はそこの入口から庭下駄をつつかけて庭に出た。
成程、花壇はその手入れをする令嬢にふさわしく美しかつた。
「小川さん、きれいでしよう。でもね、此の花の根には毒があるんだそうです。ほらいつか藤枝先生がおつしやつたでしよう。美しい女におそろしい犯罪人があるつて、あれと全く同じですわね。ほほほほほ」
一体彼女は何を考え何を思いついたのだろう。
つづいて彼女はしきりに犯罪に関する話をしはじめた。花のようなひろ子が美しい花壇を前にして春たけなわ[#「たけなわ」に傍点]の庭園の夕ぐれに、犯罪物語をする、ということは全くこの時の情景にふさわしくない感じだつた。それだけに私には彼女の心もちがわからず、それだけにその物語は、一層物凄くひびいたのである。
もし彼女がここで、自分の恋の物語をはじめたとしたら、私は時のたつのを知らずこの庭に立ちつくした事だろう。さつき音楽の話では充分にお相手をした私であるけれども、犯罪物語のお相手はこの場合つとまりかねる気もちになつた。
私は、なんとかして話を転じようとして、さだ子の部屋の窓を下から見上げると、(さだ子の居間はひろ子のそれと反対の側、すなわち庭に面した南側にある)さだ子の横顔が見えたが、すぐその傍《かたわら》にいる伊達正男の頭が目についた。
5
「ひろ子さん、伊達君がまた帰つて来ましたよ」
「おや、ほんとですわね」
私に注意されてひろ子は、二階の窓を見上げるとこう云つたが、ふと自分の腕時計に目をやつた。
「もう六時四十分ですわね。御はんの支度ができる時分なのに、どうしたのでしよう」
「いや、私は失礼します」
「まあ、そんな事おつしやらないで。用意がしてある筈でございますから……それに初江ももうお風呂から出た時分と思いますけれど。私ちよつと見てまいりますわ」
彼女は私に会釈をしながら、そのままガラス戸の入口から家の中にはいつて行つた。
「林田さん、庭に出て見ませんか。きれいですよ」
たつた一人になると、現金な私は早速二階の窓に向つて声をかけた。林田の姿は見えないけれども、無論上にいると思つたからだ。
果して、声に応じて林田は窓の所に姿をあらわした。そして窓から顔を出してあたりを見廻した。
「成程、こりやいい景色だ」
と云つたが思いついたように、
「ひろ子さんは?」
「今ご用で家の中へ行かれましたよ」
私が答えた時、林田と並んでさだ子と伊達が顔を出した。
「小川さん、お姉様の花を見ていらつしやいますの? 其の隣が私の花壇ですのよ」
「そうですか。これも美しいですね」
「一つ僕も拝見しようかな」
林田が云つた。
「いらつしやいよ。ほんとにいい景色だから」
林田はちよつと考えているようだつたが、さだ子に何か云つてから、
「じや僕も下りましよう」
と私に声をかけた。
「ああ直ぐ下りなさい。待つてるから」
私のいうのに応じて、三人の顔が窓から消えた。正にその刹那だつた。
突如家の中から、絹を裂くような女の叫び声がきこえた。
私はこの時の恐ろしさを、おそらく墓場に入るまで忘れないであろう。全く裂帛《れつぱく》の叫びとはこの時私がきいたのをいうのだろうが私はその刹那全身が一時に凍つたかと思つたのである。
「誰か来て! 誰か! 先生! 小川さん」
まぎれもなくそれはひろ子の悲鳴だ。
瞬間、石のようになつていた私は、その言葉をはつきりきくと弾丸の如く――否、おそらくはそれ以上のスピードで、花壇を一とびにとび越えて、ガラス戸の入口から中におどりこんだ。
夢中になつて靴のままおどり込み、そのまま真直ぐに進んで行くとまつさおになつて倒れかかつているひろ子に危くぶつかりそうになつた。
「ひろ子さん! どうしたんです? どうしたんです?」
ささえるように私は彼女の肩に手をかけて叫んだ。
「初江が! 初江が!」
気丈のひろ子も、余程恐ろしいものを見たらしく、これ以上口がきけぬようすでただ右手を延ばして風呂場の方をさすばかりである。
ところへ、林田、さだ子、伊達が驚いてかけつけた。
「どうしました? ひろ子さん」
「初江が……あそこで……」
ひろ子はこういつて私にぐつたりと倒れかかつた。あわててさだ子と伊達が抱きとめたが私はこの時ひろ子がつぶやくように云つた言葉を聞逃がさなかつた。
「風呂場の花嫁! おそろしい! 風呂場の花嫁!」
6
ここで、私は恐ろしい風呂場の惨劇を展開する前に読者に風呂場の位置を、はつきりとお伝えしたい。
玄関を上つて左手が笹田執事の室、反対に右側が応接間であることは既述の通り。応接間のすぐさきがピヤノの部屋で、そのまたさきに、ガラス戸の入口がある。
玄関からまつすぐ廊下があり、やや右に曲つてはいるがそのつきあたりが二階へ通ずる階段で、それまでに左手すなわち笹田執事の室の隣に一つ部屋があり、次が小さな物置(これには廊下を掃除する箒木などがつめこんである)その次が便所でその奥に化粧室があつてそれに隣《とな》つて浴場がある。
風呂場へ通るには化粧部屋のドアをあけて一旦化粧室に入りそこから更に風呂場にゆくことになるのだ。
たびたび申す通り、私は図を描くのは苦手なのだが、不正確ながらも大体の見取図を書くと丁度こんな風になる。
私が、仆れかかつているひろ子にぶつかつたのは、●(黒点)で示してある所で、階段の下、便所の前である。
[#秋川家の部屋の配置図(fig1799_03.png)入る]
ひろ子の言葉をきいた時、咄嗟のことなので、私には『風呂場の花嫁』がどんな恐ろしい意味を表わすのかちよつと解らなかつた。
林田は早くもその意味を察したと見え、いきなり化粧室のドアから中におどり込んだ。此の戸は半ば開かれていた。私もひろ子をさだ子と伊達に托すと、つづいて林田のあとからそこにとび込んだのである。
化粧室に入るとすぐ目に入つたのは、奥の壁にはめこみになつている等身大の立派な姿見[#「姿見」は底本では「姿身」]だつた。その他に色々な化粧品がおかれてあつたが、そんなものは今|記《しる》している限りではない。注意すべきはただ一つ壁のところにさつきまで初江が着ていた着物がかかつている、着物の主は今正しく浴場にいるにちがいないのだ。
林田もすぐ着物に目をつけたものと見え、ちよつと躊躇して私をかえりみた。
初江がどんな状態で浴場にいるにせよ、彼女は無論裸体になつているにきまつている、如何なる場合も若いお嬢さんが真裸体《まつぱだか》でいる所に男がとびこむ事が許されるべきであろうか。
しかしひろ子の悲鳴はわれわれに一瞬間以上の躊躇を許さなかつた。
林田も私と同じ考えと見え、右手のガラス戸の外から、
「初江さん。初江さん」
と二、三回よんでガラス戸を叩いたが、中から何の返事もないのをたしかめるや、
「おい、あけて見よう」
と私に云つたがその声は異常な緊張味をおびていた。
私は無論賛成した。
戸をひきあけて、中をのぞいた瞬間、私と林田と顔を見合わせて、思わず、あつと叫んだのである。
中はタイル張りの美しい広い浴場である。
その奥に、洋式の立派な浴槽がおいてある。
初江はどこにいたか? 彼女はたしかにその浴槽の中に! 八分目満されている湯に中に頭を沈ませ、そうして両脚を上にのばして! 仰向けになつて、沈んでいるではないか。
私はこの時、林田が、口の中で、
「ジョセフ・スミスだ! 風呂場の花嫁!」
というのをきいた。
此の物凄い光景を見た刹那はじめて私もこの言葉をはつきりと思い出したのである。
二人はただちに浴場にかけこんだ。
既述の通り湯は浴槽に八分目位はいつている。
浴槽の広い方を頭にして、初江は無論全裸体で仰向けになつている。身体は殆ど全部湯の中に在り、頭も、目も、鼻も、耳も、つまり顔全部が水面から約二、三寸下になつて水にひたつている。手は一方を胸に、一方を横に延ばし、そうして、両脚を狹い浴槽の端にニユツと突出しているのだ。
7
この恐ろしい、しかし不思議な初江の形を、私は再び下手ながら図に書いて明らかにしようと思う。かくする事によつて、この奇怪な事件が読者に一層はつきりわかると思うから。
なお、序に検証の結果後に判明したところを記すと、浴槽の長さはAB、内側でこれが丁度五尺五寸(但しこれは一番上のひろい所で)底の部分すなわちCDの長さは三尺八寸、巾はEF(すなわち一番広い所)が二尺、底GHが一尺六寸、足の方に当る浴槽の上が(IJ)一尺七寸、底KLが一尺一寸五分であつた。
高さはMNが一尺四寸、OPが一尺四寸二分。
しかして初江の身の丈は五尺一寸あることがはつきりとわかつた。
美しいお嬢さんが、この姿で風呂槽の中につかつており、周囲は全く静かで、時々栓からポタポタと音がして湯がたれている。この妙な不気味な静けさは我慢出来なかつた。
[#浴槽の被害者の図(fig1799_04.png)入る]
正視するに忍びず、という感じで私はあわてて初江の身体を抱きあげようとしたが、それまでにさすがに心をしずめて初江の水の中の顔をじつと見ていた林田が、いそいで口を出した。
「多分もう駄目だろうが法律が何と云つたつてこの死体をここにほつておくわけにはいかない。すぐ木沢氏をよんで出来るだけ早く手当をしてもらわなけりやいかん。しかし、この状態を君ははつきりおぼえておいてくれ給え」
私は、そう云われて改めてこの状態を充分頭に入れたが、いつのまにか林田は風呂場から出て電話の方に行つているらしく、あわてた声がきこえる。やがて彼は再び戻つて来た。
「木沢氏と警察へは今電話をかけた。君は早く藤枝君をよんでくれないか。ちよつとの病気ならとんで来るだろう。」
私はそういわれて、林田と入れ交《ちが》いに廊下にとび出し、いそいで藤枝をよび出した。
彼はまだ病床にいる筈だが、今はそんな事を云つている場合でない。私は無理に電話に出てもらつた。そうして今私が見た所を手短かに話した。電話口で藤枝のあわてた声がきこえる。
「何だ。ジョセフ・スミスじやないか! よし、俺はすぐ行く。しかし君はそれまでに風呂場をも一度出来るだけ調べてくれ給え。そして少しでも妙なものがあつたら、よくおぼえておくんだ」
藤枝がいよいよやつて来る。これで私も一安心と再び風呂場にもどつたのである。
このときは、急をきいて、伊達もさだ子も中にやつて来た。ひろ子はもはや回復したらしく、あおい顔をしたままやはり中にはいつて来て、とりあえず初江の死体を日本間にうつすことにきまつた。
木沢医師が来るまで、林田が人工呼吸をやつてしきりと水をはかせているようだつたが、初江の様子は素人の私が見ても全く絶望の状態であつた。
正確な時間をはつきり記憶していないけれども、初江の死体発見はひろ子がさつき、
「もう六時四十分ですわね」
といつて庭から去つてから三、四分後のことだから、多分六時四十分から五十分の間であろうと思う。
それから約十五分後に木沢氏がいそいであらわれて、応急の手当に全力を注いでいるようだつたが全く努力は報いられなかつた。
「溺死ですな。浴槽の中で溺死されたわけです。不思議な現象です。私は、はじめてですよ、こんな場合に遭遇したのは」
この木沢医師は、ジョセフ・スミスの事件を知らないと見え、不思議そうな顔をしていた。
「風呂場の中で、エピレブシーをおこしたとすれば、こういう状態がおこるかも知れませんがね。しかしこのお嬢さんを私は大分長く診ていますが、今まで発作をおこしたような事はないんですがねえ」
8
既に一度ならず、しかして一人ならず、
「ジョセフ・スミス。風呂場の花嫁」
という言葉を云つているので探偵小説、犯罪実話に興味をもたれる読者は、あああれか、とあの有名な事件を思い出しておられるだろう。しかし、私はジョセフ・スミス事件を少しも知らぬ方々の為に一応この事件にふれておこう。
Joseph Smith は最近の英国の
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