け陽気にした方がいいというのでね」
 私は一生懸命になつて藤枝の名を呪文のやうに口に出しながら令嬢をくどきおとしにかかつた。
 果して藤枝という名は偉大なる効果をもたらした。ひろ子もかなり心が動いたらしい。こんな陰気なところに終日いることは自分達も相当つらいのだろう。
「どうです。ドライヴでもいいし芝居でもいいし、出かけて見ませんか。妹さん方をおさそいになつてはどうです」
「じや、相談してまいりますから、ちよつとお待ち遊ばして」
 ひろ子は応接間を出て行つた。

      6

 まもなく彼女は初江と一緒に室にはいつて来た。
「今のお話、妹にも話しましたら大変よろこんでおります。是非どこかにお伴したいつて申しておりますのよ。さだ子にも話しましたが、さだ子は今日もう少したつと伊達さんが見えるので出られないつていうことでございます。出られない人は仕方がございませんわね」
「ああそうそう、伊達さんは今日も警察によばれているんですつてね」
「はい。何でもそのちよつと前に来るんでございますつて。それで、私と初江とがお伴いたしますわ。それから女中を一人つれて行つてやりたいと存じますのですがよろしゆうございましようか」
「そりや結構です。喜ぶでしよう。是非つれてつておやりなさい」
 ひろ子と初江とは何かひそひそ話していたが、相談がまとまつたとみえて、
「じや久や[#「久や」に傍点]をつれて行つてやりますわ」
 とひろ子が云つた。
「お父様には無論おつしやつたのでしようね。お許しが出なければだめですよ」
「ええ、そりやもうちやんと申しましたわ。父もはじめは、不幸のあつたすぐあとで、出歩くのはどうかと云つておりましたんですが、藤枝先生からわざわざそう云つて下さつたという事を聞いて、じや矢張りご好意に甘えて連れてつて頂いたがよかろうつて申しておりますの。父もお目にかかつてお礼を申し上げたいつて云つております」
 それから二人はまた部屋を去つたが外出の支度でもしているのであろう。
 ちようどそこへ、駿三がやつれた顔をして現れた。
「どうも大変な事でさぞお疲れでいらつしやいましよう。如何です、お工合は?」
「いや、全く弱つております。先日は頭がへんになつておりましたので、藤枝先生にもとんだ失礼な事を申し上げてしまいました。どうかあなた様からよろしくおつしやつて……お気にさわつてなさることと思いますから」
「なに、何でもありませんよ。今日も彼が来るといいんですが、生憎身体を悪くしてしまいましてね。それでお役には立ちませんが、私にお嬢さん方のお相手をしろと命令したわけです」
「ああ、今うけたまわつたんですが、うちの娘達をどこかへお連れ下さるそうで、喜んでおります。実さいこんな事がおこつて娘たちに気の毒なんですが、一つどこか気のはれるところにでもつれて行つてやつて下さいませんか」
 主人の気分がすつかりこつちと合つて来たので、私は心ひそかに喜んだ。
 まもなく、二人の令嬢は外出の用意ができたと見えて、また応接間にあらわれた。さすがに、金のかかつた服装だけれども、折が折とて、余り人目に立たぬみなりであつた。
 私には、実はひろ子、初江、久や[#「や」に傍点]の三人を私一人で連れ出すことは相当心配なのである。しかし当人連は一向にそんな不安な様子はない。久し振りで、ほがらかな[#「ほがらかな」は底本では「ほがらなかな」]外気にあたれるつもりですつかりよろこんでいる。
 どこへ行くか、という事で、暫く話し合つたが、結局、とりあえずホテルへでも行つて食事をすませ、それから映画か芝居でも見ようということになつた。
「では行つてまいります」
 令嬢達はやさしく父親にあいさつした。
 玄関には、泉タクシーからまわされた、ハドソンのセダン・リムージンが、スマートな形を横たえている。
 私も、ドアに手をかけながら主人にあいさつした。
 ほがらかに晴れ渡つた春の空の下を、車は美しき人々をのせて軽快に走り出した。

      7

 久し振りの外出なので、ひろ子も初江もほんとうに楽しそうに見えた。女中の久や[#「や」に傍点]は、はしやいではいないが無論これも心から喜んで令嬢達のお伴をしているに違いない。
 ひるめしには未だ間があるので横浜のニューグランドまでドライヴしようじやないかと、令嬢達が云い出した。
 藤枝は外出中は絶対に安全だと断言したけれども、どうも私は余り安心が出来ず、運転手の様子などを神経質に観察したが、別に悪漢が変装している様子もないのでついに私もそれに同意した。
 でも、川崎位までの間は、私は妙におちつけなかつたが、何ら怪しい事もないので、車が勢よく横浜に走りこんだ時にはもうすつかり安心しきつて、二人のお嬢さんといろいろなおしやべりをしていたのである。
 ニューグランドについてからも別にあやしい人間は見当らなかつた。
 食堂で、久し振りでうまいコールドラブスターをつつきながら私はすつかり安心して藤枝の先見に感服してしまつた。
 食事はひるちよつとすぎ終つた。ではこれから邦楽座でも見ようというのでわれわれは再び車を東京に向けた。
 邦楽座の二階に席をとつた時はちようど、パラマウント・ニュースが映写されはじめた時で、極く工合がよかつた。映写の間の休み時間には誰にも知つた人に会わず、われわれは心ゆくまで映画を鑑賞することが出来た。
 しかし最後の、呼物の写真がうつりはじめた時、私はこれはとんだ事になつたと感じた。
 その映画は、有名な探偵小説を映画化したもので、アメリカの映画スタディオで殺人が行われるという筋、はじめの出からして物凄いものであつた。
 折角外出して陽気になつたばかりの所へ、こんな殺人映画を見せられては、令嬢達も堪まるまい。私はプログラムをあらかじめ調べないで、とび込んだ事を心ひそかに後悔しはじめたが、はたして初江が写真の途中で、
「私、何だか気味が悪いわ、もう出ない?」
 と云い出した。
 しかしひろ子の方は、いつこうこわがつている様子がない。否、大変熱心にフイルムに見入つている。久や[#「や」に傍点]の様子をちらと見ると、これは西洋映画の筋がよくのみこめないと見えて、余りこわがつていないようだけれども、また余り面白がつてもいないらしい。
 ともかく、ここに長くいるべきでないと思つたから、私はひろ子に、
「何だか、こんな時にこんな写真を見るのはいい気持がしませんから、芝居にでもいつて見ませんか」
 と切り出した。
 ひろ子は、もつと見ていたかつたらしいが、初江がしきりに出たがるので、仕方がないという形でコンパクトを出して顔をなおしながら、
「じや、東劇へでも行つて見ましようよ」
 とやつと同意した。
 またもや御意のかわらぬうち、と私は早速三人を促して廊下に出て、電話で東劇の切符を問い合わせると幸にもならんで四枚とることが出来たのでいそいで、邦楽座から、東劇までかけつけた。
 華かな劇場に足をふみ入れた途端、私は、今まで予期しなかつた危険がせまつていることに気がついた。
 これは藤枝も考えていなかつたことだつた。
 しかしあとから思えば当然考えるべかりしことである。ここに思い至らなかつたのは、全く藤枝にも似合わしからぬ手おちというべきであつた。

      8

 藤枝も私も、これまでただ生命、身体に対する危険のみを考えて名誉に関する危険ということを全く忘れていたのだ。
 劇場にはいつて一旦席をとり、幕のあくまで廊下を散歩していた時、早くも数名の男女が一斉にわれわれを見て何かひそひそ云つているのに私は気がついた。
 はじめ私は、ひろ子と初江が余り美しいので人々が目を見はつているのだと思つていたが、どうもちよつと様子がおかしい。しかし、幕があくまで私はおろかにもその意味を充分に解していなかつた。
 一番目の幕があいて、金襖を背景に梅幸が、あの古典的な端麗な姿をあらわした時、私の耳についたのは、
「音羽屋!」
 という大向うのかけ声よりもすぐ後の椅子で、無遠慮な男が二人で話している声だつた。
「おい、ありや秋川駿三の令嬢じやないか」
「うんそうそう、新聞に写真が出ていたが、まさにあれだよ」
「驚いたね、平気で芝居に来ているとは!」
 私は、邦楽座で感じた以上の、不愉快さを感じはじめた、こりやいかん。とんでもないことになつたぞ。こう思いながら、そつと二人の令嬢の方を見ると、幸い二人とも舞台に気をとられていて後の話には気がつかないらしい。
 けれども、私はもはや芝居どころではない。気が気でないのである。
 五分間の幕間には、ひろ子も初江も席をはなれなかつたから、ここは無事に通過したが、次の十五分間の休みの時には、二人とも廊下で全く人にかこまれてしまつた。
 二人とも、もうその意味が判つたらしく、すつかり心で後悔しているようだつたが、ひろ子は、これを感じると、心で何くそ、と決心したらしく、昂然として、平気で美しい顔を人々の前にさらしていた。初江のほうはこれに反してしよげ切つて、いそいで久や[#「や」に傍点]と共に席にもどつたが、ひろ子は中々席にもどらず私にしきりと芝居の批評などをするのである。
 しかし、次の食事時間に至つて、周囲の人達の態度はますます露骨になつてしまつた。
 食堂では、私は無論気をきかして私の名で席をとつておいたのだが、まわりの人達の視線はひとしくわれわれの上に注がれている。
 初江はもうひどくまいつてしまつて一言も発しない。
「いやねえ、ほんとに。馬鹿らしいじやないの!」
 ひろ子はたまりかねて初江にこんなことを云い出した。
 まるで周囲から圧迫されるような気持なので私は一刻も早くここを逃げ出したかつた。が、ひろ子は折角今までいたのだから、どうしても次の、梅幸、羽左衛門の『かさね』を見て行く、と云つて頑張つた。それは明らかに負けおしみだつた。彼女は今ここを逃げ出せば自分の負けだ。もう少し頑張ろう、という気らしい。けれども心の中では私以上に苦しんでいるにちがいないのだ。
 しかし何と云つても矢張り女である。
 物凄い木下川《きねがわ》堤で、与右衛門が鎌を振りあげてかさね[#「かさね」に傍点]を殺しにかかつた時は、ひろ子ももはや堪まらなくなつたらしい。幸い、舞台の照明がひどく暗いので今立つても人目にわりにつかない時である。
 私は、かさね[#「かさね」に傍点]が『のう情けなやうらめしや……』とかきくどいているのを後に、三人を促して逃げるように劇場を出てしまつた。
 こうして二十三日の外出はさんざんの失敗に終つた。
 令嬢達は帰りの自動車の中で、一言も口をきかなかつた。私はただひたすらに恐縮し切つて、だまり込んでいた。この二人の美しい令嬢の一人が数日後に無残な死体となるだろうとは露ほども考えずにただ自分の失敗を韮をかむような思いで心の中でかみしめていた。

      9

 四月二十四日の午前、まだ病床にいる藤枝を訪問して、私は昨日の失敗をくわしく物語つた。
「そいつはしくじつたな。成程僕がそこに気がつかなかつたのは大失敗だつた。じや、こうしたまえ。もうお嬢さん方もああいう所へ行くのはこりこりだろうから、郊外をドライヴさせるんだ。ともかく外出することをすすめたまえ。それから今日は君は必ずしもついて出ないでもいい。ついて行つても無論かまわないが……」
「何にしても、早く君になおつてもらわんと困るね」
 こんな会話をした後、また私は秋川家を訪問した。果してひろ子も初江もすつかり昨日の事でこりて、もう一歩も外出しないというのである。
 私は、藤枝がなおるまで――それはもう二日位のことだから、それまで私のいうことをきいてくれということを切に述べた。丁度林田も来合わせていたので、林田にもそのことを伝えると(但し藤枝の真意は私はのべなかつた。ただ気の晴れるように出かけたらよかろうと藤枝が云つている、ということにしておいた)彼も同意なので二十四日の日は、私は秋川邸に残り、ひろ子、さだ子、初江、それに林田と伊達が加わつて、郊外に出かけて行
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