だ。木沢さん、出ましよう」
藤枝が第一にドアをあけた。三人は一度に廊下に出た。
出るとすぐ向いの書斎のドアを藤枝が叩いたが返事がない。なんと思つたか藤枝はいきなり把手に手をかけてグイと押してあけて見たが誰もおらぬと見えてすぐしめてしまつた。
「ここじやないな」
藤枝はちよつと途方にくれた様子をした。
木沢氏がこの時、廊下を歩いて行つて左側のひろ子のへやの戸を叩いた。
「ひろ子さん、ちよつと失礼します。あのお父様を御存じありませんか」
中からひろ子が美しい姿を現したが私は、彼女がかなりいたましくやつれているのを見ると、思わずかけよつた。
「あなたにはいろいろ申し上げることがあります。しかし今うけたまわりたいのは、もしやこの廊下でお父様におあいになりはしなかつたかということです」
ひろ子は何のことやら判らないのでひどく驚いたらしいが、
「いえ、今木沢先生がいらつしやるまでずつとこの部屋におりましたので……」
ちようどこの時、さだ子の部屋の戸があいて、さだ子が顔を出した。外の物音で、おどろいたものであろう。
二人の令嬢達とわれわれ三人はちよつとの間、廊下で話したが誰も駿三のようすを知らない。
藤枝は階段をかけおりて、
「秋川さん、秋川さん」
とどなつている。
われわれがあとからついて降りると、笹田執事が驚いて部屋からとび出して来た。
「君、御主人がおりて来られなかつたかね」
藤枝がせわしく問う。
「いや、私はただ今先生が主人をよんでいらつしやるので出てまいりましたので」
藤枝の顔色にこの時、云いようのない妙な表情が浮んだが、
「さ、みんなで、いそいで探すんだ。僕はこの応接間を見るから」
藤枝と私とはいそいで戸をあけたけれども中には誰もいない。
戸をしめて再び外に出た時、さだ子がピヤノの部屋の戸をあけるのが見えたが、次の瞬間に、
「あれえ」
という悲鳴がきこえると同時に彼女は戸口に仆れてしまつた。
そばにいた木沢氏がとんで行つて抱きおこしている。
と見るより、藤枝は脱兎の如くひろ子と私をつきのけてピヤノの部屋にとび込んだ。
つづいて私も飛鳥のようにピヤノの部屋におどりこんだが、この時ここで遭遇した有様ほど、物凄い光景に私は今まで出会つたことはなかつた。
戸をあけた瞬間、私の目を射たのは仰向けに仆れている駿三の身体であつた。
彼の両足は、戸口の壁に沿うた鏡面のその下にある衝立にむけて大の字にひらかれている。目でもまわしたのか、と思つて近よつたが私は思わず顔をそむけてしまつた。
恐ろしい顔。物凄い顔。この時の駿三の顔ほどものすごい顔が世にまたとあろうか。
10[#「10」は縦中横]
両眼は開いたまま眼球がとび出したようになつている。眉と目のあたりが、妙にゆがんで引きつつている。もしこれが顔だと云えばそれは人間の顔ではない。鬼の顔だ。魔の顔だ。私は一見した時すでに駿三は死んでいる、と感じた。
私がしかしこの時、恐怖とおどろきでしばらく物も云えなかつたのは、一つには藤枝の態度が余りにあわてていたからである。ひきつづく秋川邸の怪事件でも、彼がこの時表わした位あわてた様子を見たことはない。いな、今までいろんな事件にかかりあつている間、彼がこんなに周章狼狽したところを見たことがない。
彼は、私と共に室にとびこむやいなや、
「あつ、こりや……」
とおどろきの声を発して駿三の死体にかけよつた。
じつとその恐ろしい顔を見ていたが、
「木沢さん、大変です、大変です」
と叫んで木沢氏をしきりに呼んだ。
さだ子の介抱をしていたらしい木沢氏はすぐはいつて来たが、木沢氏も一時そのまま棒立ちになつてしまつた。いろいろな病人に出会《しゆつかい》した木沢氏が、こんなに驚いた位だから、如何に駿三の死体が恐ろしい顔をしていたか判るだろう。
さすがに木沢氏はすぐに気をとりなおして駿三の胸の所をあけて耳をつけていたが、
「駄目です。心臓がとまつています」
と云つて藤枝の顔を見上げた。
藤枝は心もち青くなつた顔を私に向けると、
「小川、すぐ林田にしらせてやれ。林田にしらせてすぐ来てもらつてくれ」
と叫んだ。
こんな事件の場合に、競争者たる林田の助けをかりるとは、藤枝もずいぶん衰えたものだがそれは後になつていう話で、当時は私もまつたく気が顛倒していたのでそんなことを考えるひまもなく、あわてて室外にとび出し、そこに青くなつて慄えているひろ子と笹田執事にあやうくぶつかりかけながら電話室にといそいだ。
林田の所にかけるとすぐ彼は電話に出て来た。
「小川さんですか」
「林田さん、大変です。秋川駿三が殺されました」
「何? 秋川駿三が。ほんとですか。ど、どこでやられたんです。誰にです?」
どういうわけだが今回の事件に限つてこの名探偵もひどくあわてている。そのあわて方が電話を通してこちらにもよく判る位だ。
「小川さん、もつと大きな声で! 駿三が殺された? 誰に? どこで?」
藤枝といい林田といい、どうも今日はあんまりあわてすぎるじやないか。
藤枝は藤枝でいきなり林田に来てもらおうというし、林田はおちついていると思いの外、誰に殺された[#「誰に殺された」に傍点]、なんて愚にもつかぬ質問をしている。誰に殺された? そんなことが判つてる位なら今までの犯人だつてもうちやんと判つてる筈じやないか。ひろ子がいじめられていたのは、それが判らないからじやないか。
しかしこれもあとで思い出したことだ。
「秋川の家でです。今僕も藤枝も来ています」
「そうですか。すぐ行きます」
林田はあわてて電話を切つた。
私がいそいでピヤノの部屋に戻ると、
「どうした。先生、いたかい」
と藤枝がせわしそうにきく。
「うんいたよ。いたよ。すぐ来るつて云つてた」
「何、すぐ来るつて?」
何と云うことだ、藤枝はよほどどうかしている。自分で来てくれとたのんでおきながら、私の今の答をきいて全く驚いた顔付をした。
11[#「11」は縦中横]
私は「第二の悲劇」という章で、このピヤノの部屋の図取りを読者に御紹介しておいたのであるが、もう一度記憶をあらたにする為にはつきり云つておく。
ドアからはいつて左手の壁に沿うてかなり大きなピヤノが置いてあり、右手の壁には西洋画がかけてある。ドアに沿うた壁の下の方にはストーブが冬中おかれてあるものと見え、そこがくり抜いてあるが、今は洋風の衝立でかくしてある。そのすぐ上に四尺に三尺位の鏡が壁にはめこんであつた。
われわれがはいつて来たドアと反対の側には三つの大きな窓があつてその向うが庭である。庭に面した窓と右手の洋画のかかつている壁と直角に交つている隅に立派なヴィクトローラが一台おいてある。
秋川駿三の死体は、さきにも云つた通り、ドアに沿うた壁、すなわちストーブの前にある洋画の衝立を足の方にして、仰向けに大の字なりに仆れていた。両手は、苦しそうに、堅く握つて、顔面は度々書いたようにひつつり歪んでいる。血も何も出ておらず、一見、外傷のようなものは少しも見えない。
「林田がすぐ来る」
と私が伝えたのに対して、藤枝はまたおどろいたような様子を示したが、それがまもなく消えると、もういつの間にか元気を取りなおしたと見えて、いつもの頼もしい藤枝になつていた。
「木沢さん、死体を余りいじらぬように、傷を調べて下さい」
木沢氏は、すでに藤枝にいわれるより早く、その方に取りかかつていたらしい。
「けがはたつた一つです。後頭部に大分烈しい傷があります。ほれ、ちよつと頭を上げるとすぐ判ります」
木沢氏はこう云いながら、死体の頭をちよつと上に上げた。
「成程、駿三氏は、立つているところを後からがンとやられたんですがね。……しかし、この頭のそばに椅子が仆れていますね。あるいは仰向けに仆れる時に、この椅子の背で打つたのかも知れませんな」
「そうです。藤枝さん、私はむしろその考えを取りたいです。解剖の行われぬ前にこう断定するのは軽卒ですが私には、この後頭部の傷の為に、こう早く死ぬということはちよつと考えられませんよ」
木沢氏が内心確信あるもののように云つた。
藤枝は、しやがんで駿三の両手をしきりに見ていたが、それから懐中にちよつと手を入れた。
「ねえ小川、駿三氏は重要書類をとりに行くと行つてこの部屋に来たはずだつたね」
さすがは藤枝だ。私があわて切つてまつたく忘れていたことをすぐ考えはじめていたらしい。
「そうだ。そうだつたよ」
「もし駿三氏がわれわれに嘘を言つたのでないとしたら――しかしてこの場合嘘を言つたとは考えられないが、そうすればその書類はこの部屋にかくしてあつた[#「かくしてあつた」に傍点]か又はまだかくされてある[#「かくされてある」に傍点]筈なんだ」
「うん、そういうわけになる」
「僕は死体を今調べて見たが、死体にはそんなものは一つもない。して見ると書類は、駿三氏がまだ出さないかも知れない。もしこの室にないとすれば犯人の手にもう入つているかも知れない。……ところで、そのかくしてある場所というのは、一体どこだろう」
12[#「12」は縦中横]
藤枝はこの時、全身の精力を一時に脳に集中したように見えた。彼は黙つて室内を見廻した。この室の中で一番目につくものは何と云つても立派なピヤノである。彼はしばらくピヤノの方を見ていたが、やがて目をそらすと、はめこみの鏡をじつとのぞきこんだ。
しばらくすると、彼は、駿三が仆れている両足の間に自分の足をもつて行つて、鏡の方を向いて立つたが、藤枝が立つと、彼の頭が、ちようど鏡の上のふちの所に来る。彼がかなりせいの高い男であることはこの物語の冒頭に記したはずである。彼は、二、三分そうやつて鏡と向きあいに立つていたが、やがて左右の両縁《りようふち》をしきりに指さきでいじつていたが不意に、
「しめた。これだ」
と小児《こども》がなくしたおもちや[#「おもちや」に傍点]を発見した時のような喜ばしそうな声を出した。
見ると、驚くべし、向つて右の鏡の縁《ふち》がどういう仕かけか、一寸ほどあいて、藤枝は今や左の手をかけてあけようとしているではないか。
私と木沢氏は驚いて思わずはしりよつた。藤枝の左手《ゆんで》がさつと左に開くと、はめこみになつた鏡はそのまま左の縁を中心にしてあたかも箱の蓋のように前にとび出して来た。
「うん、そん中だな。書類があるのは!」
私が叫んだのと、
「おや、何もないぞ」
と藤枝が叫んだのと殆ど同時だつた。
藤枝は、鏡のうしろをのぞきながら、右手を入れてかき廻していたが、やがてバタンとまた鏡をもとにかえした。
「フン、何もない。しかし何か書類らしいものが入れてあつたことは確かだ。して見ると……」
彼は次の言葉を発せず、そのまま考えこんでしまつた。
私はその間に床の上などを注意深く調べて見たが別段泥足のあとのようなものも見えぬし、格闘の跡とてもない。
ふと気がついたので一番ピヤノに近い窓の所に行つて庭の方をながめた。庭の方にも別に変つたものは見えなかつたが、ちようど窓の下に偶然目をやると私はそこに明らかに最近つけられたらしい靴の跡を見出した。
「おい藤枝、ちよつとちよつと。この窓のところを見たまえ」
彼はいそいで立ち寄つたが、
「うん、たしかに曲者はここから来たんだ。ここで靴をぬいで、駿三を殺し、再び窓からとび出して靴のまま逃走したんだ。それにしても咄嗟の間に、用心深いことをやりやがつたよ」
私は今度の事件で藤枝がいつにもなくあわてた態度を表わしたことを記したが、どうもおちついてからも彼の様子が全く変であることに気が付いた。
彼は私をそばによんで小声で云つた。
「小川、われわれは今までで一番の難問題にぶつかつたんだ。どうも判らん、どうも判らん」
「藤枝、とうとう犯人は今日やつつけたね。約束通り」
「え?」
彼はこの時非常な驚きの様子をまた表わした。
「うん、そうそう、今日は五月一日だつたな」
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