りませぬ。心の中ではさぞ悩んだことと思いますけれど。……つまり父は一方に妻以外の人との間につくつたさだ子を育て、一方には罪亡ぼしとして伊達さんを育てていたのです。そうして、この二人を結婚させることによつて父は自分の過去をつぐなおうとしたに相違ないのです」
「成程。……」
「しかしこれは父一個の理想でございました。一人で描いた勝手なプランだつたのです。事実はそううまくはまいりませんでした。父の過去はそんな勝手な方法では清算されなかつたのでございます」
私はひろ子が、そのようすにふさわしくない清算[#「清算」に傍点]という言葉を口に出したのでいささか意外に感じた。
「成程、そうですか。……ではどうしてその方法で清算しきれなかつたのでしよう」
「伊達さんが自分の過去を知つたからです。何かの方法か、機会によつて過去の秘密を知つたのです」
「ひろ子さん」
と藤枝がちよつと間をおいて云つた。
「あなた、伊達君が誰かを通じてそれをきいた、とは思いませんか」
「さあ――」
ひろ子は困つた顔をしたが、
「別に思い当る人もございません」
二人ともしばらく沈黙してしまつた。
藤枝は新しいシガレットの紫煙を天井に向つて吹きながらじつと何か考えている。
しばらくして彼は、きつとひろ子の顔をながめながら云つた。
「よろしい。お訴えなさい。私はとめません。ただ私があなたの Theorie に全く同感であるか否かは別ですが……」
ひろ子の顔に決然たる色が浮んだ。
彼女は藤枝が積極的な説を少しも述べなかつたのを多少不満に感じたらしかつたが、間もなくオフィスを辞した。
警部の論理
1
「素敵だ! 素晴らしい! 実に恐るべき頭脳だ!」
ひろ子の姿がオフィスから消えると、不意に藤枝が大きな声でつぶやいた。
「小川、何と云う推理力だ! 常人のなし得る所ではない。しかも僅か二十一歳の令嬢にして、あの頭脳の所有者なんだぜ。僕は無論はじめからあのお嬢さんの頭が並み並みでないとは感じていた。しかしかくまでに明瞭に、かくまでに整然とした理論をもつているとは! 驚いたね。全く驚いた」
彼はほんとうに驚嘆したように大きな目を見はつて私に話しかけた。
「僕もそばにいて全く恐れ入つちやつたよ、あの人の論理の確実なことは。ねえ藤枝、君はしかし自分の意見を少しも云わなかつたじやないか」
こう云うと、彼は夢からさめたような顔付をした。
「うん、如何にも。ねえ、今の堂々たる論理、君は恐れいつたかい」
「徹頭徹尾!」
「小川、僕はひろ子のあのずばぬけた推理力を賞讃しかつ尊敬する。更にあの女性の直観力に無限の敬意を払うのに決してやぶさかではない。しかし、僕が彼女のテオリーに徹頭徹尾賛成かどうか、ということになると、多少そこに考慮の余地が出てくる」
「ほほう」
「君は気がついたかどうか知らぬが、ひろ子の説すなわち伊達正男、秋川さだ子共犯説には、見逃し難き二つの欠陷があるよ。第一は、四月十七日の犯罪についての点だが。徳子が昇汞を呑んで死んだことが判つた。そこでこの昇汞を彼らが如何にして手に入れたかという問題である。君も知つている通り、我国では特に毒薬劇薬を手に入れることがむずかしい。普通毒殺事件が行われた場合は、だから捜査官はまずかくの如き薬を比較的手に入れやすい人間に目星をつけることになつている。たとえば医師、薬剤師、それから化学者、その他、われわれ犯罪に関係ある職業をもつている者などだ。伊達、さだ子いずれかが昇汞を手に入れたとすれば、必ず警察の手で知れる筈なんだがね。これをひろ子はどう説明するかしら。勿論、この点が説明出来ぬからと云つて彼女のテオリー全部の価値を認めないわけではないがな。第二に佐田やす子が殺された理由については、僕も全くひろ子の説に同感だよ。感服の外はない。しかし、犯人すなわち伊達又はさだ子が、如何なる方法でそれまでやす子を沈黙させていたか、この点が明らかでない」
「そりや買収したんだろうよ」
「不可能だ。君はあの位の若い女の心理を知らぬと見えるね。ひろ子もそう思つているらしいけれども、しかして恐らくは犯人自身もやす子の心理を誤算したのだ。ともかく買収ではない。この方法は、説明出来ぬというよりは、むしろ不可能なことに属すると思う」
「では伊達が脅迫して沈黙させたのではないかしら?」
「脅迫? うん、君の考えは多少いい。しかしね、伊達が佐田やす子を脅かす程の力をもつていると君は信ずるのかい」
藤枝はエーアシップの煙を室一杯に漂わすのだつた。思えば彼も人がわるい。私にさんざんしやべらせておいて自分のシーオリーを少しも云わないのだから。
私はこの時ふと心に浮んだことがあつたので口を開いた。
「昨日君が妙なことを思い出さぬ[#「妙なことを思い出さぬ」に傍点]かと云つたね。あれと同じことをさつきひろ子がやはり、云つたね。どういうんだい、あの意味は?」
彼はピシャリと机を叩いた。
「うん、えらいよあのお嬢さんは。第二の事件の時も第三の事件の時にも、さだ子が林田に調べられていた。これを変に思わないか、と来たね」
2
「そうさ。つまり、仮りにさだ子があの間にどこかへ行つたかも知れないとして、林田が何かの理由で彼女をかばつているのではないか、というのがひろ子の推理なんだ」
「うん。観察点は実にいい。しかしその推理に僕は賛成しかねるのだ」
「どうして? もつとも君はあの時、林田がさだ子をかばうなどは断じて不可能だと云つたつけな」
「そう思う理由があるよ。君、林田ははじめからさだ子に好意をもつてはいないんだぜ」
「だつてさだ子は君より林田の方をずつと信用しているが」
「そりやそこがわれわれ探偵の腕前さ。林田はその実、決してさだ子の味方ではない――いや、むしろさだ子を疑つてる一人かもしれないが――それにもかかわらず、君の云う通り、さだ子の絶大の信用を博しているということはすなわち彼が探偵の資格を充分にもつていることを証明しているわけさ」
「でも君は林田がさだ子に好意をもつておらんということをどうして知つたんだい。林田が何か君に喋舌つたのか」
「どうして、そんなことを競争者たる僕にもらすものか、僕だつて同じことだ。ひろ子はすつかり僕を信じているし、林田もそう思つてるらしいが、僕が心の中で、どの程度に彼女を……いや僕のことより林田の話だがね。彼がさだ子に大して親切でないことの一つの証拠を挙げて見ようか」
藤枝はここでちよつと口をつぐんで私を見た。
「四月二十一日の午前、すなわち、あの第二の惨劇のあつた翌日、僕らが秋川邸に行つた時のことを思い出して見給え。僕らは笹田執事にあつた後すぐひろ子に会つた筈だ。その時彼女はいきなり『昨夜犯人が捕まつたそうでございますね』ときいた。僕がどうしてそれを知つているか、と反問すると『さつき林田先生がおいでになつた時、そんな事を承わりました』と答えた事実を君はおぼえているだろう。ところですぐその後でさだ子に会つた。僕は林田が無論彼女に早川のことを喋舌つてると思つたから『実は私は今警察に寄つて来たのです。昨夜の事件の犯人らしい男が捕まつたというのでね……あなた林田君にききませんでしたか』と訊ねた。するとさだ子は意外にも『いえ、ちよつとさきに林田さまにお目にかかりましたけれどもその話は……』と答えたぜ。ねえ君、さだ子はあの時伊達が警察に連れて行かれたときいて非常に心配していた筈なのだ。もし林田に好意があれば『実は昨夜の犯人らしい者が捕まつたから安心していいだろう』と、気やすめにでも云つたらよさそうなものじやないか。林田はひろ子には云つた。しかも肝心のさだ子には故意かどうかともかく、語つていない。これは一体どう考えるべきだろうね」
「成程、して見ると林田はさだ子を疑つているのかしら……」
「疑つているにしてもその位のことは云つてもよさそうだがね。ともかく林田がさだ子をかばつたとは思えない。……そうそう、そう云えばあの時僕が心配しているさだ子に『たとえばその後伊達君が邸内をうろうろしているのを誰かに見つかつたなんていうことはないのでしよう』と云つたら『そ、それは勿論でございます』と答えたが、あの時のさだ子の不思議な表情に気がつかなかつたかい。この点だよ、重大なところは」
彼はこう云つたまま沈黙してしまつた。
それからの彼はプカリプカリと煙草を吐くばかりで、一言も発しない。
私はまた彼の黙想を破つてはならないと思つたのでブラリと銀座に出かけ、社に寄つてたまつていた用事をすませて午後三時半頃オフィスに戻ると、藤枝は、妙に、にこにこしながら私を迎えた。
3
「君の留守に僕は大分活動して来たよ。第一にこういうニュースがある。秋川初江の死体解剖の結果、彼女の胃の中から多量の睡眠剤ヴェロナールが発見された。腸の中からも見出された。死因は窒息死すなわち溺死である。どうだい。非常な事実じやないか。これで僕もいくらか安心したよ」
私には胃の中のヴェロナールがどういう重大な意味をもつているのかちよつと判らなかつたので何も云わずポカンとしていた。
「何だ、君には何の感じもおこらないのかい。僕の悩みぬいた謎がヴェロナールのおかげで、はつきり解決したじやないか。困つた人だね、君は。余りよく判つたようじやないな。第二のニュース。これは当然の話だが、林田は昨夜あれから検事や警部にあの怪しい電話の話をしたそうだ。何でも、女の声で初江がよび出されたそうだが、その電話は一種の警告だつたそうだ。『木沢氏の薬をのんではいけない。危険だから。必ずのんではいけない』というようなことだつたという。初江は気味がわるいので、このことをひそかに林田に伝えた。林田は『そんなことをおそれる必要はない。しかし気味が悪かつたらよした方がいいかも知れない』と答えたそうだ。これはごく常識的な答えで僕にしてもそうきかれればこうでも答えるよりほかに仕方があるまい。風呂にはいる前に初江は気になると見えてまた同じ質問を林田にしたので、林田も同じように答えたと云うことだ」
「成程、それで事件直後林田は気になるので第一にパラフィン紙を探したんだな。その結果、初江は、気味の悪い警告にもかかわらず、木沢氏の薬を一包のんだことが判つたんだな」
「そうさ。しかも検査の結果木沢氏の薬には絶対に間違いがなかつたことが判つた。残りの二包には皆無害な健胃剤がはいつていることが立証された」
「ふうん、して見ると誰がヴェロナールにすりかえたろう」
「そこだ。そうして誰が木沢氏の健胃剤一包をかくしたか。曲者は一応木沢氏の一包を、初江がのんだように見せかけたのだ。それから……」
「電話の主は誰だろうね。女だそうだが……」
「それよりも、もつと大切なことがある。その電話の主は、どうして初江が木沢氏に薬を作つてもらつたのを知つたかということだよ[#「どうして初江が木沢氏に薬を作つてもらつたのを知つたかということだよ」に傍点]」
暫く沈黙がつづいたが、私はふと、さつきのひろ子との話を思い出した。
「ねえ君、ひろ子は警察へ訴えに出たかしら……」
「行つたろう。そうしてあの素晴らしいテオリーで高橋警部を煙にまいていることだろう。高橋警部がひろ子の説に対して如何なる意見をたてるか、それが見物じやないか」
こんな話をしているところへ、電話のベルがあわただしく鳴つた。
私がいそいで出ると、男の太い声がする。
「もしもし、藤枝真太郎さんの事務所ですか。藤枝さんはおられますか。こちらは牛込警察署です」
私は驚いて藤枝をさしまねいた。
「ああ僕、藤枝ですが……高橋さんですか……何、とうとう行きましたか……ええ……腑におちない? そうですか……ふん、ふん……さあ、それはどうもね……僕ですか、今行かれますよ、じやすぐ行きます」
彼はガチャリと受話機をおくと私の方に向きなおつた。
「おい、とうとうひろ子嬢が訴えに出たそうだ。午前中だつたそうだが。それで高橋警部は僕に来てくれというんだがね。これ
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