」
「いいえ、邦文のタイプライターで打つてあつた、そうでございます。表もすつかりタイプライターだと申しております。父の所にまいりましたのもたしかにタイプライターで打つてございました」
「判りました。これで、お父様が、会社を退かれる前のようすが、はつきりしました。つまりお父様は、なに者かの為にいつも脅迫されている。それでいつも心配していらしつた。そのうえ、妹さんの所にまでそれが来た、という事を知つて、ますます煩悶なさつた。その結果、神経衰弱がいよいよひどくなつて行つた、とこう云うわけですな。ところで、妹さんの所に手紙が来た事については、お母様にもお話なさつたでしようね」
「私は何も申しませんでしたが」
「では、さだ子さん御自身は、如何ですか」
このとき、ひろ子嬢の顔にちらと妙な表情が浮んだが、それは直ぐ消えて彼女ははつきりこう云つた。
「いいえ、さだ子もきつと黙つていたことと存じます」
「そうですか。いやありがとうございました。ではつづいてお話し下さい」
藤枝は新しいシガレットに火を点じてうながした。
「つまり斯様な状態で、父はだんだん妙な人間になつて行つたのでございます。十一月のなかばごろにまたまた一通の怪しい手紙がまいりました。私はそのとき、それをそのまま自分で開いて見ようか、と余程考えたのでございますが、それもなし得ず、黙つて父の机の上においておきましたが、その翌々日父は、健康がつづかぬと云うわけで、いつさいの職務から関係を断つてしまいました。これが昨年暮の十一月までの父のようすでございます」
「ちよつと、お父様は警察へは一度もその話をなさつたようすはないのですか」
「はい、決して! 私もそれがどうも気になつておりまして、自分で警察のほうにでもお話しようかと存じましたのですが、父自身がああして秘密にしている以上、何かわけがある事と考えましたから、私は今日まで誰にも何も申さずにおいたのでございました。ところが……」
ひろ子嬢がここまで語つてきたとき、不意にドアをノックする者があつて、藤枝の声に応じて、給仕が一通の手紙をもつてはいつて来た。
ちようど私が一ばんその入口に近いところにいたので、手をのばしてその手紙を受け取りながら表を見ると、
藤枝真太郎氏事務所気付
秋川ひろ子殿
とタイプライターで書いてある。
私は何気なくそれを秋川ひろ子の手に渡そうとして、ひよいと裏返して見たが、おもわず、アッと叫ぶ所であつた。
第一の悲劇
1
見よ。そこには、はつきりと赤い三角形の印《しるし》が押してあるではないか?
私はそれを見た刹那[#「刹那」は底本では「殺那」]、すぐにこれを、ひろ子嬢に手渡していいかどうか、ちよつと考えざるを得なかつた、ひろ子嬢は、しかしその間にもうその手紙の恐ろしい三角形を認めてしまつたらしい。
「あら! ここにもこんな物が? あの私にですの?」
さすがはやはり女だ。今までしつかりとしていた彼女も、この手紙の印を見ては全く面喰つたらしい。膝の上から危くすべり落ちそうなハンドバッグをやつと握りしめた。
けれど、一番敏活に行動をとつたのは藤枝だつた。彼は私の手に何があるかを見るや素早く立ち上つてドアをあけた。
次の瞬間、ドアの外からこんな会話がきこえて来た。
「オイ、給仕、今の手紙はどうしてきたんだ」
「使いの方が持つて来たんです。メッセンジヤーボーイのようでした」
「もう帰つたかい?」
「あの手紙をおくと直ぐに帰りました。受取を書こうとしているのに、いらないと云つて!」
「そうか」
藤枝が再び戻つて来た時は、私はひろ子嬢とただ黙つて顔を見合わしていた。
「畜生! ふざけたまねをしやがる」
藤枝は、一人こう云いながら、椅子に腰かけたが、令嬢の前でとんだ乱暴な言葉を出してしまつたのを悔いた調子で云つた。
「いや、これは失礼しました。誰かのいたずらですよ。しかし、あなた宛の手紙です。一応ごらんになつては如何ですか。そしてもしお差し支えなかつたら、後で私に見せて頂きましようか」
しかし、ひろ子嬢の顔色はまつたく青かつた。
「あの……私何だか恐ろしくつて……どうか開けて見て下さいませんか」
藤枝は、こう云われると少しも遠慮なく、その手紙を手にとつた。
「これは今までお宅へ来たのと同じ封筒ですか」
彼は、強いて平気を装うて、ひろ子嬢をおちつかせようとしているらしかつた。ペーパーナイフを側の机の上からとると、器用に、封をすつすつと切りながらつけ足した。
「御心配になる事はありませんよ。こんないたずらをする奴に限つて、決して恐ろしいまねなんかしやしないのですからね」
ひろ子嬢は、しかしもう何も云わなかつた。否、云えないのだ。私もどんな手紙が出て来るかと、固唾をのんで待つていた。
封筒の中からは卵色の洋紙が出て来た。
一応藤枝が目を通して、それからひろ子嬢と私の前に出したのを見ると、邦文のタイプライターで全部、片仮名で次のような文句が書かれてあつた。
[#ここから1字下げ]
タダチニ、ウチニモドルベシ。ナンジノイエニ、オソルベキコトオコラン。カカルトコロニ、イツマデモイルベカラズ。
[#ここで字下げ終わり]
「つまり、あなたに直ぐ帰れと云うんですな」
藤枝は、にこやかにひろ子嬢に話しかけた。
「あの、私がここにまいつておりますことなんか、誰も知つているわけがないのですが」
令嬢は青くなつて立ち上つた。
「秋川さん、そう御心配になるには及びませんよ。まださつきのお話もすつかりうかがつてないのですから、もう少しお話し下さいませんか。私もついているのですから大丈夫ですよ」
2
藤枝は、秋川ひろ子の話に余程の興味をもつたらしい。肝心の所で、話が途切れかかつたので、後をつづけさせようと、しきりとひろ子を落ち着かせて、その後をきこうとした。
しかし、さすがの彼の雄弁と努力も、目《ま》のあたり今きた三角の印が、ひろ子に与えた影響にはかなわなかつた。
やはり弱い女性である。しつかりしているように見えても秋川ひろ子は矢張り女である。
私はそう感じたと同時に、この三角形の印のある手紙が、最近どんな恐怖を秋川父子《おやこ》に投げ与えているか、という事もはつきりと感じられた。
おそらく、ひろ子が、これから語ろうとした事実には余程深刻なものがあるらしい。
藤枝が頻りとききたがつていたのも無理はない。
約二、三分、藤枝はいろいろとひろ子を説得したけれども彼女はもう腰がおちつかず、
「でも私……何だか恐ろしくて……」
と云つて立ち上りかけていた。
こういう有様では、とうてい今ここに落ち着かせる事は出来ぬと悟つたか、藤枝は、とうとうこう云つた。
「私は決してそう御心配になる事はいるまいと、思うのですけれど……まだすつかりお話をうけたまわり切れぬうちに、そう断言するのも軽率[#「軽率」は底本では「軽卒」]ですから、それほど心配になるならすぐにお帰りになつたらいいと思います。……しかし、まだ、明るいですが、一人でおかえしするのは、ちよつと心配ですから……」
彼はこう云つて私のほうを見た。
「いえ、私一人で結構でございますの」
ひろ子はこう云つたものの、やはり気になると見えて、すぐには去りかねているようすである。
「失礼ですが、私どうせひまですから、お宅までお送りしましようか」
私は、二人の中どつちともつかずに云つた。
「大変でございますわ」
「いいえ、小川君はどうせ今ひまなのです。それに人間も確かですから、小川君に送つてもらいましよう、ねえ秋川さん、そうなさつたらいかがです?」
「でも余り……はじめて伺つて勝手でございますから」
「何、いいですよ。小川君に頼みましよう」
彼はこう云つて私を見た。
「ねえ君、君が行つてくれれば安心なんだが、その辺の流しの車を捕まえてうつかりのるのはまあけんのん[#「けんのん」に傍点]だ、君、すまないが日の出タクシーへ一台よこすように云つてくれないか」
「うん、よし」
私はすぐに、電話器の所に行つて指でナンバーを廻転しはじめた。
ジージーと明らかに相手をよんでいる音がきこえるが、中中相手は出て来ない。
すると、どう混線したか、妙な声が途中でしきりにきこえて来る。男の声か女の声かはつきり判らない。
「かけてるんですよ。困りますね。切つて下さい」
私はじれ切つてその声に向つてどなるように叫んだ。
すると、どうだ、その不思議な[#「不思議な」は底本では「不思議が」]声がこういうではないか。
「ほほほほ、藤枝さん、余計なことに手を出すものじやありませんよ。秋川家のことには手をお出しなさいますな!」
3
「何?」
私は思わず、電話口で大声をあげた。
「秋川家のことに手を出すものじやないというんですよ。どんな不幸が来ても、来るには来るだけの理窟があるんだから、藤枝さん、むやみに手を出すととんだ事になりますよ。ほほほほほ」
「何だ。オイ、君はいつたい誰だ」
声では男女がはつきりしないが、言葉の云いまわしはたしかに女とみえる。この不思議な声に対して、私はとびかかるように、またどなり返した。
「おい君、どうしたんだい」
左の肩をちよいとつかれて、ふりかえると藤枝真太郎が、早くもこの電話の応答を怪しいとみたか私の側につつ立つて、さぐるような目つきをして私をにらんでいる。
「妙な声がきこえて来るんだよ、それが秋……」
「シーッ!」
彼はこわい目をして私をにらみながら、ちらとひろ子の方を見た。ここでへんな事をいい出して、この上この美しい女性に心配をかけるなという意味であろう。
私は、黙つて、受話器を藤枝に手渡して後にさがつた。
おそろしい手紙の事で、夢中になつているらしいひろ子には、幸い私のへんな様子は気付かれなかつたらしい。
私は手紙を手にとつたまま、椅子の所にぼんやり立つている彼女に向つて、
「今、すぐ車が来ますから、まあおかけになつていらつしつて下さい」
と云いながら、たえず藤枝の方に注意していた。
しかし、本人の藤枝が電話口に出た時は、もうあの怪しい相手は話を切つてしまつたとみえて、彼は少しも妙な会話をはじめなかつた。やがて彼はおちついた声で、
「え、日の出タクシーですか。こちらは藤枝です。一台すぐよこして下さい」
と云いながら電話を切つてしまつた。
「今すぐ来ます。この裏ですから二、三分で来るでしよう。それまでお待ち下さい」
「どうもいろいろごめいわくをかけまして、ほんとうに申し訳ございません」
「どう致しまして……それでと……すぐ車が来ますがそれまでに一言うけたまわりたいのですが、最近の御父様のようすは、つまりさつきおつしやつた状態がだんだん進んだ、というのでしような。手紙がまたさかんに来る、というような事なのでしよう。最初あなたが、漠然という言葉を使われた所からみても、とり立ててこれというような事件が、最近におこつたわけではないのでしようね」
彼は、ちよつとの間に、すばやく要領を得ようと努力をした。
「はい、一言で申せばまあそんなわけでございますの」
「それから、その手紙ですが、あなたにあてられていますから無論これはあなたがおもち帰りになつていいのですが、もし出来ることでしたら私に御預け願えませんでしようか。何かの参考になると思いますから」
ひろ子は、何の躊躇もなく、今きた手紙を藤枝に渡したのであつた。
丁度その時、
「自動車がまいりました」
と云つて、給仕が顔を出した。
4
藤枝は、ひろ子と私を玄関まで送り出して来たが、頻りとひろ子に対しては、勇気をつけるような事を云い云いしていた。
「ですけれど、もし余り御心配ならば、いちおう警察におつしやつた方がよくはありませんか。その辺は充分にお考えになつて……じやあ君、よろしく頼むぜ。お送りしたら直ぐに戻つてき給え」
エンジンが音を立てはじめた時、彼は一言私に向つて云つた。
二十一歳になる美しい令嬢とたつ
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