つた。
令嬢達が出かけてしまつたので、私はどうしようか、と考えていると、突然、来合わせていた木沢氏が私のいる応接間にやつて来た。
「いや、先日は失礼しました。もう御主人も大変いいようです。もうおきていられますよ。今ここへ来てあなたに何かお話があるそうですから、ちよつとお待ち下さるようにとの事です。私は今日は失礼します」
木沢医師と入れちがいに駿三が現れた。
「昨日はどうも御厄介でした」
「とんでもないことで。とんだ失敗をしましてね」
「しかし、今日はあなたの御注意で、郊外に出て行きましたから皆よろこんでいることと存じます。藤枝先生は如何ですか」
「もう大分いいんですよ。あしたかあさつてはおきて来るでしよう」
「時に、ちよつと私から申し上げたいことがあります。実は、先日からお話しようと思つていたのですが……」
「はあ」
「伊達正男の事ですがね、藤枝先生は大層あの男のことを気にしていられるようで、ひろ子にも、しきりに御注意なされたそうですが、あれは決して怪しいものではないのですよ。私とは親戚の関係は全くありません。ただあれは私の恩人の子なんです。私が若い時に大変世話になつた人があるのですが、それが、不幸にも、夫婦とも短い間に死んでしまつて、あの子は、可哀相に孤児になつてしまつたんです。それで私は恩人に対するせめてもの恩返しとして、あれを立派な男に育ててやつたのです。あるいはもうおききかも知れませんが、私はあの男がさだ子と結婚したら相当の財産をわけてやる気でいます。ただ妻は反対しました。しかしこれも恩人に対する私の恩返しのつもりなのです。今まではつきり申さなかつたので変にお考えのようですが実はそう云うわけなのですから、この点をどうか藤枝先生に充分お伝え願いたいと思います」
「ほほう、そういうわけだつたのですか。して伊達君はそのわけを充分知つているのでしようねえ」
何故か、この時、駿三の顔にちよつと暗い影がさした。
「さあ知つておりますかも知れません。しかし、恩返しにあれを育てたなどというのは、またこつちから恩を売るようなものですから、私自身からは一度も申したことはありません」
10[#「10」は縦中横]
駿三と私とはなお暫くいろいろな話をしたが、別にとり立てていうべき程のこともなく、午後私は秋川邸を辞して再び藤枝を訪問した。
そうして駿三が伝えてくれといつた伊達の素性を一応藤枝に語つたのである。
「うん、とうとう君に白状したのかい。そりやほんとだよ、伊達正男の父は伊達捷平といつてね、丁度今から二十年前に山口県で死んでいる。当時正男は五才だつたから、今二十五才だよ。身体ががつちりしているのでもつとふけて見えるがね」
「おや、どうして君はそんなに詳しく知つてるんだい」
「先日いつた通り、僕もあつちの警察に照会して彼の素性を調べてもらつたんだが、こつちの警察からも最近調べたのだ。さつき電話で、詳しくきいておいたぜ」
「伊達の父というのは秋川駿三の恩人だそうだぜ」
「さあ恩人だつたかどうだかともかく二人は大変親しかつたらしいな。捷平の死んだのが三十五で、その当時駿三は二十五の筈だから向うの方がずつと先輩だがね、駿三が山田家から秋川家に入つて徳子と結婚したのがそれより二年前、すなはち駿三も徳子も二十三才の時だ。当時秋川一家は岡山にいた筈だが、駿三ら若夫婦は山口県で伊達捷平と一緒に事業をしていたらしい。そうして大へん親しかつたんだ。結婚の翌年ひろ子が生れ、その翌年、伊達捷平夫婦が死亡したので、駿三が正男をひきとつてやつたんだよ」
「成程。すると、駿三の云うことはうそじやないんだね」
「そうさ。ところで君はそれで満足したかね」
「そうだね。話がまあよくわかつたよ」
「そうかね。よく判つたかい。何かおかしな所に気がつかないかい」
藤枝は、ちよいとからかうような表情をした。
「ねえ小川。成程、駿三のいう所はよく判つている。しかし、それならだ。何故今まではつきりとその事をわれわれに話さなかつたのだろう。僕が、伊達正男の素性を怪しんでいたことは、あの二十日の夜にはつきり口に出すまでにだつて判つている筈だ。況んや、二十日のあの時以後はなおはつきりと知れている筈ではないか。のみならず、駿三は僕ばかりにではない、ひろ子達にも伊達の素性をはつきりといつていないぜ」
「彼の弁解によれば、恩返しをしているということは、こつちから恩を売ることになるから……」
「君はそんな弁解を信じているのか。冗談ではないよ。駿三はできるだけ伊達の素性をかくしていたかつたのだ」
「何故?」
「そこだ。何故彼がそれをかくしているか[#「何故彼がそれをかくしているか」に傍点]。せつぱつまつて今日になつてしやべるまで悪いことでもないのに――否、立派な美事をどうして彼はかくそうとしたか、これが謎だよ」
「ふうん」
私は今更感心して考えこんでしまつた。
「うん、素性と云えば、早川辰吉の性質がよく判つて来たよ。これはさつき警察から電話でしらせてくれたのだがね、牛込署の刑事が二十一日の夜、大阪に立つて、辰吉の前の情婦の岡田かつに当つて来たんだ。その結果、妙な事が知れたよ。岡田かつは辰吉を嫌つて別れたそうじやないんだそうだ。ただ同居に堪えられなくなつたんだね。つまり一口に云うと早川辰吉という男は変態性慾患者なのだ、すきな女を肉体的に苦しめるのがむしようにうれしいんだ。不幸にも、かつがマゾヒストでなかつたので別れちまつたんだな。そうして佐田やす子の場合もそうだつたらしいんだ。つまり、やす子も辰吉をすいてはいるのだが、どうも一緒におられなくなつたのだろう」
11[#「11」は縦中横]
「そうすると、どういう事になるんだい」
「彼に惨虐性がある、ということが判つた事は、彼の為には決して利益ではない。現に警察では、この点で二十日の夜のあの殺人事件について早川をますます疑つているよ。駿太郎の死にざまを思い出して見たまえ」
藤枝は暫く何か考えていたがまたつづけた。
「しかし、彼が変態性慾患者だということは、僕には、他の点で非常に興味があるな。つまり佐田やす子が全く情夫と逃げたわけでなく、また辰吉を嫌つてにげたわけでないとすれば、非常に面白いなあ」
「どうして?」
藤枝は、しかしこれには答えずに、一人でしきりに面白がつているようすである。
それから後は、私がいろいろに水を向けてもいつこうに、気がのらぬ風なので、私も余り長居をするのもどうかと、そのままうちに帰つてしまつた。
かくて二十日の事件後、二十一、二十二、二十三、二十四と四日は何事もなく無事にくれた。此の四日間の、出来事及び人の行動を簡単に記《しる》すと、二十一日に極くひそかに駿太郎とやす子の埋葬が行われた。二十一日朝から早川辰吉は邸宅侵入罪でずつと警察に拘束されている。伊達は一晩とめられて帰されたが、その後毎日よばれて何か調べられているようすだ。駿三はすでにのべた如く、ようやくショックからなおつて床をはなれたが、藤枝はまだ多少の熱の為に床についたままである。
そうして、とうとう恐るべき四月二十五日がやつて来たのであつた。
例によつて私は、四月二十五日の朝早く藤枝を訪問した。もう余程よくなつているのだが、まだ二日程は外出を医者から禁じられているというので、私はまた一人で秋川家を訪問した。
私が同家に着くと直ぐ、主人がまた身体の調子が悪いという事を丁度来合わせた木沢氏から聞かされた。
「どうもまだ神経がたかぶつておられるようです、どこも他にこれと云つて悪い所もないのですがね。昨夜一睡もできないと云つて大変不機嫌ですよ。なるべく弱い鎮静剤をやつておくがいいと思うので今処方しました。午後もう一度来て見ますが、午後になつてもあんな調子ではちよつと困りますからその時はまたその時でなんとか考えて見るつもりです」
私が木沢氏と応接間で話している所へ、林田もやつて来た。無論木沢氏は林田にも主人の容態を語つてきかせたのである。
「そりや困りましたね、ねえ小川さん、令嬢達は大分ドライヴを楽しみにしているようだが、御主人が病気じや出るのは具合が悪いでしような」
「いや、そんな御心配はありません。今申したようにただ神経が少々たかぶつているだけなのですからかえつてお嬢さん方をどこかへおつれになつた方がお宅が静かになつていいかも知れませんよ」
三人で話している所へひろ子、さだ子、初江が姿をあらわした。
木沢氏が初江に向つて云う。
「昨日から胃が悪くて食慾がないということでしたね。丁度いいです。今日ドライヴでもなさつたらかえつてよくなると思います。私今帰つて午後に健胃剤をもつて来ますから、それまで運動していらつしやい」
木沢氏がこういうのであるから無論今日もまたドライヴすることに決つた。たださだ子は父の様子を注意するために家に残るというのである。木沢氏が先ず秋川邸を辞した[#「秋川邸を辞した」は底本では「秋川郊を邸した」]。
用意が出来て、林田、ひろ子、初江、それから私が車に乗るとひろ子が私にささやいた。
「さだ子はね。伊達さんが今朝早くからまた警察によばれているので心配で出られないんですよ」
12[#「12」は縦中横]
別にどこに行くというあてもない。私はただ藤枝の命令に従つて令嬢達を外に連れ出せばいい事になつているので、ドライヴのプランをきめていたわけではない。林田は何と思つているか判らぬが、これも別にはつきりした目的地はないらしく、結局、運転手の発議で、東海道をいいかげんに走つて見ようじやないかということになつた。
おとといと同じく京浜街道を疾駆して横浜にはいつた。ひるにはまだ少し早いのだが、ここで腹を作ろうという事になり、またニューグランド・ホテルに入つたが、初江一人は全く食慾がなく、僅かにスープとパンを少し取つたばかりだつた。
「どうかなさつたのですか、余程おなかがお悪いようですが……」
私は少し心配になり出してたずねた。
「いいえ、別にたいして……いつこう何もいただきたくございませんの」
でも食事中は、彼女も、ひろ子や林田の話に加わつて快活に談笑していた。
食後、車首を更に西に向けて保土ヶ谷、戸塚をすぎ、藤沢の松並木を通つて平塚に出た。
ここらまで来ると皆、さすがに都の塵をすつかり離れて、いい気もちになつたのだが、初江のようすはだんだんおかしくなつて来た。さつきから一言も云わずに、胸を押えている。
「初江さん、あんたどうしたの。おなかが痛いんじやない?」
「え、たいした事はないの。ただ少し……」
「どう? 痛いの」
「少しね。おなかが痛いような気がするんですの」
こう云つた途端、胃から何か液がこみ上げて来たらしく初江は顔をしかめた。
「おい、ストップ、ストップ」
林田が運転手に声をかけた。
声に応じて車が止ると、初江は口にふくんでいた生唾を傍《かたわら》の砂の上にはいてほつとしたようだつたが、まだ苦しそうに下をむいている。
「帰りましよう。だんだん悪くなるといけません。ねえ小川君」
「ええ、僕も帰つた方がいいと思います」
初江は自分の為に折角のドライヴがおじやん[#「おじやん」に傍点]になるのをひどく恐縮しているようだつたが、やはり一刻も早く帰宅したいように見えた。
ひろ子も無論不賛成をとなえるべき所でないので、再び車首を転じて東京の方に向けた。
私には初江のようすはよく判らないけれども、藤枝真太郎がいつも過度の喫煙で、胃酸過多症にかかつている有様を思い合わせ、初江のようすがやはりどうもそうらしく思われるので、この際、何か制酸剤を与える事はわるくないと思い、林田にひそかに自分の考えを物語つた。
彼もそれは悪くはないだろうと賛成したので、保土ヶ谷の町でちよつと車をとめ、薬屋で重曹を少々求めて冷水で初江にのましたが、幾分かおちついたようにみえた。
その後、特に記《しる》すべきこともなく、車は午後、一気に牛込の秋川邸へと着《ちやく》したのであつた。
丁
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