が座をはずしてしまえば、これから後に説くような惨劇の渦中に私はとびこむ必要もなかつたわけだが、同時に私は秋川家の美しい人達とも永久にあわなかつたかも知れない。
「いま藤枝君が申す通り、私は藤枝君の手伝いをやつているものです」
 われながら訥弁だとひどく感じながら、私は美しい秋川嬢の前で、やつとこれだけをいつたが、なんだか顔が赤くなつたような気がした。
「しかし、藤枝君に特に極秘の御要件でしたら私はご遠慮しましようか」
 こんなつまらぬ遠慮をちよつと口からすべらせてしまつて実はひやつとした。
「なんだい、君、いつものようにここでお話をいつしよにきいたらいいじやないか。……秋川さん、小川君はこういうつまらぬ遠慮を時々いうんで困るんですよ。殊にあなたのようなお若い、立派な方が見えるときつと、こんなにはにかむんですよ」
 彼はこういつて、ちらとこつちを見た。
 女性を恋せず、女性を尊敬しないという藤枝は、しかし女性に対しては、きわめて社交的である。彼は巧《たくみ》に相手の窮窟さを楽にしようとした。
 秋川嬢は、ちよつとあかくなつたが藤枝をにつこり見ながら云つた。
「やつぱり私みたいな者が時々うかがいますんですか」
「ええ、ちよいちよい見えますよ、この頃の若いお嬢さん達は皆しつかりしておいでで、中々立派な問題をもち込んでおいでになります。もつとも若いお嬢さんがたが見えるのは、よくよくの事で極めて秘密の要件が多いのですが」
 彼はこういうと、シガレットに火をつけた。
 秘密の用件をひつさげて、この探偵の前にあらわれたのは自分がはじめてではない、という確信が秋川ひろ子をして大へんにくつろがせたらしい。
「では、あの今朝、手紙をさし上げましたことにつきまして申し上げさせて頂きます」

   ひろ子の話

      1

 秋川嬢は、さすがに、もういちど自ら堅く決心したらしくこう云い出した。
「どうか、御遠慮なく。ただあらかじめ申し上げておきますが、私のところにおいでになる以上、よくよくの事情がお有りのことと思います。従つて無論その事は重大な秘密に違いありません。ここにおいでになつていることすら、既に秘密に属するでしよう。けれど一旦、私を信じておいでになつた以上、どうか何事もかくさず、嘘を云わず、はつきりと云つて頂きたい。これはあらかじめ、切にお願い申しておきます」
「無論でございます」
 秋川嬢ははつきりと答えた。
「一旦、先生を御信用申し上げてお訪ね致しました以上、決してかくし立てをしたり、嘘を申し上げたりは致しません。ただ私、心配なのは私が今日うかがいました用件と云うのが、少々漠然としたことすぎるような気が致しますの」
「漠然? はあ、そりやかまいません。どうかなんでも云つて下さいまし」
「実は今日うかがいましたのは私一個の問題ではございませんのです。それはあの御手紙で申し上げました通りでございます。私、実は父の事について心配な事がございますので、うかがいました次第なのです」
 私は少々意外な気がした。これまで藤枝を訪ねて来た若い女性の問題は、たいていデリケートな恋の問題か恋人の行方《ゆくえ》に関してであつたので、私は秋川嬢もきつとこんな話をはじめると思つていたのである。
 藤枝は、しかし少しも意外な顔をせずにじつと秋川嬢をながめている。
「私の父は、あのもしかしたら名前位きいていらつしやるかも知れませんが、秋川駿三と申しまして、先頃まで会社の社長をしておりました者でございます」
「先頃までですか。現には?」
 これは藤枝がちよつとおどろいた調子できいた。
「昨年の十一月まで、秋川製紙株式会社の社長を勤めておりましたのです。それが昨年の末になつて急にその会社をやめ、その他一切の会社との関係を断つてしまいました。それで只今では無職というわけでございます。父はまだ四十五才になつたばかりでございますから、隠居をするにはまだ早いのでございますが、近頃大へんな神経衰弱にかかりまして、とても健康がつづかぬからというので、只今申し上げました通り、全く無職の人間となりました。家族は父の他、母徳子と、私が長女で、妹が二人ございます。すぐ次の妹が、さだ子と云つて今年十九才、次が初江と云つて十八才になります。それから弟が一人ございますが、駿太郎と申しまして、これは今年十五才になります」
 秋川嬢はここまで一気にしやべつてちよつと口をとじた。藤枝は、無表情な顔で、あいかわらず紫の煙を空中にふいている。
「私が今日うかがつたのは、父についてでございます。父は最近、何かを大変おそれております。一言で申せば、何者かに非常におどかされている。今日にも殺されはせぬかと恐れているようなのでございます。そうです、たしかに父は生命をつけねらわれている、少くとも父自身はそう感じて恐れておりますように思われるのでございます」
「生命の危険をですか」
 藤枝がきいた。
「左様《そう》です。父はたしかに生命をおびやかされております。名誉や財産ではございません。はい、それはたしかでございます。そう考える理由が充分でございますの」

      2

 秋川嬢はつづけた。
「それをはつきり知つて頂くためには、父が昨年勤めを一切やめてしまつた頃からのお話を申し上げる必要があると存じます。元来、私の父と申す人は、余り強気の人ではございませんが、しかしともかく、秋川家に入りまして……あの御承知かどうか存じませんが父は養子でございますの……秋川家に入りましてから、事業も凡てに成功いたして今日までに至つた位でございますから、そんなに意気地のない性質ではありません。けれど私が幼少の時から父は大変神経質でございました。
 それがこの数年になりましてから、だんだん神経衰弱のようになりまして、毎晩眠り薬をのまねばねむれぬという風になつてまいりましたのです。
 医者にも診ては頂きましたが、格別にこれと申して、はつきりした原因はない。多分事業が余り劇《はげ》しすぎるからではないか、というような事でございました。
 ところが、近頃はそれがだんだん劇しくなりまして、昨年の夏なんか、どうも眠れない夜が恐ろしいようすなのでございます。私もはじめは、いつもの神経衰弱がつのつたのだとばかり思つておりましたが、ある日、とうとうその原因らしいものを、発見してしまつたのでございます。
 それは、たぶん昨年の八月の末ごろだつたと存じます。ある夕方、私は父の所に来た手紙の束をもつて父の書斎にまいつたのです。まだ父が帰りませんので、一人で何気なくその手紙をそろえておりますと、青い西洋封筒が一つ、床におちました。拾いとつて、ちよいと封じ目を見ますと、そこに赤い三角形の印《しるし》がおしてございます。珍しい印とは思いましたが、別に気にもとめずに、そのままそこにおいておきました。これにはさし出し人の名はありませんでした。
 その夜、父はどうしたわけか夜中二階の寝室でおきていたらしく、あくる日、母が私にふしぎそうに語りましたが、父は、床にもつかず、何か考え、考えてはためいきをついていたそうです。母が何をきいても一さい父は云わなかつたそうでございます。
 すると一月《ひとつき》ばかりたつてからのある夜、父が青い顔をして私共の部屋にまいり、
『このごろは、世の中が物騒だから下男をふやそうかと思う。お前たちも気をつけて、夜ねる時には一通りの戸締りを見てから、ちやんと鍵をかけてねろ』
 と申して、また自分の部屋に戻つたそうでございますが、その夜、母がひそかに気をつけておりますと、父は夜中、ピストルを手にして部屋の中をうろうろしていたらしいと申すことでございます。
「ちよつと、秋川さん、その頃お宅には下男は何人いたんですか」
「下男は一人しかおりませんでしたが、老年の執事が一人おりました。今でもまだおります」
「失礼しました。どうか話をおつづけ下すつて!」
「私はそれをきいて、その翌日父が勤めに出ますと、そつと書斎にいつて見ました。この前のとき、何だかあの赤い三角形の手紙と、父の恐怖と関係があるような気がしましたものですから。それに西洋の探偵小説なんかによくあるものですから!
 父の部屋にはいつて見ますと、私はまず第一に状差しを見ました。けれど何も見当りません。紙くず籠を見てもやはりないのです。ではやつぱり私の考えは小説の空想だつたのか、とその時はそう思つてしまいました。

      3

 けれど、これは矢張り私の空想ではございませんでした。十月のはじめ、外出先から私が帰つて来て門の郵便箱を開けて見ますと、そこにまた三角形の印《しるし》のついた手紙が来ています。今日こそは、はつきり確かめねばと私は決心しまして、其の儘、それを父の書斎において、父の帰るのを待つておりました。
 珍しく父は、その夕方わりに早く帰つてまいり、着物をきかえながら、夕食はうちでたべるからと云うので、母が台所に行つて女中達にいろいろ食べ物のことについて申している間に、突然父のようすが変つてしまつたのでございます。疑いもなく、父は書斎にはいつてあの手紙を見たに相違ございませぬ。折角母が丹精して作つた夕食にも殆ど手をつけず、食卓に向つても、なんだかしきりに考えているようでございました。
 食卓を離れた父は、ますますいらいらしているようでございましたが、書斎に入つたり出たりして落ち着きませぬ。母も何事かと、また心配しているようでございましたが、どうもはつきりしたことは判らないようなのでございます。
 夜になりましたが、私はとうてい眠られませぬ。十二時すぎにそつと起きて寝室から出てまいりますと、廊下でばつたり誰かにあつてしまいました。それはさだ子でございました。
『さださん、どうしたの? 今頃』
 とききましたが、妹は青い顔をしたまま何も答えないのです。私は思い切つて、
『さださん、あんた、お父様のことで何か心配していらつしやるのではない?』
 ときいて見ました。
 そうすると、妹は黙つてうなずくのです。
『じや、あんたも、あの手紙に気がついているの?』
 とはつきりきいて見ますと、妹は小さな声で申しました。
『お姉様、どうしてあの手紙の事、知つてらつしやるの?』
『だつて私、前からお父様の所にくる手紙に気をつけてるんですもの』
『え? お父様のところにも来たの?』
 妹は驚いて思わず大きな声を出してしまいました。驚いたのは妹ばかりではございませぬ。私もおどろきました。
『さださん、あなた、誰の所にきた手紙の事を云つてるのよ』
 私は思わず暗い廊下で、妹の手をかたく握りしめておりました。
『お姉様、私さつきへんな手紙を貰つたんですの。誰から来たのだか判りませんけれど……』
『じや、封じ目に三角形の印が押してあるのじやない?』
 私はさえぎるようにそう云つてしまいました。妹はこわそうに声をひそめて申しました。
『そうよ、私いまはつきりおぼえていないけれど、こんな意味の事が書いてあつたの。
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 お前の父は今大変に危険な位置にいる。お前の一家も早晩大変な不幸にあうだろう。この手紙を早く父に見せてわけをきいてみよ』
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『さださん、あなたその手紙をどうして?』
『私、その手紙のいうとおりにしたのよ。すぐお父様のところにもつて行つたの。そうしたら、お父様は、それをひつたくるように取つて読むと、自分のふところに入れたまま、お前、この事を決して誰にも云つちやいかん。決して心配する事はないからつて、こわい顔をなさつたのよ』

      4

 さだ子はその手紙を父に渡して戻つて来たが、父のようすがどうも心配なので、私同様おきて来た、とこう申すのです。その夜は、しかし別に何事もおこりませんでした」
 美しい依頼人はここまで語つて、ちよつと一息ついた。
「よく判りました。ちよつとおたずねしますが、妹さんの所に来た手紙はやはり郵便で送つてこられたのでしようね」
「そう申しておりました」
「その妹さんの所に来た手紙はペンで書いてあつたでしようか
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