、出て行く、と申すことでしたので、私は電話を切つてしまいました。
 それで、やす子が逃げてしまわぬよう見張りをやつて居りましたけれども十九日はどうすることもできません。昨夜、よくおぼえませぬが、八時ちよつとすぎ塀の外に行つて合図をしましたが一向に返事がありません。またしばらくたつて多分九時前でしたろう、私は塀の外からもう一度合図の草笛をふいたのです。
「するとしばらくたつてから、庭の方から石がとんで来ました。見ると紙がまきつけてあります。心をおどらせてひろげ、むこうの街燈の所まで行つて開いて見ると鉛筆の走り書きで今スグ行クカラムコウノポストノソバニイテオクレというのです。私はもはや一刻も待ち切れません。石のとんで来た塀をのりこえていきなり中に飛び込みました」

      6

「塀に手をかけて、身軽に塀の上に乗つた私は、多分桜の木でしよう、大きな木の幹に伝つて、すぐ中にはいり地上に下りました。この時はやす子に会いたいので夢中だつたので、無論外から中の様子を研究した後ではなかつたのですが、塀の外から見て、木のこんもり茂つた暗い庭に出るとは考えていました。
 いきなり庭の中に飛び下りた途端、急にまつくらな所に来てしまつたので充分あたりが見えませんでした。しかし、やす子のいる所はすぐ判りました。それは彼女が、
『あら、あなた来ちやつたの?』
 と小声でいいながら私のそばに来たからであります。いいえ、彼女は私の姿を見てすぐに逃げようとしたのではありません。彼女の方から寄つて来たのです。それは無論、逃れぬ所と覚悟していたのかも知れませんが。
「私はいきなり彼女の腕を掴んで自分の思つている所をしやべりはじめました。するとやす子は手早くそれを遮つて、決して情夫などと一緒になつて私を裏切つたのではないということを語りましたが更に、
『実は十七日の夜私が取りに行つた薬が大変な劇薬に変つていて奥様がおなくなりになつたの、それで私は途中でもしあなたに会つたと云つて疑いがあなたにかかると悪いから今まで検事だの、刑事だの探偵にずいぶん責められたけれども、一言もあなたに会つたことは云わなかつたのよ。それでどうも私が疑われているのじやないか、と思うの。だけれどたつた一人大変親切な方があつて私をかばつていて下さるので今までは無事なんだけれど……。ともかくそんな有様なんだから今ここにぐずぐずしていては大変よ。今言つた通り外で待つててちようだい。きつと行くから』
 とこう申すのです。
 彼女のその時のようすは万更嘘でもなかつたらしいのですが、私はもうのぼせ切つておりますから、
『そんな事を云つて逃げようとしても駄目だ。今度こそ逃しはせぬぞ』
 と云いながら彼女の右の腕のところを両手でしつかと押えました。
 やす子は、ともかく今ここで話しているのを人に見られては大変と云いながら何とかして逃げようとしますので私も怒りの余り掴んだ彼女の腕をとつて二、三尺自分の方に引きずりよせした。
『あなた、ほんとうにそんな乱暴をする気なの。じや声をあげて人をよぶわよ』
 と申しましたが、さすが、大きな声もあげませんでしたが、家の方を見て急に、
『あれ誰かこつちに来る!』
 と叫びました。
 思わず私が、立派な母屋の方を見ると、ちようど燈のついている部屋の横から誰か来るのが見えます。私は驚いて手を放し、小声でじやあとで来るのを待つてるぜ、
 と云うや否や再び同じ木から伝つて外に逃げたのです」
「うんお前は、そこでやす子と今云つた通りの問答をしたんだね。そしてお前は、あざのつく位強い力でやす子の腕をつかんでいたのだな」と警部が云う。
「そうです」
「お前の今までの話ではやす子は情夫と一緒かどうかは別としてともかくお前を嫌つて逃げ出したと思わなけりやならん。これはいくらお前が自惚れて見たところで認めなければならぬ筈だ。そのお前がいきなり庭にとび込んだ時、女の方から寄つて来たというのもずいぶんおかしな話だが、あんな乱暴されている間、黙つていたというのはちとうけとれん話だね」

      7

「ですけれど今申した所がほんとなのです」
「腕をあんなに痛められた上に引ずられたりすれば、大きな声をあげなけりやならない。……お前その時、同時に首をしめたんじやないか」
「いいえ、決してそんな……」
「しかしその時は、今お前の云う通り、お前は夢中になつていた筈だ。夢中であるいはやつたかも知れないではないか」
「いえ、私は決して彼女を殺す気なんかははじめからないのです」
「そうではない。私はお前がやす子を殺そうとしたとは云わん。しかし今云つたように叫び声をとめようとして夢中で手をやつたんじやないか。そうだろう。よく考えてごらん」
「…………」
 早川辰吉は暫く何も云わずに下を向いていたが、やがて眉をあげて、
「いえ、どう考えても左様なことを致したおぼえはありませぬ」
 ときつぱり云い切つた。
「じやお前に云うが、お前が昨夜話したという佐田やす子は、すぐあの後、首をしめられて死体となつて発見されたのだ」
「え、何ですつて? やす子が……殺された……」
 若者は思わずこう云つたが急に今まで緊張していた表情が弛緩して、ぼんやりした目つきになり、唇がだらりとたれ下つた。
 この様子を見ると、彼は、やす子が死んだのを、今まで全然知らなかつたという外ないが、犯罪人のやるうまい狂言はこうした時に巧みに行われるものだから反対にこれを実に上手な芝居だと解釈することもできるわけだ。
 警部は若者のようすをしばらく黙つてながめていたがやがて問を発した。
「じやお前は、今までやす子が殺されたのを全く知らなかつたのかね」
「はあ、全く……」
 いかにも全く知らなかつたように早川は答えた。
「それじやきく」
 警部の調子は急に厳然となつた。
「お前は何故ゆうべおそく、つまりけさ早く新宿駅をうろうろしていたのだ。さつき云つただけのことならまた下宿に戻つていればよかつたじやないか。お前がどこかに高飛びをしようとしていたのは、とりもなおさずお前がやす子の殺されたのを知つていたからではないか。云いかえればお前があの時殺したからだ。殺す気はなかつたかも知れん。しかし夢中で首をしめている中、女が仆れたのでお前は驚いてとび出しそれから一旦下宿に戻つてまたとび出した。お前は人殺しという大罪を犯したから高飛びをしようとしていたのだろう」
「いいえ、決してそうじやありません。そんな……そんな大それた事を私が……やれるわけはありません」
 早川は意外な嫌疑が自分にかかつているのをはつきり感じたという風に泣声になつて叫んだ。事実彼は涙をぼろぼろこぼしながら語つたのである。
「とんでもない。そんなこと。私は、塀からとび出すや否やすぐ例のポストの所に行つて待つていました。中々待つてもやす子が出て来ないのでしばらくしてまた塀の近くに行つて草笛をふこうかと思つていますと、何事が起つたか、巡査が二、三人秋川邸のまわりを歩いています。こりや怪しまれちやいかんというので、一時私は下宿に戻りました。しかしそれから今の出来事をつくづく考えて見たのであります。今日自分が塀をこえて人の家にはいつたこと、それから、その時やす子の云つたこと、これらをつくづくと考えたのです」

      8

「嘘かほんとうか判りませんが、とにかくやす子がもつていた薬が劇薬にいつの間にかかわつていたとすれば、あの日彼女にひそかに会つて話をしたことに嫌疑のかかるというのは不思議ではありません。十八日頃の秋川家のようすと云い、あの夕刊を見ても、やす子の話はまんざら嘘とも云えぬのです。こう考えて来ると私は真に不安になり出したのです。それに、今警部さんも云われた通り、いくら私がうぬぼれてもやす子が今私に恋してるとは思えないので彼女がはつきり私のことを、警察なり探偵の方に云つてしまえば私の立場は実に危いのです。何分私は今は一定の職もなく、偽名を用いて宿にいる人間ですから、変に思われても仕方がないのです。
「こう思うと、一刻ももはやぐずぐずしてはいられませぬ。それに、やす子の話では、自分にたつた一人親切にしてくれる人があつてやす子をかばつてくれてはいるということですけれど、その方というのは私の事を疑つているのだそうです。それがほんととすればやす子は少くともその人には私の事をしやべつているに相違ない。これはぐずぐずしてはいられぬと思つて、別段にあてもなく下宿を飛び出してしまいました。それからどこをどううろついてたかおぼえませぬが、はじめて上野駅にまいりました。が、あそこは何だか、刑事さんが張り込んでいるような気がしておちつけませんので、とうとうしまいに新宿駅へと来てしまつたのですが、その時はもう夜が更けて汽車がないので、疲れ切つてあの辺をうろうろしておりますと刑事さんに怪しまれてつれて来られたのです。かような次第で、私が昨夜秋川家の塀をのり越えて人様の庭に忍び込んだのはたしかなことで申し訳ありませんけれども、やす子の死については全く存じませんです」
 早川辰吉は、こう云つて不安気に一座を見渡した。彼の様子にはしかし落着いたところは見られなかつた。
「じやお前は、やす子を殺したのが恐ろしいのではなくて、秋川夫人の殺人犯人と見られはしまいか、というのであんなにあわてて宿を飛び出したというのか」
「は、そうです。それに相違ありません」
「ではお前は、秋川夫人の死に関係があるのか」
「え? 何ですつて?……いいえ絶対にありません」
「そんならお前は何もそんなにあわてて逃げ出す必要はなかつた筈じやないか。つまりお前があの事件に何か関係があるからそんなに恐怖したと思われても仕方があるまい」
「でも、私があわてて逃げたのは今云つた通りで外に理由はないのです」
「君ちよつとききたいが」
 藤枝が口を出した。
「さつき君は、やす子と問答をしていた際、やす子が『あれ、誰かこつちに来る』と叫んだので母屋の方を見ると、誰かが出て来たと云つたね」
「はあ」
「その時出て来た人は男だつたか女だつたか。大人だつたか子供だつたかおぼえているかね」
 早川は暫く考えていたが、やつと口を開いて
「何分私は遠くから人の出て来るらしいのを見ると、すぐこりやいかんと思つて後をも向かず逃げ出してしまつたのですから、よくおぼえませんが」
 と答えた。
「しかし、これは大切な所なのだ、よく思い出して見給え」
 だが、早川は何とも答えなかつた。
 そこへ口を出したのが警部だつた。
「お前が云えなければわしが云つてあげよう、その時出て来たのは十四、五の少年だつた筈だ」

      9

「十四、五の子供が?……」
 早川が意外な、というような顔できき返した。
「そうさ。十四、五の少年だ。つまり秋川家の息子なんだよ。そこでお前は、やす子を殺して夢中になつていたものだから、のぼせ切つて、あの暗闇の中でその子も一緒に殺してしまつたんだ。そうだろう」
「あの……子供も……殺された!」
 この時の早川の顔付こそ世にも不思議なものだつた。駿太郎が同じく殺されていたなんて、全くはじめて聞く事実であるのみか、司法主任の質問の意味が、さつぱりわからないで面喰つたという有様である。
 狂言とすれば実に巧みな狂言と云わなければならない。
 警部は、しかし相手の様子に少しも構わずたたみかけた。
「お前にはつきりと聞かせておく。お前は、昨夜すなわち四月二十日午後九時、秋川駿三の家の塀を乗りこえて同家の庭に侵入し、女中佐田やす子及び同家の一人息子秋川駿太郎を惨殺した、という嫌疑で今取り調べられているのだぜ」
 早川はこれを聞いて、暫く呆れたようにぼんやりと警部を見つめていたけれども急に、自分が非常に危険な位置にいることにはつきり気が付いたのか、ぼろぼろと涙をこぼすと同時に両手で顔を蔽つて、
「何も知りません。何も知らないんです。二人殺すなんて……。一人だつて殺したおぼえはありません」
 と叫びながらそこに泣き伏してしまつた。
 藤枝はさつきから、早川の様子を黙つて
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