うかおかけ遊ばして。只今木沢先生が見えますから……」
しばらくたつと、木沢医師がにこやかな顔をしてはいつて来た。
藤枝は十八日に木沢氏に会つて既に顔見知りの間柄になつているのだが、私はまだ改めて紹介して貰つた事がないので、一応ひろ子からひき合わせてもらつた。年の頃は卅七、八で、極くおだやかそうなお医者さんである。
「いろいろお骨折で大変です。御主人は少しはおちつかれましたか」
「ええ、今催眠薬のせいでずつと眠つておられます。大した事はないのですが、何分引きつづきの御不幸でショックを受けておられますから……」
「先生などの御立場から見ては、とても人には会わせられませんか」
「いや、そんな事はありませんが」
木沢氏は一寸黙つたがやがて云いにくそうに口を開いた。
「しかし、今はお会いになつても無駄だと思います。一言で云えば、ここの御主人は、医者――それも私以外の人には全く会いたくないと云つておられるのです。無論お嬢さん方は別ですが、現に、大した事はないのですけれども、看護婦でもよばれたら、とおすすめしたのでしたが、それも好まれぬらしいのですよ。ノイラステニーの極く烈しい状態ですな。フィーベルはないようですが、アペテイートが全然ありません」
「本人自身についての警戒は心要ありませんか」と藤枝がきく。
「ガンツ、ニッヒとは云えませんな。これは私共の方と同時にあなた方の領分ですが、ゼルプスト……」
ここまで云いかけたが木沢氏は流石に医者である。一方の本棚の中にドイツ語の本があるのを見てとると、ひろ子の前で次の言葉を発するのをさしひかえてしまつた。
8
木沢氏は、医師の癖でドイツ語をしきりと会話の中に入れたのかそれともひろ子の前を憚《はばか》つてわざとそうしていたのだか、私にはよく判らないけれども、ドイツ語が解し得られるらしいひろ子には充分わかつていたようである。
藤枝が、駿三に自殺の危険はないか、と云つたのに対して木沢氏は絶対に危険なしとは云えない、と答えようとしたのに違いない。
それに早くも気が付いたのか、それともわざと気を利かしたのか、ひろ子は、
「木沢先生がこちらにいらつしやる間、私、父の所にまいつておりますわ」
といいながら、皆に軽く一礼すると廊下の方に出て行つた。
「ともかく今申した通り、秋川さんの容態はそれ自身としてはさして危いことはないのですが、興奮の結果、あるいは自殺などという事が全くないとは云えません。私は昨夜おそくよばれて、余り眠れないからというので、抱水クロラールを作つたのです。大体、此のクロラール、ヒドラートという薬は余り感心出来ぬ睡眠薬なのですが、何分、今までヴェロナールだのヌマールだの大抵な薬を連続してのんでおられるので、中々他のものではきかぬのでね」
木沢氏は、弁解がましく語つた。
「成程、御主人の容態はそんななんですか」
藤枝は頻りにM・C・Cの煙をたてて暫く何か考えていたが、ふとまた口をひらいた。
「これはあるいは、御専門――多分内科でいらつしやると思いますが、それ以外にわたるかも知れませんけれど先生はこの秋川の家族のようすが少々変つているとお考えにはなりませんか」
「というと?」
「つまり何ですな。精神的方面でです」
「左様、おつしやる通り、私は精神病の方面は余りよく知らんですが、この御家族がやや、アブノルムな状態にあるという事は考えられますね。しかし……」
「しかし、それはこんな惨劇がつづいて起れば誰だつてそこの家族にノルマルな状態を期待する方が無理でしよう。それにしても令嬢方の様子は著しいコントラストを形作つているようですが……」
「そうです。女の方々で斯様なショックをうけておられるのですから、多少どうもヒステリーの気味はあります。ひろ子さんは、わりにしつかりしておられますけれども、やはり大変興奮しているようです。さだ子さんはその反対に大変陰鬱になつていますがやはり余程神経を悩ましていられるようです。令嬢の中では初江さんがまず今一番健康のようです。私はかなり前からこちらの方々を診ていますが、元来初江さんが一番身体もがつしりしていて丈夫そうです。しかし先生も云われた通り、こんな事件があればどんな家の者だつて通常の状態ではいられませんよ。ひろ子さんにせよ、さだ子さんにせよ、むしろちやんとしておられる方でしよう。――時に藤枝先生の方の犯人のお見込みは如何なのです」
「さあ、まあ、今の所全く判らないと申し上げるより外ありません。もつとも昨夜、一人怪しい男が捕まつた事はつかまりましたがね」
「昨夜の事件はともかく、十七日の夜のは多少私も関係しているので気になりますよ。何しろ私の処方した薬が昇汞になつていたんですからな」
これから、木沢氏と藤枝はまだいろいろと語つて二十分程ひろ子の部屋にいたが、別にここに記さねばならぬような話はなかつた。
9
暫くすると木沢氏は立ち上つた。
「では、また御主人が目をさますといけませんから私はあちらに行つて来ます。ひろ子さんと代りましよう」
木沢氏が出て行くと間もなくひろ子が戻つて来た。
「如何でした。お父様は?」
「は、もうちよつと前目をさましましたが大分おちついております。しかし」
と云つてちよつと微笑しながら、
「警察や探偵の方々は頼りにならないつてこぼしておりましたわ」
「いや全く恐縮。一言もありませんよ。すつかり信用をおとしてしまいました」
「でも先生は、まだいいんでございますわ。林田先生には、父が自分で頼んで安心していたのにこんな事になつてしまつたと云つてぶつぶついつていますの」
「さて、私たちもそろそろ失礼しますかね」
「あら、まだいいじやございませんの」
藤枝は、しかし七本目のM・C・Cを灰皿にすてると立ち上つた。
「成程、あなたは、文学、美術以外に犯罪小説に興味をおもちのようですね」
といいながら本棚の前に行つたが、
「ここに、ジェス・テニスンの『殺人及びその動機』という本がありますが、およみでしたか」
とひろ子の方をちよいとむきながらきいた。
「はあ」
「恐ろしい殺人犯人が書いてあるでしよう。確か、コンスタンス・ケントの事が書いてあつたと思うが……」
「ああ、あの少女の殺人鬼のことですか」
「そう。そうです、中々おそろしい女性がいますよ。上べは虫も殺さぬような顔をしていながらね。尤も、ここにいる小川君なんか、美人と見れば誰でも尊敬するたちですがね」
彼はこう云いながら私の方をからかうようにあごでさした。私は赤くならざるを得なかつた、それにしても一体藤枝は何のためにこんな変な事を、美しいひろ子の前でいい出したのだろう。
「ほんとでございますわ。外面如菩薩《げめんによぼさつ》内心如夜叉《ないしんによやしや》と申しますからね。きれいなやさしそうな女ほど恐ろしうございますわね。ほほほほ」
ひろ子は、美しい目をみはつて笑つた。
「ではまた、明日にもうかがいましよう。お父様が来てはいけないとおつしやれば仕方ありませんが」
「あら、そんな事ございませんのよ。父はただ、警察も探偵もたよりにならないと云うだけで決して先生方をお断りする気ではございませんの」
「じやまた明日来ます。警察の方の事も判り次第おしらせしましよう」
われわれがひろ子の部屋を出ると、すぐそばの部屋から、さだ子もおくりに出て来た。
ひろ子はそれを見ると、われわれのさきに立つて歩き出した。さだ子は小声で藤枝に、
「先生、伊達さんの事をどうかよろしくお願いいたします」
と歎願するように云つた。
「大丈夫ですよ。警察の方の工合も判り次第おしらせしますから」
そのまま階段を下りて玄関にゆき、靴をはくと、藤枝は二人の令嬢に礼をしながら門を出た。
出るや否や彼は煙草屋にはいつてエーアシップを二つ求めて早速うまそうにすいはじめた。しかし何となく元気がないように見える。
「じや君、僕は今日はこれで別れよう。用が出来たら電話で報知《しらせ》るからね。何だか少し、疲れちまつたよ」
われわれはそこで袂を別つたのである。
これで四月廿一日は暮れた。
第三の悲劇
1
あくれば四月二十二日である。
十七日の夜の事件、すなわち第一回の悲劇以来、藤枝は割合に早起きで、私を電話で呼び出したり、またこつちからかけても、起きていると見えて直ぐ電話に出て来るので、今朝ももうかかつて来る時分だと思いながら、私は朝食を早くすましていた。殊に昨日秋川家を辞する時、主人に拒まれぬ限り、また来ると云つた所から考えてもきつと私をさそうに違いないので、私はいつでも出かけられる用意をしていた。
十時頃になつても、しかし電話はかかつて来なかつた。さてはさすがの彼も、この大事件にぶつかつて頭を悩ましたため、とうとう元の大寝坊に戻り、正午《ひる》のサイレンと共に今日はおきるのかな、と心ひそかに焦れながら待つていると、十一時近くになつて電話のベルがなりはじめた。
「そら、こそ」
とばかり私はいそいで受話器を手に取ると、意外にも女の声がきこえる。
「小川さんでいらつしやいますか。私藤枝の母でございますが……」
藤枝が母と二人暮しでいることは、すでに諸君が知つておらるるところである。
電話は藤枝の家からかかつているのだが、話しているのは彼の母である。私は思わずドキリとした。
が、母の話はそう大して驚くほどのことではなかつた。今朝から藤枝が発熱していて起きられない。しかし、彼が私に至急何か重大な用件を話したいというのである。そこで甚だ恐縮だが、自宅に来て会つてくれということであつた。
無論私はすぐに彼の家にかけつけた。
「今電話でうかがつたが、どうかしたのかい」
私は彼の部屋に通されると、すぐ、つまらなそうな顔をしてベッドに身を横たえている藤枝に声をかけた。
「うん、大したことはないんだがここをやられちやつてね」
こう云いながら彼は咽喉を指さしたが、成程、声が大変にかすれている。
「つまらん遠慮をしてひどい目にあつた。あのM・C・Cだよ。いつたい僕は君も知つてる通り、エジプト煙草を喫わないんだ。僕はいつも、エーアシップだのヴァージニヤンリーフの煙草ばかり喫つているので急に変つた煙草をやると必ずのどを悪くするんだ。以前にも一度こんな事があつたよ」
「じや、昨日秋川の処でエーアシップを女中にでも買わせればよかつたな」
「そうさ。それは知つていたんだが、暇をとるとかとらないとかいつている女中達に余計な用を云いつけて秋川家の人を困らすのもどうかと思つたので、あのエジプト煙草を、たてつづけに十本喫つちまつたんだ。つまり僕のいじきたな[#「いじきたな」に傍点]からおこつた事だから誰にも文句は云えないが、おかげで今朝からすつかり咽喉を腫らして熱があるんだ。大したことはないが八度ほどある。それで僕は今日出られないんだ」
「そりやひどい目にあつたね。して用事というのは」
「その事さ。僕のかわりに僕が起きられるまで秋川家の人々を――保護、というか、監視というか、ともかく怠けずに注意してもらいたいのだが」
「ふうん。というと、君は将来、まだあの家に何かおこると思つてるんだね」
「それは判らない。しかし起るかも知れない」
「しかし、主人は会わないつていう話だが」
「主人にあう必要はない。けれども、ひろ子とさだ子の二人の行動を出来るだけ注意していてもらいたいんだ」
2
「じや、あの二人を保護するというんだね」
「うん。保護かあるいは監視だ」
「どつちだい」
「判らんね」
「という君は、彼ら二人の中に犯人がいるというのか。もしくは将来犯人たり得る……」
「それもはつきり云えない。ひろ子かさだ子が犯人になるか、被害者になるか、ともかく重大なことがおこるかも知れぬから注意していて貰いたい」
「注意してつて云つても僕には……」
「だから君は、毎日あの家に行つて二人の令嬢のお相手をしていりやいいんだよ。ずい分いい役じやないか」
「それだけならまあ僕でも出
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