は、惨劇の後、一人だつて陽気に見える者はなかつた。それは云うまでもない、比較的しつかりしているひろ子でさえも、この物語の冒頭で私が諸君に紹介した通り、どことなく淋しい美しさをもつている。彼女も惨劇後かなりやつれてはいた。今までの話も、中々しつかりはしているけども、陽気な処は少しも見えなかつた。
 しかし、今はいつて来たさだ子の様子は、全く、雨に……否暴風雨に打ちひしがれた海棠の面影である。第一の悲劇の直後、私がはじめて彼女にあつた時とは何たる変り方であろう。
 彼女は今、気も魂もまつたく打砕かれてしまつた美女としか見えなかつたのである。ことによると、愛し切つている青年伊達正男が、恐ろしい嫌疑で警察署に連れて行かれたのをもう知つているのではあるまいか。
 さだ子は部屋にはいると、藤枝と私に一礼したがすぐ、ひろ子の方を見て、
「あの……お姉様ちよつと」
 と用事ありげによびかけた。
「何よ。さださん、かまわないわ。おつしやいよ」
「今、清や[#「清や」に傍点]の叔父つていうのが来てね……」
「ああそう。暇をくれつていうんじやない?」
「ええ、そうなの」
「お父様が今御病気だから、今日は判らないつておつしやつてはどう?」
「ええ、そう申しましたわ。だけど、中々きかないんですもの。あの私じやとても駄目ですわ。お姉さま、会つて下さらない?」
「仕方がないわね。じや、私会いましようか。先生、おききの通りなのでちよつと失礼致します」
 母を失つた今日、主婦としての位置に自然と登らせられてしまつたひろ子はこう云つて立ち上つた。
 ひろ子が部屋から出て行つてしまうと、さだ子は、藤枝の傍らによりながら、
「先生、あの伊達さんが警察に連れて行かれたつて、ほんとうでございましようか」
 と嘆願するように訊ねた。
「おや、さだ子さん、どうして御承知なのです」
「只今、伊達さんの所にいる婆やがまいりまして、もうちよつとさき、警察の方がうちに来てあの人を連れて行つたとしらせてくれましたので……」
「そうですか」
 私は藤枝がさだ子に何というかと思つて固唾をのんだ。
「実は私は今警察に寄つて来たのです。昨夜の事件の犯人らしい男が捕まつたというのですね。……あなた林田君にききませんでしたか」
「いえ、ちよつとさきに林田先生にお目にかかりましたけれどもその話は……」
「そうですか。その男は早川辰吉という青年なんですがね。それが捕まつたので私も警察に行つて来たんです。私があつちにいるうちに伊達君も来られたようでしたよ」
「先生、伊達さんにお会いになりまして?」
「いや、会いませんでした」
「で、いかがなのでございましよう。伊達さんは捕まつてしまうのじやございませんかしら。昨夜、いろいろ警察の方にきかれていましたのでもうすんだことと存じておりましたのに」
「さあ、しかし、警察では、その早川辰吉の方をにらんでいるようすですから、伊達君の方は大丈夫でしよう。第一、罪のない者なら少しも心配する事はありませんよ」

      5

「でも、その早川という人が怪しいときまれば伊達さんが捕まる筈はないと思いますのですが……」
 ひろ子と同じような質問がここでまた彼女の口から出た。しかし、全くひろ子のが論理的であつたのに反し、さだ子の質問にはどうやら必死の熱情が感じられた。
「さあ、警察の方針については私も確かとしたことは云えないのですが、昨夜のような事件がおこつた場合、一応皆にきいてみる必要があるのでしよう。必ずしも伊達君が嫌疑をかけられているとは限らんですよ。そう御心配になる事はありますまい」
「そうでございましようか」
「つまりこうなんでしよう。昨夜伊達君が一旦御当家を辞した後、二階であなたと話していた。そこへ林田君が来たのであなたは林田君を自分の部屋へつれてはいられたその後、伊達君がたしかにまつすぐにうちに帰つたかどうかが自分で証拠をあげられぬというんでしよう。ねえ」
「はい」
「それ以外に何か心配な事はあなた御自身でも何もないのでしよう。たとえばその伊達君が、邸内をうろうろしているのを誰かに見つかつたなんていう事はないのでしよう」
「そ、それは勿論でございます」
 さだ子はこの言葉を極めて力強く云い放つたけれども、その声は明らかに異様な慄えをおびていた。彼女は必死でこの言葉を発したように見えた。
 藤枝はこのようすに気がついたかどうか、急になぐさめるような調子で語りはじめた。
「それごらんなさい。何ら積極的な嫌疑は、伊達君にはかけられていないのですよ。安心なさつてよいでしよう。――時に、これは婚約者の事に立ち入つて甚だ恐縮なんですが、一体、伊達君が二度目にもどつて来てあなたにお話したというのはどんな重大な事なのですか? もし云つてもいいのでしたら承りたいものですがね」
「ああそれでございますか。それは少しもおかくし申す事はございませんわ。林田先生にも警察の方にももう申し上げた事でございますもの。例の母親が云い出した婚約取消についての伊達さんの決心なのでございます。これは、姉を疑つてまことに申し訳ないことでございますが、母が死んだ後、母と同じ意見をもつているのはどうも姉らしゆうございますもの。それに就て伊達さんと私と話しておりましたのですが、一旦出て行つてあの人がもどりました時、『どうしても取消に応じてはいかぬ、自分達は決して財産なんかあてにしているのではないから、あなたからもきかされたら充分姉様に云つて下さい』という事だつたのでございます。無論私だつて同じ気もちでおります。金なんかあてにしてはおりません。あの方と一所になれれば……」
「ああよく判りました。それじや伊達君が念を押しに戻つて来たつて少しも不しぎはないわけだ」
 彼はこう云つてシガレットケースを取り出したが、中には生憎一本も煙草がなかつた。
 私はいそいで自分のケースを出したけれども運の悪い時[#「運の悪い時」に傍点]は仕方がないもので、私のケースにも一本のエーアシップもなかつた。
 藤枝は、やむをえずふとテーブルを見たが、そこに来客接待用の金口のエジプト煙草がおいてあつたので、無造作にそのシガレットをつかみ出すと、ライターを出してすぐ火を点じた。
 私は敢えて運が悪い[#「運が悪い」に傍点]という。もしこの時彼かあるいは、私のケースの中に、五、六本のエーアシップか、ヴァージニヤ葉のシガレットがはいつていたとすれば、此の物語は別の方向に進行したかも知れないからである。

      6

 と云つたからと云つて、よく探偵小説にあるように、此の煙草の中に毒薬がしかけてあつて、我が藤枝探偵が急にそこにぶつたおれたというようなわけなのではない。
 彼は平素エジプト煙草は嫌いで少しもすわないのだが、この時は「無きにまさる」と思つたのか、M・C・Cの紫煙をさかんに吹きはじめたのだつた。
 彼は更に何かさだ子にききたそうだつたがこの時、ドアが開いてひろ子がまた戻つて来た。
「ほんとに困つちまうんでございますよ。とうとう清や[#「清や」に傍点]の叔父というのが来て清や[#「清や」に傍点]をつれて行つてしまいましたの」
「あら!」
 驚いてさだ子が口を出した。
「さだ[#「さだ」に傍点]さん、私も腹が立つたから、さつさとお帰りと云つて帰してやつたわ。だつて、叔父つていう人が『こんなお化け屋敷みたいな家においておくと、今夜にも清や[#「清や」に傍点]が殺されてしまうかも知れない』なんていうんですもの。私腹が立つたから帰してやつたわ。これで女中が二人になつてしまつたのね」
「でも、清や[#「清や」に傍点]が帰つてしまうと久や[#「久や」に傍点]もしまや[#「しまや」に傍点]も帰るつていうかも知れませんわね」
「じや、私が清や[#「清や」に傍点]を帰したのが悪いつていうの。さださん、そんならあなたが談判してとめればよかつたじやないの」
「お姉様、私そういうつもりで申し上げたわけでは……」
「まあいいじやないですか」
 藤枝が、姉妹――心の中では明らかに反目し合つている二人の間に口をはさんだ。
「帰ろうつていう女中をいくらとめたつて仕方がありませんよ。ひろ子さんが帰したのは決して非難さるべきじやありません。しかしさだ子さんは決してひろ子さんを非難したんじやないんです。……それより、いつたいお父様は、どうなさつておいでですか。まだ眠つておられるんですか」
「そうそう、あの木沢先生が今来ておいでになるのですが何でしたら、私の部屋に来てお話になりません? 今二階においでになるのですの」
 女性の争いは執拗なものだ。ひろ子は、余程さだ子の言葉が気にさわつたと見え、藤枝と私を自分の部屋によんで、さだ子を除外しようというつもりと見える。
 藤枝はそれに気がついたかどうか、判らぬが、すぐ快く承諾した。
「じや、お部屋にまいりましよう。ところで、甚だ失礼ですがあなたのお部屋には煙草がありますまいから、此のM・C・Cを十本ばかり頂戴して行きます」
「あのミス・ブランシュというのでよければ私の所にもございますわ。でもこれを私がもつてまいりましよう」
 彼女はこう云うとM・C・Cの罐をとつてさつさと応接間の戸を開きながら、藤枝と私とを促した。
 藤枝はえんりよなく戸の方に行つたが、しかしさだ子に適当な言葉をかけるのを忘れなかつた。
「では、木沢さんに会つて来ます。さだ子さん、御心配になるには及びませんよ。大丈夫です、安心して待つていらつしやい。伊達君はきつと帰されて来ますよ」
 応接間を出て例の階段を登り廊下に出ると、左側が十八日に検事が家人を訊問した主人の書斎でそれを左に見てずんずん行くとやはり左側に立派なドアがある。ここがひろ子の部屋と見える。
 ひろ子の案内でわれわれ二人は美しい令嬢の部屋に通された。
「いや、素晴らしい結構なお部屋ですね」
 藤枝がお世辞でなく思わずそういつた位、美人に似つかわしい美しい部屋であつた。

      7

「では、ちよつとここでお待ち遊ばして……」
 ひろ子はこういうと部屋を出たが、木沢医師を呼びに行つたのだろう。
 藤枝と私は、椅子の傍らに立つた儘、部屋の中を見まわした。
 壁には泰西名画の写真が二つかけられ、部屋の一方に寄せられてあるテーブルの上には、美しいカーネーションがその姿に相応しいかおりを室内に送つている。一方の壁によせて大きな書棚がおかれてあつた。
「マドモアゼル(令嬢)の愛読書があるぜ」
 藤枝が指すので、ガラス越に本棚をのぞくと一番上の列に第一に目についたのは Richard《リヒヤルド》 Muther《ムーター》 の「絵画史」とそれに並ぶ L《エル》. Nohl《ノール》 それから Paul《パウル》[#「Paul」は底本では「Panl」] Bekker《ベッカー》 の有名な Beethoven 伝だつた。
「Spricht sie Deutsch ?(おやあの人はドイツ語をしやべるのかしら)」
 藤枝はちよつと驚いたように独り言を云つたがすぐその下の段に目をやつた。
 そこには我国で発行された、文学、音楽、美術に関する書物が美しく並べられていて、この部屋のもち主の教養の程度を物語つている。
「わがヴァン・ダイン先生とドイル先生とはどこにいるのかね」
 藤枝はしばらく本棚を見つめていたが、やがて、私を見ながら左手の方をさした。そこには、ヴァン・ダインの既刊の五冊の小説とドイルのシャーロック・ホームズ物が殆ど全部、それから、Wallace Runkcl, Rosenhayn, Hans Hyan,(後者三つはドイツ文)の小説、更に隣《とな》つて、Kingston Pearce 等の犯罪実話が並べられてあつた。
(私は、実は一生懸命になつてハンス・グロースの本を探した。これがあるといよいよ「グリーン・マーダー・ケース」に似て来るのだけれど、流石にそうした法律的の書物は一冊も発見出来なかつた)
 われわれが本棚の前に立つて、M・C・Cをくゆらしている所へ、ひろ子が戻つて来た。
「ど
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