度午後四時半すぎであつた。
 さだ子がいきなり玄関に出て来た。今朝出た笹田が見えない。
「只今帰りました。笹田君はどこかに出たんですか」と林田がきく。
「はい、なんでも息子の家にとりこみがおこつて今日午後から一晩ひまをもらいたいつて申して帰りました」
「ああそうですか。お父様は?」
「まだ床にはいつております。今、木沢先生がまた見えていらつしやいますが」
「そりや丁度よかつた。初江さんが少々おわるいので早速薬をもらいましよう」

   風呂場の花嫁

      1

 一同が応接間に通ると、木沢氏がやがてやつて来た、早速初江の容体を本人から語ると、
「そうですか。矢張り余りよくなりませんでしたか」
 と云いながら、ポケットから薬の袋を一つ取り出した。
「ここに散薬が三包はいつていますが……今苦しくありませんか? あ、そうですか。じやこれを、今日のお夕食前三十分前に一つのんで下さい。夕食は六時ですか。じや、まあ五時半位に一つのんで見て下さい」
 それからひろ子のほうを見ながら、
「さだ子さんにも申し上げてありますが、お父様はもう大分およろしいようで、うとうとしていられますからあのままにしておおきになつたら、よろしいでしよう。さてと」
 木沢氏は金側の懐中時計をとり出して、
「お父様も初江さんも大したことはないと思いますから、じや私は失礼します」
「おやそうですか、僕もちよつと用事があるんです。何、すぐ戻つて来ますよ」
 林田はこういいながら、木沢氏と一緒に玄関から出て行つた。
 初江はもうすつかり気もちがなおつたらしく、別に自分の居間にひきとつて休もうというようすもない。
 ひろ子が父のようすを見に応接間を出て行つた。室にはさだ子、初江、私の三人が残された。
「伊達君はまだ今日は見えませんか」
「はい、今朝からまた警察によばれているのでございますつて。まだ帰されないのでございます。私ほんとに心配で……」
「お察しします」
 こうは云つたものの、さて、それからなんと云つてこの人をなぐさめてやつてよいものか、私はいささか困惑してしまつた。
 初江も思いは同じと見え、多くを語らない。
 折よくこの時ひろ子が戻つて来た。
「さだ[#「さだ」に傍点]さん、伊達さんがいらしつてよ。早く行つておあげなさい」
「まあ、そう、ありがとう」
 さだ子はおちついて椅子から立ち上つたが、さすがに喜びの色はかくせなかつた。
 ひろ子が室に入ると入れ交《ちが》いにさだ子は出て行つたが、伊達と自分の部屋ででも話すつもりなのだろう。二十分程私はひろ子、初江ととりとめのない話をしている所へ、林田がいそいで戻つて来た。
「失敬しました。ちよつと用があつたのでね」
 人が一人ふえたので話もいろいろにはずんで大分愉快な気もちになつて来た。
 ふと、腕時計を見ると、五時二十分すぎである。どうしようか、帰ろうかなと思つていると、不意に女中の久や[#「や」に傍点]が室の戸口に姿をあらわした。
「初江様、お電話でございます」
「電話? どこから?」
「あの、よく判りませんが女の人の声でございますの」
 初江はちよつと迷つたような表情をしたが直ぐに女中について出て行つた。
 五分位たつと彼女はまた室にあらわれたが、なんとなくあわてたようすだ。
「どんな電話でした?」
 林田が立ち上つて初江の方に行つた。初江は、私達を見ながら何かいいかねている形である。
 林田は初江に近づいて小さな声で何かささやいたが、初江もこの人ならば、と思つたか今の電話の事をひそひそ話しているらしい。
 私は自分が探偵でないことを心から残念に思つた。もし藤枝がここにいたならば、きつと初江は藤枝にも今の電話の秘密を語つたであろう。

      2

 こう思うと、ここで一人勢力をもつている林田に対して私はいささか反感らしいものを感ぜざるを得ないのである。ひろ子も余りいい気もちはしないと見え、誰がお前達の話をききたがるものか、と云つた風でことさらに私に話題を出してしやべりはじめた。
 戸口で話していた初江と林田はまもなく、用事がすんだと見え、また室に入つて腰をおろしたがなんとなく、気まずい空気がただよいはじめた。
 しかし、この気まずさは次の事によつてすぐ救われた。
 女中のしまや[#「しまや」に傍点]が戸口にやつて来て、ひろ子の方を向きながら、
「お風呂が出来ておりますのですが」
 と云つた。
 ひろ子はちらと私の方を見ながら、
「ああそう、ありがとう」
 と云つてしまや[#「しまや」に傍点]の方を見返したので、しまや[#「しまや」に傍点]はそのまま引き取つて行つた。
「お姉様、お風呂におはいりにならない?」
「ええありがとう。だけど私、今小川さんとお話しているのよ」
「かまいませんよ、どうかおはいり下さい。私も失礼します」
 私はこう云つて、ちよいと腰を浮したが、すぐひろ子にとめられた。
「あらまだいいじやございませんの、食事をしていらつしやいましな。初江さん、あなたかまわないから先にはいつて頂戴よ。さださんは今伊達さんが来ているしねえ、初江さん、林田先生にごめん蒙つてお風呂にいらつしやいよ」
「そうですとも。姉さんがああおつしやるんだから、どうか私にかまわず、おはいりなさい」
 初江は、姉の不機嫌なのを早くも見てとつて、ここで自然に場をはずすのがいいと決心したと見え、
「じや、おさきにごめんこうむりますわ」
 と云つて立ち上つた。
「どうぞ」
 ひろ子は、はつきりと口で云つたが顔は私の方に向けたままだつた。
 初江は立ち上つて、また何か林田に云いたいらしい。林田はやはり立つて戸口で何か云つている。
「また、初江の秘密主義よ」
 ひろ子は不愉快そうな顔をして私に笑いながら云い出した。
「何かへんな電話でもかかつて心配なんでしよう」
「それだつたら私達の前で云い出してよさそうなものですわね。初江は私達を疑つているのかも知れませんわ」
「まさか」
 私はこう云つたが、ひろ子が『私達』という言葉で、自分と私をさしてくれたのを心ひそかに喜んだのであつた。
「ではおさきに」
 初江はそう云うとすぐ姿を消してしまつた。
 林田はシガレットをくわえたまま、窓の所に立つて外を見ながら何か考えている。
「林田さん、何か重大な事がおこつたと見えますな」
「今ね、あのお嬢さんの所にかかつて来た電話がいつこうわからないんだ。第一誰からかかつたかも判らないんだ」
「女だつてね」
「そう、たしかに女だそうですがね」
 私はこの時、十七日の午後、藤枝のオフィスの電話口できいたあの不気味な女の声を思い出して思わず戦慄したのである。

      3

「いつたいどんな話だつたのです」
 私は勿論こうききたかつたのだ。しかし今こんなことを訊ねた所で到底林田がその内容を云いそうもないのでこの質問はさしひかえた。
 ひろ子も私も黙つてしまつた。
 林田は林田で頻りに何か考えているようすで窓の所に立つてじつと庭の方を眺めている。
 妙な静かな十二、三分間であつた。
 私はこの間に藤枝の警告を心にくり返していた。彼は云つた。秋川邸にいるもの、来る者、全部に注意をせよ[#「秋川邸にいるもの、来る者、全部に注意をせよ」に傍点]。と。
 しかしこれを実際問題に応用するとなると、到底不可能な事に属するではないか。
 今自分が注意できるのは林田とひろ子の様子だけである。
 さだ子と伊達は婚約者で二人が今二階のさだ子の部屋にいるのだ。まさかそこの戸口で二人の恋人のささやきを立ちぎきするわけにも行かない。
 主人は、鎮静剤のおかげで床の中でうとうとしているというのだ、これも二階にねているわけであるがこの一人の所に行くには第一医者に相談しなければなるまい。
 初江が一人になつているはずだが、初江は今風呂場にいる。若いお嬢さんの裸体姿の側に行くなんてことは思いもよらぬ事である。
 こう考えて来ると、藤枝の註文は全く無理と云わなければならない。
 私がいろいろと心の中で考え、結局藤枝の註文を批難している所へ、伊達とさだ子がはいつて来た。見ると、毎日の取調べで伊達は大分やつれているが、でも中々元気だ。
「お話はすんだのですか。どうでした、警察のほうは」
「はい、いろいろご心配下さつてありがとうございます。今やつと許されて来たんですが、どうも警察では私を疑つてるようで困つちまうのです」
「林田先生、伊達さんは今警察からすぐここに来たんだそうでございます。それで用があるから一旦うちに戻つて、また来るというのでちよつとごあいさつにまいつたので」
 さだ子がこう説明した。
「おや、もうお帰りですか。じや、またあとでお話を承りましよう、送りましよう」
「いえ、もうどうかおかまいなく」
「まあいいですよ」
 林田もわれわれの沈黙にはいささか閉口していたと見えてさだ子と二人で伊達を送り出て行つた。やはり伊達はいつものように裏口から来たらしく、玄関の方へ行かずに反対に裏口の方へ向つて行く足音がきこえる。
「小川さん、ここの家のものが二派に分れているとお思いになりません?」
「というのは?」
「さだ子と伊達さんは全く林田先生を信じて私を信じていないのです。それから私は藤枝先生を信じてさだ子と伊達さんを信じないのです」
「初江さんはどうです?」
「さあ、あれはどつちということはないでしようが……今日だつて藤枝先生が見えていればさつきの電話の話をしたと思いますわ」
 私も全く同感である。
 伊達を送り出したさだ子と林田は再び応接間に戻つて来た。
「あなた、詳しく警察のようすを伊達君にききましたか」と林田。
「はあ」
 さだ子は答えながらちらと私達の方を見て語りかねているらしい。
 このさだ子の有様は完全にひろ子を怒らしてしまつた。
「さださん。あんた林田先生とお部屋でお話にならないこと? 私、小川さんとここでお話していますから」

      4

 ひろ子はズバリとこう云つてツンと横を向いてしまつたが、さだ子もこの時は少しも驚かなかつた。
「では先生、私の部屋においでになりません? いろいろ申したいこともございますから」
 ひろ子とさだ子の憎み合いは、林田と私の前に全く露骨にさらけ出されて来た。
「そうですか。じやそうしましよう。ひろ子さんも小川さんとお話があるのではね」
 さすがに林田は巧みに二人のどつちにも花をもたせた調子で立ち上つた。
「どうぞごゆつくり」
 ひろ子は、林田にも冷やかに云いながら私の方をちらとながめた。
 さだ子はこれも珍しくツンとした様子で林田と共にドアから出て行つたが、やがて階段を上つて行く足音がきこえた。彼女は自分の部屋に林田を引きとめて恋人の取り調べられた有様を充分語るつもりなのだろう。
 私ははじめて応接間にひろ子とたつた二人、差し向いになつてやつとほつとした。十七日の午後、この令嬢と初対面をして、今日ようやくゆつくり二人で語れるのだ。私は内心の喜びをかくすことが出来なかつたのである。
 さだ子が林田を信頼すればする程、ひろ子は藤枝を信じている。その藤枝の代りに来ている私である。ひろ子がひどく打ちとけて語り始めてくれたのは、実は藤枝に対する好意かも知れないけれど、私にとつて決してめいわくなわけではなかつた。
 いやな事件を全く離れてわれわれは絵画のことや文学のことや音楽の話をはじめた。藤枝は、二十日の夜、レコードを見て『我が音楽趣味に感謝す!』と独り言を云つたが、今や私もその言葉を心の中で唱えないわけにはいかない。この芸術趣味のおかげで私は約二十分間ほど、ひろ子とたつた二人で語り合つたのであつた。
「ねえ、小川さん、庭に出てごらんになりませんか。ゆつくり私の花壇をまだ見ていただかないんですもの」
「結構ですね。拝見したいですね」
 ひろ子が案内をしてくれたので、私は彼女の後から庭に下りたつた。ひろ子がわざわざ玄関から私の靴を例のピヤノの部屋の隣のガラス戸口までもつて行つてくれようとするので、私は恐縮してあわてて自分で靴をはこんだ。ひろ子
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