うな病気でないなら強いて会わしてくれませんか」
木沢氏の顔には困惑の表情が浮んだ。
「ねえ木沢さん、あなたのお説はごもつともです。この場合、私があなたの立場に立てばやはりあなたと同様の用心はするでしよう。それは医師としての当然の態度ですから。しかしくり返して云いますが、あなたは今日はじめてここに来られた方ではない。成程この家との関係においては主治医だ。が、あなたは私のいうことが決して出鱈目でないということを充分信じ得られる位、あの殺人事件をよく知つておられる。人間としてあなただつて私が残つた三人の生命を保護することの急務なることを認めないわけにはいかぬでしよう」
木沢氏は明らかにディレンマに陷つていた。彼は医師としては駿三を今誰にも会わしたくない、殊に藤枝がおそらく出すであろう話題は必ず駿三を興奮させるにきまつている。けれど彼は今も藤枝が云つた通り、あいついでおこつたあの物凄い惨劇を知りすぎる程知つているのだ。
しかして、かかる殺人事件に関する限り、木沢氏が藤枝の言を信じない理由は一つもないのである。
けれど医師としての彼の立場はこの場合でも容易に動かされなかつた。
「藤枝さん、はつきり承わりますが、あなたが今御主人に会おうという要求は絶対的なのですか」
「はあ、絶対的です」
「一刻も猶予はできませんか」
「一刻もできません」
「そうですか」
木沢氏はますます困つたようすを表わした。
「どういうわけで一刻を争うか云いましよう。私は今日、主人に私の取り調べた事実を話し、彼にもはや秘密を守るの愚かなるを告げてその秘密をしやべらそうと思うのです。この秘密こそ、今回の惨劇の原因と信じられるものなのです」
6
「惨劇の原因?」
「そうです。それが唯一の原因とは必ずしも云えないかもしれません。しかし少くもその重要な一つです。あなたは当家の主人の奇々怪々な沈黙ぶりを知つておらるる筈です。あれです、解くべき謎は正にあれです。私はあの謎を解きかかつているのです。けれども最後の鍵は主人がもつている。私はその鍵をもつて事件を解決したいのです」
藤枝はきつぱりと云い切つた。
話が具体的になつて来たので木沢氏も藤枝の言に動かされぬわけにはいかなくなつた。
「どうしても今でなくてはいけないのですね」
「そうです。早ければ早い程いいのです。一刻でもおそいとどんなことが起るか判りませんよ」
木沢氏は暫く心の中でじつと考えている様子だつたがやがて決心がついたと見え、
「ではともかく御主人の様子をもう一度見て来ましよう。御主人の方でも会うという意思があつたらちよつと位話をなさつてもいいかも知れません。これは無理な注文ですが、なるべく興奮させないようにして頂きたいですね」
「それは充分注意します」
木沢氏は応接間を出て行つたがしばらくたつとまた戻つて来た。
「会うといつておられます。大変失礼だが、自分のへやに来てくれろということですが……」
「そちらがかまわなければ無論うかがいましよう」
木沢氏が先に立つて、われわれは階段を上つた。
とつつきの右側が主人の寝室である。
木沢氏はノックをしながら、
「藤枝さんが見えました」
と軽くいうと中から、
「どうぞこちらへ」
という主人の声がきこえた。
次の瞬間にドアが開いて藤枝と私は、木沢氏にみちびかれて秋川駿三の寝室にはいつた。
「どうか、そのまま、そのままで、どうか」
おき上ろうとしている駿三を見て、藤枝があわてて手を出してとめたが、駿三はちやんとベッドの上にすわつてしまつた。
「こんな所で大変失礼ですが、木沢先生が余り動かぬ方がいいと云われるので」
「結構です。私こそ無理にお願いして申し訳ありません。時にいかがですか、御容態は?」
「いろんなことがひきつづいておこるので、とてもおちつけません。これが一番、いけないんだそうですが」
「お察しします」
「早速ですが何か御用件がおありになるとのことでしたが」
「はあ、そのことです」
藤枝はこう云つて何か重大なことをこれから話そうとするらしく、きつと駿三の顔を見た。
「私は最近一人で旅行をして来ました。そして今帰つたばかりです。私の行つたさきは山口県の今泉という町です。すなわちあなたが今から約二十年前に住んでおられた所です」
「山口県の今泉町?」
駿三は愕然としたらしい。驚き方がかなりひどかつたので、木沢氏が心配そうに腰をうかした。
「そうです。そこは今から二十年前にあなたが住んでおられた所で、そうして同時に伊達正男の父母|捷平《しようへい》夫婦が住んでいた所です。秋川さん、私はあそこで数日かかつていろいろなことを調べて来ました。伊達家と秋川家のあいだのことをくわしく研究しました。その結果、秋川家と伊達家とが宿命的な関係に立つていたことを知つたのです[#「宿命的な関係に立つていたことを知つたのです」に傍点]」
7
藤枝がここまで語つて来ると、ベッドの上に坐つていた秋川駿三は、もはやきくに堪えぬというように、手を振つて藤枝を黙らせようとした。はたで見ていても、ほんとうに気の毒らしいあわて方であつた。
木沢氏は、なりゆきが余り面白くないのでこれもちようど藤枝に注意しようとしているところであつた。
この様子を早くも見てとつて藤枝は制するように語りつづけた。
「秋川さん、御安心なさい。私はこれ以上、何も申し上げませんから。あんな惨劇、あれだけの犠牲を払つてもなおあなたが守ろうとする秘密を、私は決して軽率にも口に出すようなことはしますまい。ただ一言申し上げておきたいのは、この藤枝真太郎だけはこの秘密を十中八九完全に知り得たということです。そうして、私の知り得た所にして誤りなくんば、あなたは脅迫状が誰人《だれびと》によつて、何故にあなたに送られたかを知つていらつしやるはずである。そこです、私が今うかがつた用件は。ねえ秋川さん、あなたには脅迫状が誰から送られたか、全くあてがつきませんか」
駿三は一言も発しない。自信に富んだ藤枝の前で、一体どう答えたらよいのか迷つているように見える。二十日の夜藤枝が駿三にせまつた時とは大分事情をことにしている。藤枝は今や秋川家の秘密を探り出してしまつたのである。少くも探り出したと称している。
「秋川さん、どうか周囲の事情をよく考えて下さい。警察ではひろ子さんを疑つているようです。令嬢方のことをお考えになつてどうしてもそれを云つて頂かぬと困ると思うのですが」
「判りました」
はじめて駿三が力なく云つた。
「しかし私にもほんとうは誰が送つて来たかわからないのですが」
「ではどうでしよう。こう考えて見ましよう。あなたと私二人だけが知つている秘密から察すれば、あなたにああいう脅迫状を送りそうな人間は、伊達捷平すなわち正男の父の兄弟から、でなければその夫人かよ子の兄弟たちだということになります[#「伊達捷平すなわち正男の父の兄弟から、でなければその夫人かよ子の兄弟たちだということになります」に傍点]」
「…………」
駿三は無言だつたが、仕方がないというようすで首をたてにふつた。
「ところが、捷平には御承知の通り、まるで親類というものがなかつた。して見るとこれはどうしても夫人の方の関係と思わねばならない、ところで伊達かよ子の親戚のものですが、私の調べたところによると、その妹で一人今どこにいるか判らない女がいます。例の電話の一件といい、いろいろな事から考えて、今度の事件には女がかくれていると思われるのですが、伊達捷平の妻かよの妹が、姉の秘密を知つているとすれば、この女がまず怪しい」
「そうです。私にもそう思われぬことはありません」
駿三は、藤枝がほんとうに自分の秘密を知りつくしているらしいようすを見て、もはやこれ以上かくしているのは無駄と思つたか、今度ははつきりと云つた。
「あなた、その女がどこにいるか判りませんか?」
しかし駿三はこれには答えようともせず、急に坐りなおつた。
「藤枝先生、恐れ入りました。すべてが先生に判つている以上、もうかくしているのは、無駄だと思います。私の過去の秘密をここで全部物語りましよう。それについては是非お目にかけるべき品がありますから、それを取つて来ます。重要な書類があるのです」
「あなた自身でわざわざ行かれぬでも私が」
木沢氏が、心配そうに口を出した。
8
「いえ、私でなければ判らぬ所に入れてあるのです」
「秋川さん、あなたはその重要な書類をこのうちの中にしまつておいたのですか」
藤枝が意外だという表情で訊ねた。
駿三はベッドから足を出してスリッパをつつかけながら、
「私もどこかの銀行の保護箱にでも入れておく方が安全だと思つてはいたのですけれど」
「いや、安全危険というより、私はあなたが、そんな過去の秘密に関する書類を今まで取つておいたのが意外だというのです」
駿三はよろめきながら、驚いている木沢氏その他をあとにしてドアの所まで行つた。
「何故それを今までとつておいたか、今出す書類でお判りになります。あ、木沢先生、御親切は感謝しますが、その書類はごく秘密なかくし場所に入れてあるので、勝手ですが私一人で行つて来ます。しばらく皆さんどこにも出ずにここでお待ち下さい」
駿三はこういうとドシンとドアをしめて出て行つた。
肉体的には大病人ではないとは云え、今までずつとねていた駿三が急に一人で立ち上つたので、木沢氏も大分おどろいたらしいのだが、駿三の言葉は極めて厳かで、一人でもあとからついて来るもののあるのを禁じているようだつたから、われわれ三人は黙つて室の中に残つた。
午後五時前であるが、先にも述べた通り、この日はひどく陰気な暗い日だつたので、室内はもうお互いにはつきり顔が見えない程のくらさである。
「案外、うまく目的に達した。いや目的以上のものに達しそうだ」
藤枝が、かたわらの電気スタンドのスイッチをひねつてあかりをつけながら私に云つた。
「あの程度ですめば、私もまあ安心です」
木沢氏もほつとして藤枝に云つたのである。
「しかし、忘れよう忘れようとしている過去の秘密に関する書類をとつておくとは……ちよつと変つてるな。それを見ればまあ万事解決するんだろうが……もう一つきき訊したいのはこの秘密を知つてるものが、本人と僕の外に誰かいるかどうかということだ[#「本人と僕の外に誰かいるかどうかということだ」に傍点]。無論脅迫状の送り手以外にだね」
藤枝がこう云つたが、ふと不安そうに、われわれ二人を見た。木沢氏も何となく心もとなさそうに見える。
実を云うと私は、駿三がこの室を出るとおそらく向い側の書斎(第一回の悲劇の直後、検事が家族を調べた室)にでも行つたのだろうと考えていた。出来るだけひそかに、ぬすむような足音をたてて彼が去つたので、一体どこへ行つてしまつたのか、はつきり判らない。
「君、御主人がここを出てからちよつと五分になるが、一体どこへ行つたのかしら」
藤枝が腕時計に目をやりながら私に云つた。
「うん、少し永いようだが」
「私行つて見ましようかしら。……しかし、あとからつけて行くのもおかしい、御主人も好まれぬようでしたが」
木沢氏も不安な顔つきで二人を見た。
「あと三分待ちましよう。何分御主人がわれわれをここにしめこんでしまつてるのですから」
藤枝は二人にそう云つたが、何を思い出したか小さい声で木沢氏に、
「伊達君はまだ病気ですね」
と訊ねると木沢氏はこの不意の問におどろいたらしいが、すぐ答えた。
「ええ、床についています」
「今日私達以外にここにお客がありますか」
「いやありません。林田さんが私が来るといれちがいに帰られました。あとここの家には家族だけです」
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「伊達は病気、林田は帰つた。あとはひろ子さんとさだ子さんだけですね。ふん……」
藤枝はじつと考えては時計を見ている。
とうとう私が堪りかねて云つた。
「もうさつきから約七分たつちまつてるぜ。おかしいじやないか」
「うん、どうも変
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