが二人とも一言も発しない。
「ところがこの供述は無論全部がほんとうではない。あの窓の所の足跡の工合から見ても、それから被害者が書類をもつていなかつた点からいつても、伊達はあの室の中に侵入していなければならない筈です。この点をどうしても未だ自白しませんけれども、ナニもう直ぐですよ、あそこまで行つていれば。それに、あの倒れていた椅子の足や腕から現場に残されている指紋を悉くとらせてありますから、彼が部屋に侵入した事実は判るでしよう。それから伊達の家を捜索させていますから、書類というのも間もなく探せることと思います。あなた方には大変お手数でした。もういつでもお引取り下さつてよろしい。二人の令嬢はもう暫く調べて一応帰すつもりです。もつともさだ子の方は、伊達との関係上、多少おくれるかも知れませんが。雇人は関係なしと認めたので全部帰してやりました。笹田という老人ももう帰つている筈です」
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