殺人鬼である。彼は僅かの日月の間に三人の女と順次結婚し、これに生命保険をつけ、遺言を認めさせておいて、無残にも風呂場で三人とも溺死させてしまつたのである。
一九一五年の五月二十三日、スミスは、殺人犯人として公判に附せられた。それは第一の妻エリザベス・アニー・コンスタンス・マンディーを浴槽の中で殺したという嫌疑であつた。彼に対して公訴を提起した王冠法曹(The Counsel bor the Crown)はボドキン氏、そうしてスミスの為に弁論を行つたのは有名なエドワード・マーシャル・ホール卿(当時ミスター)で、裁判長はスクラトン氏であつた。
被告人は徹頭徹尾殺人を否認した。しかし結局、陪審員[#「陪審員」は底本では「陪審院」]は有罪の答申をなし、被告人にはただちに死刑の判決が下り、彼は同年八月十三日刑場の露と消えたのである。
この事件は、当時『風呂場の花嫁事件』として喧伝されたもので、大戦乱最中のヨーロッパに異常なセンセーションを与え、当時の我国の新聞にも二、三回紹介されたこともある。
如何なる方法で彼は妻を殺したか。
被告人が最後まで否認しつづけて死刑台上に登つてしまつたので正確なことは判らないが、ここに当時の王冠法曹(我国の検事に当る者)のオープニング・スピーチの一節を紹介することによつて大体知り得らるると思う。
「同月十三日フレンチ(被告人の家の主治医)は被告人からのノートを受け取つた。『早く来て下さい。妻が死にました』とそれには書いてあつた。彼の所に駆けつけたフレンチは、マンディーが浴槽の中に既に死んでいるのを見出した。彼女は仰向きに倒れていたが殆ど全身が水にひたつていた[#「彼女は仰向きに倒れていたが殆ど全身が水にひたつていた」に傍点]。口も顔も水の中に在り[#「口も顔も水の中に在り」に傍点]、両脛は臀部が直ちに突出し[#「両脛は臀部が直ちに突出し」に傍点]、ただ足の先だけが浴槽の端に出ていた[#「ただ足の先だけが浴槽の端に出ていた」に傍点]。(中略)被害者はよく発育して五フィート八インチの丈をもつていた。しかしてこのよく発育した女が両脚をのばしたまま浴槽の中で水に全く浸つていたのである。ここに甚だ簡単なしかも最も恐るべき殺人方法がある。これに依れば簡単に人を浴槽の中で溺らせることが出来るのだ。水のはいつている風呂は、人がはいつていれば無論、深くなるわけだが[#「だが」は底本では「だか」]、今人がどつぷり湯につかつている時、その両足を急に引き上げるのである[#「今人がどつぷり湯につかつている時、その両足を急に引き上げるのである」に傍点]。かくすれば忽ちにして意識不明となり忽ちにして死は其人をおそうにちがいない[#「かくすれば忽ちにして意識不明となり忽ちにして死は其人をおそうにちがいない」に傍点]。しかしてマンディー夫人の両脚も表たしかに浴槽の一方に立てかけられていたと発表されたのであつた」(以下略)
そして、秋川初江の両脚も亦たしかに、浴槽の一方に立てかけられて発見されたのである。
第一の発見者ひろ子が、
「風呂場の花嫁」
と叫んで一時気を失つたのも、第二の発見者林田が、
「ジョセフ・スミスだ。風呂場の花嫁!」
と叫んだのも、また藤枝が私の描写をきいて電話で、
「何だ。ジョセフ・スミスじやないか」
と云つたのも初江の形が余りにもよく『風呂場の花嫁事件』に似ており、まるでその事件の引きうつしのように思われたからであろう。
9
木沢氏の登場におくれる事約十分にして高橋警部が刑事及び警察医の野原氏を従えて、緊張しきつた面持で立ち現れた。私の説明をきくと警部はただちに風呂場を実見した。そこは、すでにさつき電話で藤枝に注意されていたので、私自身充分に見ておいたのだが、別に不思議な物も目につかなかつた。
警部は、そこにもう初江の死体がないのでいささか不平の形だつた。
「未だ見込みがあると思つたものですから、私達で風呂場から出したのです。絶望と知れば勿論手をつけずにおくつもりだつたのですが……」
「全くです。小川君のいう通りです。僕も一緒にあちらの部屋に運んで取りあえず僕が人工呼吸を施《ほどこ》したけれど駄目でした」
林田が私達の立場をよく説明してくれたので警部もこれ以上、口に出して不平を云わなかつた。実際あの場合、万一にも初江が助かるかも知れぬ、という気があつたから私は林田らと彼女を風呂場から運び出したのだつたが、あとで考えれば変死体を動かしたので、たしかに捜査官は多少面喰つたらしい。
このとき、ひろ子に助けられながら、驚いて駿三が二階から下りて来た。彼は事件当時、ベッドの中にはいつていたのだろう。さなきだに不幸つづきで弱り切つていた所へ、いままた、この惨劇の報を文字通り寝耳に水とうけたのである。彼はもはや泣声すらもあげ得ない。
駿三、ひろ子、さだ子、伊達らは、皆下の日本座敷に集つた。
高橋警部は風呂場を一応調べると一分も無駄にせず、日本座敷に運ばれた初江の死体を仔細に観察しはじめたが、木沢、野原両医師に対して、必死の様子で重要な質問を出しているらしい。
今回の事件は必ずしも他殺とは限らず、現に木沢氏もさつき云つたように、初江の入浴中に、癲癇《てんかん》か何かの発作がおこつて、一時意識を失いそのまま溺死したのかも知れない状態にあるので、今や医師の供述、観察は非常に重大なものとなつて来た。警部は、ひそひそと二人の医師と話をつづけた。
ところへ、待ちに待つた藤枝が来たということを女中の久や[#「や」に傍点]がとりついだので私はいそいで玄関に出迎えた。
「驚いた! 電話でちよつときいたがもう一度詳しくききたいんだが……」
誰もおらぬ応接間で、私は藤枝とさし向いになつて、今までの経緯をあらまし語つたのであつた。
藤枝は、一言も洩らさずに黙つてきいていたが、風呂場の有様を語ると、彼は全く意外という表情を表わしたが、しかし何も云わぬ。
ところへ林田がはいつて来た。
「藤枝君、大変なことがおこつたよ、ご病気中にね。まだ余り顔色がよくないがもういいのかい」
「うん、ありがとう、未だいけないんだが、病気どころじやなくなつちまつた」
「今、警部があちらで、ひろ子さんを調べているんだが」
「そうか、じや僕もきかして貰おう」
私どもは日本座敷にはいつた。
ひろ子が死体発見の有様を警部に語つている所だつた。
「小川さんと暫くお話していましたが、六時四十分頃になつても夕食のしらせがないので、気になるので私はうちにはいり、一旦台所にまいり二人の女中にただしますと、もうできていると申します。初江は一体どうしたのかと思いまして、台所からの戻りがけに、お風呂の外から声をかけましたが答えがありません。余り長いのでドアをあけて中を見ますと、妹は、足を湯の上に出し、全身を湯の中につけて……頭を全く湯の中につけて死んでいたのでございます」
10[#「10」は縦中横]
それから彼女は悲鳴をあげて私達を呼んだ事を述べたが特に注意すべき事柄もなかつた。
警部は、ひろ子が初江の死体を発見した時の有様を更に訊ねたが、ひろ子の供述は全く私自身が見た場合と同じで、林田も私も、警部に対して同じことをくり返して述べたのであつた。初江の死体が現場にそのまま残つていなかつたことについて、警部がかなりがつかりしたらしいのは既述の通りだけれども、この点については、藤枝も余程残念だつたらしい。
風呂場の中で何か不思議なものを見出さなかつたか、という警部の問に対して、林田が口を出した。
「私は別に妙なものは発見しなかつたけれども、初江が入浴中、さきに木沢医師にもらつたらしい散薬をのんだ形跡を認めた。すなわち浴槽の外、流し場の横に濡れたパラフィン紙が捨てられてあつた。さつき木沢氏に渡して、その紙を調べてもらつたが、たしかに木沢氏が渡した健胃剤の一包らしい。なお彼女の着衣の中から残りの散薬が出て来たから全部(二包)木沢氏から野原医師に提出してもらつた」
林田の供述はこんなものだつた。この薬の点は私の今まではつきり知らぬ所だつた。
警部はそれから駿三、ひろ子、さだ子、伊達に対してかなりえんりよなく訊問をこころみた。事件当時の彼らの行動について調べたのである。
ひろ子の行動は既に読者の知れる通りだ。
さだ子はずつと二階で林田に警察の事を物語つていたと語つた。
駿三はこの日気もちが悪く、午後は木沢氏の処方にかかる鎮静剤の効果で、ずつと床の中にいて、ひろ子によび起されるまで何も知らなかつたと述べた。
伊達は一旦帰宅して用事をすませ――用事というのは二、三本手紙を書く為だと答えた――それから夕方六時半頃、裏口からはいつてすぐ二階に上つて林田、さだ子の二人と共にさだ子の部屋にいたと語つた。
二人の女中しまや[#「しまや」に傍点]と久や[#「や」に傍点]は当時台所にいたと一致して答えた。
藤枝はこんな場合、必ず何か口を出して問を発するのだけれども、今日は病気の為かすつかり元気を失つてしまつてまるで黙りこんでいる。
林田も、今日は私と共に警部に一応参考人として取り調べられる立場にいるので、これも多くを他の者に対してはきかなかつた。
最後に、警部は二人の医師とひそひそとまた何か相談していたようだつたが、刑事が電話をかけに行つたようす、その緊張振りから察するに、事件は遂に検事局に報告されたらしい。高橋警部は、医師の説を詳しくきいた結果、他殺の嫌疑濃厚と見たのであろう。
変死体がそのまま現場になかつたのがすつかり警部の機嫌を悪くしてしまつたらしく、警部は、藤枝とも林田とも余り口をきかなかつた。藤枝も林田も今日は余り語らない。
八時すぎ、藤枝は私をかたわらに招いて、帰ろうというようすをした。私は直ぐ彼のあとに従つた。
玄関を出る時、私は藤枝と高橋警部の会話をちらと耳に挿んだ。不機嫌な二人はこんなことを云い合つていた。
「高橋さん、あなたはまだ、早川辰吉を疑いますか」
「無論です。彼の無罪が明らかにならぬうちは」
「あなたは初江の死が過失死だと思うのですか」
「藤枝さん、必ずしもそうではありません。しかし私は、第二の事件と今度の事件が必ず同一人のやつたものだと思う必要はないという意見です」
ひろ子の推理
1
秋川邸を出て、自動車に乗り自宅に着くまで藤枝は一言も発しなかつた。私は、急に彼が活動をはじめたため、せつかくなおりかかつていた彼の身体の工合が、また悪くなつたのじやないかと心配しながら藤枝の家まで一緒について行つた。
「暫くねていたので妙に疲れて困るよ」
「うん、身体を悪くしちや大変だ。かまわんから床にはいり給え」
「失敬して横になるよ」
彼は遠慮なく床にはいつたがかたわらに坐している私に語りはじめた。
「今日の事件は全く意外だつた。殊にああいう形式で惨劇が起るとは、僕もまるで予想しなかつたことだよ。無論度々君に云つた通り、秋川の家に、第三の惨劇が起りはしまいか、ということは考えていた。しかし被害者が初江で、殺人方法がああいうやり方だとは! 全く意外だつた。これで僕の今までの考え方を根本的に改めなければならないかも知れん[#「これで僕の今までの考え方を根本的に改めなければならないかも知れん」に傍点]」
彼は思わずかたわらの煙草入に手を出したが気がついてまた手をひつこめた。
「根本的に考え方を改めるとは?」
「ねえ小川、君は今度の事件の特異性に気が附かないかい? ちようど第二の惨劇――あの四月二十日の事件がひどくある特色をもつていたと同じ位にね」
「さあ、ちよつと判らないな」
「駿太郎とやす子が同一人に殺されたとすれば――しかしてこの考えは正しいと信じるが、そうすれば共犯関係は別として、少くとも直接の犯人は男である、と考えるのが正しいだろう。君もそう思うだろうな」
「うん、そりやそうだ」
「ところが、きようの事件はどうだろう。全くその反対の結論を生み出してはいないかね……君は
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