審判事と検事が現場に来るのを待つばかりである。
「恐らく今日は誰が来たとてこれ以上のことは判るまいからそろそろ失礼しようじやないか」
 藤枝は腕時計を見ながら私をうながした。
 そこで私もただちにこれに同意して、一同に暇をつげて玄関に出た。ひろ子が送つて来てくれた。
「そうそう、裏から上つたのだつけな、靴はあつちだよ」
 藤枝がくるりと向きをかえたので私もああそうだと思い返して彼のあとについた。
「おや、おはき物はあつちですの、どうぞここでお待ち下すつて、今すぐ私が取つてまいりますわ」
 私達がとめるのをかまわずひろ子がいそいで廊下を走つて行つた。
 藤枝はさつきのピヤノの部屋の前まで歩いて行つた。
「君、ちよつと聞きたいが、さつき君がここへ駿太郎を探しに来た時にドアはちやんとしまつていたかい」
「うん、何でもノックすると同時にあけたと思うから、そうだ、たしかにしまつてたわけだよ」
「じやちよつとはいつて見よう」
 彼は私にさき立つて部屋にはいつた。
「ところで、小川。僕はここでわれわれが昔音楽青年だつた頃のことを思い出して見ようとおもうのだがね」
 不意に藤枝はこんな妙なことを云い出した。
「僕あ応接間にいてヴィクトローラが鳴り出した時こりやショパンだなとすぐ感じた。そうして僕の記憶にして誤りなくんば、君がここへかけつけた頃、このレコードのパデレヴスキー氏は、例のトリオの部分をかなり進んでひいていたように思うがね」
 私はあの咄嗟《とつさ》[#「咄嗟」は底本では「咄差」]の際の藤枝の観察の鋭いのに感心した。
「うん、思い出した。僕がグースネックをもち上げた時にたしかにそこをやつてたよ。ほらいつか僕らがどこかでこのレコードをきいた時君が、どうもパデレヴスキーのよりパハマンの方がいいと云つたことがあつたな、あのトリオの所だよ」
「ところが、今われわれはパデレヴスキーに感謝しなければならん。もしもこのレコードがパハマンのだつたら、たとえこのように駿太郎君が姉上の命令にもかかわらず金針を用いたとしてもああはつきりとはきこえなかつた筈だからね」
 彼はこう云いながらレコードを手にとつて暫く眺めていたが、
「へんだぞ。見給え、このレコードは大分ほこりがついている。然し針の走つた所だけはこうやつて見るとはつきりごみが取れてるんだ。ところがこのごみの取れている所が僅か三、四分しかないよ」
 彼はこういうと、そばの竹針をとつてそのレコードをはじめからかけながら、目を皿のようにしてヴィクトローラの中を見つめていた。
 葬送行進曲は再び奏でられはじめた。しかしあの美しい部分にはいらぬうち、すなわちABAという形式のAの部分の途中で、藤枝は不意に廻転をとめてしまつた。

      3

「へええ、ちようどここで終りだよ」
「何がさ」
「きれいな所がだ、音楽のことじやないよ。レコードの表面のことだ。つまり最近針が進んでいたのはここまでだというのさ」
「だつてさつきは確かにもつとさきまで行つていたと思うがね」
「そうさ。わが音楽趣味に感謝す、さつき僕はここん所をきいたと思うよ」
 彼はこういうと、口笛でショパンの葬送行進曲のトリオの部分をふいていたが、ふと振り返つて窓を見た。
「ブラインドが降りているね、さつきやす子を調べていた時はこの窓が三つともあけてあつたと思うが」
「うん」
「君はこれらの窓の上があいていたか下があいていたか判然とおぼえているかい。――特にこのヴィクトローラの側の窓の……」
「さあ、はつきりしないが、下の方が二尺ばかりあいていたと思うよ。そうそう、窓と云えばさつきね」
 私は例の草笛とやす子の表情の一件を思い出したので手短かに藤枝に話したのである。
 しかしこの事実は驚くべき興奮を彼に与えてしまつた。
「馬鹿だな君は! 何ていう間抜けだ! 何故もつと早く云わなかつたんだい。あの時すぐに云つてくれればあるいは此の惨劇を防ぐことができたかも知れなかつたのだ」
 余程残念だつたと見えて、彼は大きな声をたてて私にくつてかかつた。
 その時、ドアがあいて林田がはいつて来た。
「どうしたんだい。何を怒つているんだい?」
 藤枝はまだおさまらず林田に草笛の件を話してしまつた。
 林田はそれをきいてやはり愕然としたようだつたが、さすがに私にくつてかかりはしなかつたが、軽い批難を浴びせた。
「そんなことがあつたんですか。そりや私も藤枝君に賛成だな。小川さんがあの際すぐ云つて下さればどうにかなつたかも知れない。しかし君、小川さんは探偵じやないんだから……それにもうすんでしまつた事は仕方がない」
 ともかくこう云つて藤枝をしきりに落着かしてくれた。
「すんだ事は仕方がない……か。そりやそうだね」
 藤枝もあきらめた調子で云つたが大分不機嫌だつた。
 ひろ子のはからいで靴が表玄関に廻つていたので私達は玄関の方に行つた。
 林田も帰るつもりと見えてついて来た。ひろ子は送つて来ながら、自動車を呼ぼうと云うのを、林田も藤枝も辞退した。
 靴をはく時、藤枝が思い出したように、ひろ子を呼んできいた。
「あのピヤノの部屋ですがね。あそこのブラインドをいつ誰がしめたか、きいておいていただきたいのですが……」
「あのブラインド? いけませんでしたの? あれは私がさつきしめましたのよ。皆さんがたが外でいろいろ調べていらつしやる間に……」
「あ、そうですか。いやいけないというんじやないのですよ。その時ヴィクトローラに手をふれられたでしようか」
「いいえ、私窓だけしめてすぐ外に出てしまいましたの。何かどうかしておりますの?」
「いえそうじやありません。つまり駿太郎さんがレコードをかけつぱなしにしたままになつてるんですね」
 林田は靴をはき終つて一足先にさつさと行つてしまつた。
「はい、私そう思います」
「それから裏口にたくさんスリッパがあるでしよう。あの中に裏に土のついたのが一足ありますから誰にも云わずに別にしておいて下さい」

      4

「はい、それはあの今しがた林田先生からもそう申されましたのでちやんと別にしておきました」
「へへえ?」
 これには藤枝も驚いたらしい。藤枝が内心得意になつていた発見を競争者たる林田はもうちやんと知つているのだ、しかも藤枝より一歩を先んじてひろ子に注意を与えている。
 藤枝はそれきり何も云わずに、秋川邸を出た。
「驚いたね。林田という男は成程ききしにまさる探偵だよ」
 しかし藤枝はさつきの草笛の一件からまだ私に対して気を悪くしていると見え何も云わなかつた。
「しかし先生のカイゼル髯はちとおかしいね。あの男は変装なんかしないのかしら……」
「おい、何を云つてるんだ。あれが附髯なのに気がつかないのかい。警察の人達なんか皆よく知つているぜ。敵を欺く手段とおぼえたりさ。事件の現場へはいつもあのカイゼル髯で現れ給うんだよ。だから君はじめ秋川家の人達もほんとのひげだと思つてるんだろう。もつともあれがないと先生鼻の下が馬鹿に長いからこの頃は平生でもあれをつけてるつて話さ。ははははは」
 ともかくやつと藤枝のご機嫌がなおりかけて来たのは何よりだ。林田のカイゼルひげも飛んだ所にお役に立つたつていうわけである。
 秋川邸の門を出ると藤枝は右に曲つて歩き出した。この家をはじめて訪問した時帰りは円タクを捕まえて乗つたのだが、二日目からいつも秋川家に出入りしている泉タクシーというガレーヂから車に乗ることにしていた。
 泉タクシーの前で藤枝は暫くそこの主人と話していたが、そのうち一人の運転手が出て来て藤枝に挨拶した。
「あ、君かい、じやあの日の通りに行つてくれ給え」
 こういうと彼は、傍にスマートな形をして乗客を待つているハドスン・セダンのドアを開けた。私もつづいて乗り込んだ。
 私は車がどこへ行くのかしらんと怪しんでいると、自動車は牛込の高台から外濠へまわり、四谷見附を通ると坂を下つて一散に赤坂に向つて走つてゆく。
 赤坂見附から溜池の方に更に走つたが、電車の停車場と停車場の間でピタリと止つた。
「いやご苦労様」
 二人は下りた。車を返してしまうと藤枝は少し進んで左手の敷島ガレーヂというのにはいつてそこでまた何か云つていたが、やがて私をさし招くので行くと彼はクライスラーのクションに既に腰かけている。私は驚いておくれじとあとからつづいて乗り込んだ。
 車は溜池から虎の門に出てそれから右に曲ると南佐久間町の通りをつつきりいつのまにか銀座の裏通りへと出た。
 事務所の前に来ると彼は車をとめさせて下りた。賃銀を払つて、合鍵を出してドアをあけスイッチをひねるとまず一息というので机の前に腰かけてスリーキャッスルをすいはじめた。
「一体こりやどうしたつてわけなんだい」
「君が尊敬するわが美《うるわ》しの依頼人秋川ひろ子嬢が十七日の日私を訪問した足取りさ」
「へえ。じや途中で乗りかえたんだね」
「乗りかえだけは大出来さ。さすが探偵小説愛読者だけのことはある。あれでしかし誰からもトレースされないと思つてるから彼女は愛すべきかなだよ。自分の家へ出入りの車に乗つてあそこまで来るなんてなんというノンセンスだ。それにあんな所でまたガレーヂの車にのりかえるとは。さすが大家のお嬢さんだけのことはあるよ」
「どうして君はそれを知つたんだい」

      5

「そんなことはわけはないさ。一体もつと早く判るはずだつたんだ。一昨日からあのガレーヂで聞いてたんだが、今の運転手がいつも出ていたのできけなかつた。十七日の午後ひろ子があれに乗つて溜池まで来たというのだ。そこで溜池で今きいて見ると十七日か十八日かおぼえぬけれどこういつた風の令嬢が乗つたと云うのだ。もつともここの前までは来ず向うの角で乗り捨てたそうだがね」
「それにしても、溜池で車が止つた時手前にもガレーヂがあつたろう。どうしてすぐ敷島ガレーヂが判つたい」
「そりやこうさ。あの位の女性がトリックで人をまく時人につけられぬ為に車にのる時は、目的の地点を決して乗りすごさず得てして少し手前で止るものなんだよ。見給え、僕の処へ来た時だつてわざと乗り越さずに手前で下りている。然しこんな事を調べるのが目的じやなかつたのだ、さつき泉ガレーヂできくとあの日、さつきの運転手がひろ子を送つて帰つて来た途端、秋川家からと云つて電話がかかりどこまでひろ子を送つたか、ときいて来たので彼は何げなくほんとの答をした。すると暫くしてから今の赤坂の敷島ガレーヂに今度は何者とも云わず、電話がかかつてひろ子のらしい形容を一応してその行先をきいたというんだ。もつともこんどの運転手はここの名は知らなかつたがともかくこの附近で止つた事を云つたそうだ。ところではじめ泉ガレーヂへかかつた時は男の声で敷島ガレーヂにかけたのは女の声だつたそうだぜ。曲者はこうやつてひろ子の足取りを研究した上、ただちにタイプライターを打つておどかし、つづいて例の怪しい電話となつたんさ。何も不思議はありやしないよ」
「そうか、そんなことだつたのか」
「然しね、林田の奴、いちいち僕に一歩ずつ先へ廻りやがる。今しがたちよつと前に泉ガレーヂへカイゼル髯の男が来てやつぱり十七日のひろ子の行動をきいて行つたそうだ。驚くべき腕だよ。ひろ子が来た事もすぐ判つたろう。もつともお互様でね、あの日、午後に秋川駿三が、林田の家に二十分程行つていた事が判つたよ。駿三はひろ子のようにトリックを用いなかつたからすぐ知れた」
 こう云つて彼は腕時計を見た。
「おやもう十一時半だね。冷たいものをのむ所はもうこの辺にはないな。どうだい君は大分近頃この辺で発展なんだろう。どこか大きなバーへつれてゆけよ」
 藤枝がバーに連れて行けというのは余程不思議なことである。酒を一滴も呑めない彼は平生バーへは誰か呑む人が引張らねば行つたことがないのである。
 しかし、酒の多少のめる私はあえてこれを拒む気にはならなかつた。
 すぐ側のサロン、エネチヤという家にはいると早くも私は知り合いの女給たちに囲まれてしまつた。
 藤枝はと見ると、オレンヂ
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