どうもまだ納得がいかないようだが、ジョセフ・スミスのことを思い出しているのじやないか」
「そうさ」
「ジョセフ・スミスは一体何者だい。被害者との関係を考えて見たまえ。ありや被害者の夫だぜ。いいかい。ここをよく考えるんだ。つまりジョセフ・スミスは、被害者の夫だつたから……あの犯罪が遂行出来たので、夫以外の者では決してあんなまねは出来なかつた筈なのだ」
「ふうん、成程」
「今初江の場合を考えて見よう。彼女には無論夫はなかつた。否婚約者さえもなかつた。しかして彼女は十八才の良家の令嬢である。この令嬢が全裸体で入浴している所へ、ヅカヅカとはいつて行つてあんなまねをなしうる者は一体何者だろう。犯人はまず化粧部屋の戸をあけ、つづいて浴場《へや》のガラス戸をあけ更に流し場を通つて、初江の浸つている浴槽のそばまで行つたのだ。しかしてあの乱暴極まる行動に出たのだが、この間、初江が一言も驚きの叫び声とか悲鳴をあげていない。いや、悲鳴をあげないでも、元来この犯罪は初江が浴槽の中で少しでも警戒して身がまえたなら、決して遂行のできぬところのものだつたに違いないのだ。ね、君、犯人が浴槽に近づくまで初江は少しも警戒しないでいたのだよ。とすればだ。犯人は一体何者だろうね」
「さあ、初江のよく知つた人、まず秋川家の家族か雇人だろうね」
「そうだよ。まさに君のいう通り、しかしてその外にもう一つ条件がある。すなわち犯人は女だということだ」
「成程ね。たとえば伊達だとして、初江が警戒しないわけはないからな」
「無論さ。さだ子が入浴中だつたとしても、婚約者の伊達が、あの浴槽までツカツカと平気で行き得るとは思われないじやないか」
2
私にはこの時、藤枝が今日何だか非常に面喰つた様子をしているわけが、いささかながら判つて来たような気がしはじめた。
彼は第二の事件で犯人を男ときめたのじやなかろうか。その考えの上にいろいろな推理を積み重ねて来たのではないか。すると今度の事件で意外にも犯人は女性ということが推定されることになつたのでさすがの彼も全く当惑せざるを得ないのだろう。
「つまりこういうことになるんだね。少くも今度の事件では直接女が仕事をしている。しかしてこの女は初江に大へん親しくしている女だ。そうすると犯人は、秋川家の内部にいる女ということになる。ねえ藤枝、ちよつと妙じやないか。君があれ程賞讃した犯人に似合わないね。この僕にだつて犯人の捜査範囲がだんだん判つて来たぜ」
「うん、それだ。僕が考えていた犯人はそれほど愚かであるわけがないのだ。僕は今難問題にぶつかつたのだ。全く僕は弱つてるんだよ」
藤枝はほんとに弱り切つた顔でかたわらにおいてあつた紅茶を一口のんだ。
「しかし小川、たつた一つ、犯人が女でなかつたとすると考え方もある。もつともこれによるとやはり、第二の事件とちよつとうまくしつくりしないが」
「え? じや犯人は?」
「あのおやじね。秋川駿三さ。あれが犯人だと仮定すれば、今日の事件の一応の説明はつくよ」
「だつて君、おやじはずつとねていたはずだぜ」
「君自身それが立証出来るか」
藤枝は儼然と私に云つた。
「成程」
「君はただ彼がその寝室にねていた、ときかされたにすぎない。誰も知らぬまに彼がそつとおきて風呂場に行かなかつたか、誰が証明出来るか。娘が風呂場にいる時父がはいつて来る。我国の習慣では少しもふしぎな事じやない。そこで事は一瞬の間に決せられたという次第」
「じや君は、彼が犯人だと思うのか」
「いやこれは一つの仮説さ。ただこんどの事件の一応の説明さ。しかしおやじ犯人説は、この場合第一に心理上かなり困難な問題にぶつかるんだ」
彼はとうとう我慢が出来なくなつたと見えて、一本のエーアシップを口にくわえた。
「じや一体われわれは誰を疑えばいいのかしら」
「その点について一つ考えて見ようじやないか。君のさつきの説明は、君が如何に正確に事件を記憶しているかを証明するもので、僕は大いに感謝しているんだ。それをたどつて問題をおつて見よう。今日、午前君は秋川邸に行つた。この時、あの家にいた人間は、主人、ひろ子、さだ子、初江、笹田執事、それから、二人の女中だ。それに一人木沢氏が来ている。木沢氏が君に云つた言葉は、主人が又病気であること、及び初江が胃を悪くしていたということだが、この二つはかなり重大なことだからおぼえていてくれ給え。さて、木沢氏はそう云つて帰つて行つた。君、林田、ひろ子、初江が出かけ、午後四時半頃に帰つて来た筈だね。この時笹田執事は用事で出かけてしまつた。君、林田、ひろ子、さだ子、初江が応接間で話している処へ、今まで主人の所へ来ていた木沢氏がやつて来て、初江に散薬を渡した筈だつたんだね。そして五時半頃にのめと云つて去つた。この事実は特に注意すべきである。木沢氏が帰つた時林田も一緒に出かけた。つまり応接間には君、ひろ子、さだ子、初江が残つたわけだが、伊達が来たというのをきいて、さだ子が去つた。故に残りは君、ひろ子、初江ということになる。これが、午後五時二十分頃の話だ。
3
「つまり君らが応接間にいたあいだ、駿三は二階の寝室、伊達とさだ子は二階のさだ子の部屋にいたというわけだ。そこに林田が又戻つて来ているから四人が応接間にいた。すると、そこへ不思議な電話がかかつた。女の声だつたね。ただその内容は林田以外には遺憾ながら判らない。もつともこれについては林田が今日警部にもう話したかも知れないが、ともかくわれわれには判らん。五時半頃に君ら四人が一室にいる所へ女中が風呂をしらせて来た。ひろ子が初江に風呂にはいれとまず云つたんだね。そこで初江が林田と何か話して部屋から出て行つた。初江はちようどこの時すなわち五時半頃から以後、誰にも生きている所を見られていない。しかして五時半という時間は偶然にも木沢氏が彼女に薬をのめと指定した時間である。君はこれを忘れてはいかんよ。それから君はひろ子、林田と三人で一室にいた。だから初江が去つてすぐ殺されたとすれば、この三人の中には断じて犯人はいないことになる」
「おい君、この三人なんて僕まで嫌疑者の中にはいるのかい」
「そうさ。こんな妙な事件では僕は一おう誰でも疑うよ。疑わなけりやならない。夕《ゆう》六時頃伊達とさだ子がやつて来た。この時初江がいまだ生きていたかどうかそれは判らん。伊達を送つて林田とさだ子が外に出る。まもなく戻つて来たから君ら四人が又応接間にいたわけだ。この時伊達がどう帰つたかは判らない。次に林田とさだ子が二階に上つている。これは君の言によるとむしろひろ子が二人を追いやつたらしい。あとには二人差し向いで君とひろ子が音楽の話をしていた。これが約二十分かかつたというから、君がひろ子嬢と楽しい時間をすごした終りは六時二十分頃ということになる。それから君はひろ子と二人で庭に出ている。妙な話をし出して結局六時四十分まで君ら二人は庭にいた。するといつの間にか、伊達が二階に現れた。ひろ子が君の所を去つて約二、三分して、二階の三人は下りようとした。その途端だつたね、君がひろ子の叫び声をきいたのは」
「うん、その通りだ」
「するとだ、初江は五時半すぎから六時四十分頃の間に、ちようどこの一時間の間に何者かに殺されたことになるね。無論あれは他殺だが。して見ると、家の中で一体誰が彼女を殺すチャンスをもつていただろうな」
「まず第一は君の云つたように主人だね」
「そうだ。第一が主人だ。それから?」
私は暫く考えて見たがどうもはつきり判らない。
「さだ子はどうだい? 小川、君どう思う?」
「うん、さだ子はずつと二階の部屋にいた筈だよ。初めは伊達と二人、あとでは林田と二人でね」
「重大なのはここだよ。彼女が伊達と二人でいた間に初江が殺されたか、彼女が林田と二人でいた間に初江が殺されたか。この一点は実にこの事件の中心なんだぜ。ところで彼女はいずれの場合にもずつと部屋にいたと云つているし、相手の伊達、林田もこれを認めている。ただこの中、伊達の言葉は決してあてにならん。さだ子と一番妥協しやすい立場にいる人間だからな。林田は自分でも、ずつとさだ子に警察の話をきいていたと云つているし、さだ子とは容易に妥協しそうもない男だから信じていいかも知れない」
彼はこう云つたが、この時、急に緊張した顔をした。
「しかし君、さだ子を林田が調べていたということについて何か妙なことを思い出しはしないかね?」
「妙なこと?」
「うん、そうだよ」
4
私には藤枝のいう意味が判らなかつた。彼は私の当惑した顔を暫く黙つて見ていたが、やがて又つづけた。
「君には何も思い当ることがないらしいね。いや、判らなければそれでいいんだよ。そこで、駿三、さだ子、伊達の行動がまあはつきりしなかつたとして、ひろ子はどうかね」
「ひろ子はずつと僕と一緒にいたよ」
「初江が去つてから君とずつと話をしていたようだね。従つて僕は君を疑い得ないと同様に彼女を疑う事が出来ない。ただ最後の一番重要な所を除けばだね」
「というのは?」
「ごはんの支度を見てまいりましよう、と君に彼女が云つて庭から去つて、それから君が彼女の悲鳴をきくまでに、僕のきいた所によれば少くも二、三分のあいだがあつた筈だ。彼女は台所に行つたと云つている。成程これはほんとだろう。それから風呂場に行つている。しかし彼女が何分台所にいたかということは誰にも証明が出来ない。ともかく、彼女が一旦台所に現れ、すぐ風呂場にいき、いい気もちで寝風呂にはいつている妹のそばに何気なく近づき、スミスのような真似をする機会はたしかに恵まれていた筈なんだがね。君はどう思う?」
そういわれれば藤枝のいう所も無理ではない。
「くり返していうが、木沢氏が五時半頃に薬を呑めと云つたことと、丁度五時半頃に初江が風呂に行つたということは注意に値するね」
彼はここまで語つて来て、口をつぐんでしまつた。
もうかなりおそいし、病後の彼は平生よりも一層疲れているらしいので、私はこれ以上彼を追及せず、この夜はこのまま家に帰つた。
これが四月二十五日の出来事である。
四月二十六日の午前、私は藤枝からの電話を受け取つた。
「どうだい身体は。昨日は大分無理をしていたようだが」
「うん、ありがとう。もう大分いいよ。時にね、今ひろ子から電話がかかつて急に僕に話したいことがあるというんだ。それでともかくオフィスの方に来てもらうように云つたのだが、君もすぐに事務所の方に行つてくれないか」
無論私は喜んで出かけることにした。
新聞を見ると、いよいよ秋川邸の惨劇は社会欄の大呼物となつている。警視庁はじめ、当局に対する一般の非難は中々峻烈を極めている。ある人達からは、誰でもいいから少しでも怪しい者は片ッ端から引つくくつてしまえ、その方が今後の惨劇を惹起《じやつき》するよりはまだましではないか、というようなもつとものような又そうでもないような提言が盛んに出ている。しかし一番非難の的となつたのは藤枝と林田で、彼らの過去の行跡が偉大なれば偉大である程、今回の失敗は目立つわけなのだ。
オフィスにつくと藤枝はもうやつて来ている。
昨日よりは大分元気だが、いつもの元気さはまだない。
いろいろな話をしている所へ、ひろ子が現れた。一通りの挨拶がすむと彼女はただちに用件を語りはじめた。
「先生、こんにち私は法律のことを少しうけたまわりにまいりましたのですが……」
「はあ、どうか、僕で判ることでしたら」
「はじめにうけたまわりたいのは、一体法律というものは、犯人が重大な犯罪を行い、しかも更に将来にも充分大犯罪を行うに違いない場合でも、直接の確たる証拠がなければ、どうすることも出来ないのでございましようか」
ひろ子の言葉には冒し難い詰問の調子がきこえた。
藤枝はさすがにちよつと驚いた表情を示した。
5
藤枝が、ひろ子の気持をちよつとはかりかねてか、何も答えずにいると、ひろ子は更にたたみかけるように質問を発した。
「あの、誣告罪《ぶこ
前へ
次へ
全57ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング