眺めていたが、この時テーブルの上にもみくちやにおいてあつた紙片を手にとつて、おもむろにそれをひろげた。
 それはさつき早川の供述中にあつた佐田やす子の紙つぶて[#「つぶて」に傍点]であろう。下手な鉛筆の走り書きで、今スグ行キマス ムコウノポストノソバデマツテイテ下サイ と記されてある。
 早川辰吉のむせび泣きがやつとおさまりかけた頃藤枝は静かに早川に向つて語りはじめた。
「君にもう一つ参考の為にきいておきたい事があるんだがね。さつき君の話の中に佐田やす子がたつた一人大変親切な方があつて自分に同情してかばつてくれている[#「たつた一人大変親切な方があつて自分に同情してかばつてくれている」に傍点]、という言葉があつたな」
「はあ」
「君はその親切な人の名[#「親切な人の名」に傍点]をやす子から聞かなかつたかね」
 早川はじつと藤枝をながめた。
 警戒するような目つきでしばらく見ていたがやがて、
「いいえききませんでした」
 とはつきり答えた。
 彼からは、藤枝もやはり自分を死刑台に上らせようとする人間の一人だと見えているらしい。
「では、やす子が君に語つた時のようすで、その親切な方というのが男だか女だか判らなかつたかい」
 早川はまた暫く藤枝の方を見つめていたが、やがて悲痛な調子で叫んだ。
「ああ、あなた方は、またそんなことの何も知らぬことばかりきいていじめるのですか……」
 彼はこう云つたまま下を向いて再びむせび泣きはじめた。
 警部も藤枝も、少しも顔色をかえず、黙つて彼の様子を見ていたが、ちようどその時ドアをノックして一人の巡査が現れた。
「伊達正男はさつきから刑事部屋に待たしてあります。それから林田氏が今見えましたが……」
「うんそうか。林田氏を通してくれ給え」

   あらしの前

      1

 間もなく、林田が戸口に現れた。
「やあ、高橋さん先刻はわざわざお電話ありがとう。早速うかがうわけだつたんですが秋川駿三を今ちよつと訪問して来たのでね……藤枝君、秋川駿三は可哀想にひどく弱つてるぜ。昨夜から床についた切りだよ。木沢医師が今朝からずつと来ているけれど、面会謝絶の状態さ」
「そんなに重態なのかい」
「何、そうでもないんだが本人が一切誰にも会わん、と頑張つているらしいんだ。何分われわれがいる所であの騒ぎだろう、どうも僕らは信用をすつかり失つちまつたらしいんだよ、高橋さん、あなただつてそうですぜ」
「ほう、そんな有様ですか」
「木沢医師の話によると、昨夜のショックで元来神経衰弱なのが一層ひどくなつているらしいんだ。昨夜あれから興奮して、まるで眠れぬ上、調子が妙なのでゆうべおそく、木沢医師がよばれたそうだが、先生もちよつと手がつけられず、抱水クロラールかなんかのましてやつとねかしたというんだ。今僕が行つた時は眠つてるということでしたよ。何でも警察も探偵も全く信用出来ぬから、以後誰にも会わん。予審判事の令状でも持つて来ない限り、警察人にも会わんと頑張つていたそうです」
「おやおや、一番信用があつた筈の君が会えないとすりや、僕はとても駄目だね」
 藤枝が、頭をかきながら苦笑した。
 林田はそばの椅子に腰かけたが[#「腰かけたが」は底本では「腰かけたか」]、今まで不思議そうに林田と藤枝の会話をきいていた早川辰吉をじろりと見ながら、高橋警部に、小さな声で、
「これが、さつきの、あれですね」
 と云つた。
「そう」
 と高橋警部がこれも小声で答えたが、今度は藤枝、林田両名に向つて、
「伊達ですがね。あの男も一応調べたいのでさつき刑事をやつて同行させて来ました。刑事部屋に今待たしてありますが、のちにきいて見る積りですよ」
 と云つた。
 藤枝は、腕時計にちらと目をやつたが、何を思い出したか、つと立ち上つた。
「さて、僕はともかく一度秋川家を訪問して来よう。主人公には撃退されるかも知れないけれども、誰かには会えるだろうから……林田君、君は一つこの早川辰吉という人のいう所をよくきいてくれ給え」
「藤枝さん、伊達の取調べはいいですか」
「さあ、ききたいですが、ちよつと急ぐことがあるので……」
 彼はこういいながら一|揖《ゆう》すると私を促すので、私も高橋警部と林田にあいさつしながら、部屋を出た。
「ここから大して遠く[#「遠く」は底本では「違く」]もなさそうだから、ぶらぶら歩いて行つて見ようよ」
 何となくおしつけられるような警察の建物から出て、四月の青空の下に出た私は、解放されたようないい気持になつていた。
「ねえ君、早川というあの男ね。犯人だろうか」
「さあね。しかし、邸宅侵入は明らからしいね。警察では邸宅侵入の罪で当分身柄を拘束するだろうよ。それからじわじわと殺人の方にとりかかるのさ」
「伊達の取調べはきかないでもいいかい」
「ききたいけれど、大して得る所はなさそうだよ。無論伊達が殺人を自白すれば別だが……ただ本人がアリバイを立証できぬというだけでは意味がないからね。警察側で、彼が殺人をしたという事を立証できなければ仕方がないよ」

      2

 秋川邸の玄関についてベルを押すと、出て来たのは笹田執事であつた。
「これは藤枝先生ですか。もう少し前に林田先生が見えてお帰りになりましたよ」
「御主人は御病気だそうで。あなたも中々忙しいでしような」
 靴をぬぎながら藤枝がこんなことを云つた。
「全く今日は閉口致しました。朝から新聞社の方々が見えて、御主人にお目にかかりたい、御主人が病気なら令嬢にあいたい、と云つて中々帰らんので、私がいちいち応対致しましたようなわけでね」
「ははあ、じや、今日の夕刊には『秋川家の執事笹田仁蔵氏は憂わしげに語つて曰く』……てな記事が出ますぜ。あなたも大いに有名になるわけだな」
「とんでもない。こんな事で有名になんかなりましては」
 こんな事を云いながら、笹田執事はわれわれ二人を応接間に通した。
「勿論、御主人にはお目にかかれますまいから、令嬢に御目にかかりたいんです。おや、これじやつまり新聞記者と同じことだな。あなたに撃退されちや困るが」
「御冗談で……」
 愛想よく、笹田執事は二人を残して出て行つたが、暫くすると、ひろ子が部屋にはいつて来た。
「先生、あの昨夜犯人が捕まつたそうでございますね」
「ええ、どうして御承知ですか」
「さつき林田先生がおいでになつた時、そんなことを承りました。先生はこれから警察に行くんだとおつしやつてでした」
「私は今牛込警察署でゆうべ捕まつた男というのに会つて来たんですよ」
「まあ! そうして犯人は白状致しまして?」
 ひろ子は美しい目を大きく輝かした。
「御当家の庭に外から飛び込んだということはたしかに本人も認めています。何でも佐田やす子の情夫だつたというので、やす子にあいに来たというのです。しかし、駿太郎君を殺したことは勿論、やす子を殺したおぼえもない、とこう云つていますよ」
「で、先生のお考えは?」
 ひろ子はさぐるように藤枝を見つめた。
「私の考え? その男、早川辰吉についてですか」
「はい」
「さあ、そりやその男が殺人犯人かも知れないし、そうでないかも知れない、と今の処そういうよりほかはありませんな」
「でも、佐田やす子の情夫というのが、かりにやす子に恨みがあつたとしてもどうして弟をあんな目にあわせたんでございましよう」
「さあそこです」
「私には、やす子に恨みのある者が弟を殺さなければならない、という理由がどうしても判りませんわ。弟がその犯罪を邪魔したか、現にそばで見ていたかしない限りは……それにしても駿太郎のような子供にそんな邪魔が出来るわけはなし、また唖でない限り、黙つて見ていたとするのもおかしゆうございますわ。先生、そうお思いになりません?」
「そうです。そういう考え方はたしかに正しい考え方だと私は思います」
「それに、やすや[#「やすや」に傍点]の知り合いの男なんか駿太郎が知つているわけはないじやございませんか。駿太郎はたしかに、あのピヤノの部屋から誰かよく知つている人間[#「知つている人間」に傍点]にさそい出されたにちがいないと思いますの」
 彼女はこうはつきり云つて再び藤枝の顔を見た。
 この時、ドアがあいて、笹田執事が、三人分の紅茶を盆にのせてうやうやしくもつてはいつて来た。

      3

 ひろ子のひどく論理的な質問にいささかタジタジになつていた藤枝は、笹田執事がはいつて来るのを見ると不意に彼の方に話を向けた。
「おや、あなたが小間使の役ですか。女中さん達はどうかなさつたのですか」
「はい、昨夜あの騒ぎで皆殆ど眠りませんので、今日はやすませてございますので」
 笹田執事は不器用な手つきで紅茶の茶碗をテーブルの上に無事に並べ終ると、余り多くを語らずに部屋を出て行つてしまつた。
「今笹田が申しました通り、女中は皆休ませてございますの。ですけれど、何だかすつかりおびえておりまして部屋から出てまいりませんのよ。どうも三人でひそひそ話をしている所を見ますと、暇でもとろうというのじやないかとおもいますの。でも無理もありませんわ。こんな気味の悪い家に! 私が女中だつたら一日だつていることは出来ませんものね。ほほほほ」
 ひろ子はこう云つて笑つたがそれは決して朗らかな笑いとは云えなかつた。
「ひろ子さん。今日は大切な事を一つあなたにお頼みしておきたいのです。御承知の通り昨夜あの事件の起る前に、私はお父様に重大な質問をしていたのです。つまりどうして脅迫状の事をかくしていたかという事、及び伊達正男という人と、御当家との関係についてです」
「存じておりますわ」
「ところが、不意におこつたあのさわぎの為に、お父様のはつきりしたお答をうかがう折を失つてしまつたのです。今日になつてうかがおうと考えたのですけれど、御病気だということです。かりに御病気でないにせよ、私は官憲ではないのですから、お父様が私に会うことをお断りになれば強いて御目にかかるわけにはいきません。して見れば、まず私はお父様からは答えて頂けないものと思わなければなりません。林田君だつてそれはきけないかも知れない。結局、これはあなた方お子さんが直接おきき下さるより外に道はないのです。勿論私自身の方でも伊達という人の素性を取調べ中ではありますが[#「勿論私自身の方でも伊達という人の素性を取調べ中ではありますが」に傍点]……」
 何故か藤枝は最後の言葉を極めて力強く云つて暫くじつとひろ子の顔をながめた。
「あなたか、さだ子さんか、初江さんにこのことはお頼みしたいのですが、さだ子さんと初江さんは私をどの程度に信じていて下さるか判らない。あなたなら私を信じていて下さると思いますから……」
「無論でございますわ」
「ですから、是非ともお父様にあの点をはつきりきいていただきたい。勿論、機会を捕まえなくてはいけませんよ。むやみにお父様を責めたつてだめですよ」
 ひろ子はにこやかに微笑した。
「判りました。おつしやる通りにやつて見ます」
 彼女は充分引き受けたという調子で、紅茶を一口ぐつとのんだが、急に藤枝を見ながら、
「ではやつぱり先生も! あの伊達さんを」
 と云い出した。
「え! 何ですか」
「つまり早川とかいう男が犯人とは信じていらつしやらないのでしよう」
「どうしてですか」
「でももし早川が犯人だとすれば伊達さんのことなんかお調べになることはないのではございませんの。結局早川とかいう人以外に犯人があるとお考えになつていらつしやるのでしよう」
 彼女はちよつと微笑を表わした。
「ひろ子さん。誤解してはいけません。早川の話と伊達君の話はまつたく別ですよ。ともかく伊達君の事をはつきりきいて下さい」
 彼は口ばやにこう云い終つた時ドアがあいて、さだ子が憂わしげな顔をしながら、部屋の中にはいつて来た。

      4

 我国には昔から「雨に悩める海棠《かいどう》」という形容がある。この時のさだ子が私に与えた印象位、この言葉にしつくりあてはまつたようすを私は今まで見たことはない。
 勿論、秋川一家の人々
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