エードか何かを一杯命じたまま、ジャズと喧騒のバーの空気にも一向心を動かすようすもなく、眠そうに傍のクションに身をもたせて一言も発せず天井を薄目をあいては時々見ている。
「まあ、こちら、変な方ね。オレンヂエードに酔つてるの」
なんて女給にからかわれてもまるで気にする様子もない。
私は私で藤枝には少しもかまわず、搾取主義の女給達の云いなりほうだい、カクテールをのんだりのませてやつたり、果物を御馳走したりしていいかげんいい気持になつてしまつた。
「Wein, weib und Gesang か」
ふと彼はこう云つたかと思うと立ち上つて、
「おい僕は先へ帰るよ。じやあした朝オフィスへ来給え。左様なら」
呆気にとられている私や女達を残して消え去つた。
殺人交響楽
1
四月二十一日の朝八時過ぎ、私は目をさました。
前夜久しぶりにバーにはいり、分別盛りの年甲斐もなくいい気持になつちまつて藤枝においてけぼり[#「おいてけぼり」に傍点]を食わせられてから、まだおそくまで残つていて大分酔つて戻つたのだが、酒のために床に入るとそのまま、恐ろしい殺人事件も何もかもすつかり忘れてぐつと一息に眠つてしまつたらしい。
目をさますとすぐ昨夜の事件が気にかかり出したので床の中で新聞紙を手あたり次第にひろげて見ると、ある、ある、「秋川家の殺人」とか「秋川家の惨劇」「殺人鬼現る」とかいう標題でゆうべの事件が盛んに報道してある。
「第一の悲劇」という項で私が記した夫人の死については先にも述べた通り、過失死となつておさまつたので、昨夜現場に私達がいたのは、夫人の葬式の後、偶然居残つていたという事に報道されている。
けれども、われわれの居合わせたことが偶然であるにせよないにせよ腕利きと云われた高橋警部、鬼と云われる藤枝、それと並んで竜にたとえられる林田、この三人の目前で二人の人間が惨殺されたという事実はたしかに都人士をして戦慄させるに十分だつた。だから二、三の新聞が「殺人鬼現る」と標題を作つたのは少しも不思議ではない。
面白いのは、こんな記事がかかげてある某紙だ。
「藤枝、林田両氏は悲憤の表情で交る交る語つて曰く、いやわれわれがいる所でこんなことが出来てしまつて全くお恥ずかしいです。然し犯人の目星もついていますから間もなく捕まるでしよう云々と」
勿論昨夜この二人が、朝刊に間にあうまでに記者に会う筈はないから全くの創作だろうが、まさにこれは御両所の云わんとする所であろうと私にも思われるから、まんざら与太とも云えまい。ただし、犯人の目星云々は少々早すぎはしまいか、とよんで行くと、案外にもどの新聞にも犯人の目星はついているから今明日中には捕縛されるであろうと書いてある。これは当局の言としても記されている。
さてはあれから裁判所の連中は有力な手係りを見出したのか、そうそう警視庁の連中も塀を越えた怪漢のあるのを確かめた筈だ。では佐田やす子の素性も判つたのかな……
あれ程秋川一家を脅かした怪人も、案外脆くも捕まるのかしらん……こんなことを考えながら私は藤枝の事務所に電話をかけた。
ゆうべの約束も思い出したのだが、元来、大寝坊の彼のことゆえ、まだ事務所にご出張がないといけないと思つたのである。
「昨夜は失敬、小川だよ」
「ああ君か。すぐ来いよ。おそいじやないか」
「まだ君がねているかも知れないと思つたのでね」
「どう致しまして。近頃は大変な早起きだよ」
「新聞を見たかい。藤枝氏曰くどうも面目次第もありませんだつてさ」
「おい、くだらぬことを云つておらずにさつさと出て来いよ」
こんな会話が一応電話で行われてから私はすぐに彼のオフィスにかけつけた。
相変らず、彼は部屋中を一杯の煙にしてその中の大きな机に向つて腰かけていた。
「昨夜はどうも御馳走様。相変らずああいう所で大もてだね。羨望に堪えずだな」
「いやまつたくあれこそ小川氏曰く、どうも面目次第もありませんという所だよ」
「僕は昨夜あれから殆ど眠らず事件を考えつづけた。一晩かかつて注意すべき点だけをノートに取つて見たが、ねえ君、いつか云つた言葉をいよいよ取り消さなくてはならない」
「何だい」
「探偵小説に出て来るような稀代の犯人がやはりこの世にいるということだよ」
2
「稀代の犯人?」
「そうさ。稀代の大犯罪人、稀世の殺人鬼、比類なき大悪漢、いや暗黒街のナンバーワン。犯罪界のカイゼル、無比の大英雄、罪の国のナポレオン、犯罪芸術のベートホーヴェン、大天才、大秀才、という讃辞を奉つてもいい。いよいよそういう人物が今や僕の敵手として現れたのだ。仮りにもし僕が今考えている通りだとすればね」
私はいささか呆気に取られた形であつた。
「ああそうそう、それからもう一つ、昨夜、君の讃えているジュリエット姫のあの自動車の行動を、ノンセンスだと片付けた失言をも取り消さして貰おう」
「何だ。ひろ子嬢の事かい」
藤枝は何か非常に重大な事を考えている時に、わざとその気もちを表わさぬように、かえつて軽快にいやにはしやいで語るのがくせである。私はこの部屋にはいつて来た時からの彼の言葉の調子で、彼が余程難問題にぶつつかつているなという事を感じた。
「ねえ君、当局は犯人の目星がついた、と云つているようだぜ。君の讃えるナポレオンとカイゼルとベートホーヴェンを一緒にしたような犯罪王も案外尻尾を早く出したようだよ」
私も負けずに彼の調子に乗じてやつた。
「もつと正確に云えば、当局の言明は昨夜秋川邸南側の高塀を乗り越えた怪漢が捕まりそうだという意味だよ。物事は出来るだけ正確に云つてもらいたいな」
「では真の犯人は?」
「だから彼はナポレオン、シーザー、ミケランジェロ、ベートホーヴェン、ショパン……ショパン、そうだ、そう云えば今しがた林田から電話がかかつてね、もしや昨夜僕がショパンのレコードを耳にしたか、もし耳にしていたらどの辺まできこえたかとてきいて来たぜ。あのレコードに気がついたのはさすがに彼だよ。ただ気の毒な事に丁度あの時彼は二階にいて、あの音楽を自分では聞かなかつたんだね。それで、恥を忍んで僕にきいたわけだろう。僕はきいたけれどもどこまでだつたかよくおぼえていないと答えてやつた。たとえ同盟はしても秘中の秘だけはちよつと云いにくいやね。それに先生だつて僕に大分かくしている所があるらしいからな」
「へえ、あれへ気がつくとはやつぱり林田先生だけある」
「いやもつと素早い事があるんだ。昨夜あのレコードを僕がいじつたろうと来た。どうして判つたつて聞いたら、彼もあのレコードに目をつけたと見えてあのレコードを秋川家の者に云つて当局に調べて貰つたそうだ。ところでレコードからは、犯人の指紋のかわりに、駿太郎の指紋とあと二人の指紋がとれたという事だ。詳しくきいて見るとそれがどうも林田と、斯くいう小生のものだつたらしいんだね。お笑い草だよ。あんなトリックをする犯人が、御丁寧に指紋なんか残してゆくわけがないじやないか。あはははは」
私も一緒になつて笑つている所へ、先に命じてあつたと見えて、給仕が紅茶とトーストを二人分だけもつて来た。
「僕あ、めしはすんだよ」
「そうかい、じや僕だけトーストを食うとしようか」
藤枝は、トーストを片手に取りながら、ミルクをやけにたくさん紅茶に入れると、むしやむしや遠慮なく朝めしをやり出した。
「どうも朝早く起きるとすぐは食慾がないんでね」
彼はこんな事を云いながら中々重大問題に触れて来ない。
やつと朝めしが終ると口をぬぐつて彼は云い出した。
「さて、いよいよ難問題を考えるとしようか」
3
「四月十七日の夜半、秋川徳子が毒殺された。四月二十日の午後八時四十分頃に同家の息子、たつた一人の男子駿太郎少年と雇人の佐田やす子が庭で惨殺された。そこでこれらの三人は一体同一犯人にやられたのだろうかどうだろう」
「判らないね」
「判らない? そりやまあ僕だつて判然としたことはいいかねる。しかしここにこういう事実を加えて見ようじやないか。秋川という一家の主人に昨年の夏頃から何者とも知れぬ奴が脅迫状をよこす。それが為に主人は神経衰弱になつて一さいの公の仕事から手をひいた。最近ではますます度が強くなつて自分のみでなく家族の人々にも警戒させる。これが第一。ところがこの秋川一家が普通の家庭じやない。何だかしらぬが複雑極まる家である。まず長女はほんとの子らしいが次女がおかしい。次女は父のたねらしいが母が異《ちが》う。すなわち秋川の主人が他の女につくつた娘をひきとつて自分の本妻の子として育てているらしい。無論戸籍にもそう書いてあるに違いない。この次女が長女とは仲がよくない。これが第二。更にここに不思議な伊達正男という存在がある。これはひそかに今素性を調査しているから何者の子か、ということは近いうちに判ると思うがこの男がこの次女と婚約者になつている。この婚約の条件として父の出している条件がまた普通ではない。これが第三。それが為に夫婦間に争いがおこつていて嘘か本当か妻は誰かに殺されやしないか、と恐れていた。彼女は夫すらもしまいには警戒して寝室の中から夫の寝室の方に向つても鍵をかけてねていた、夫の方は妻の身を案じて、相変らず警戒しろと云つていたということ。これが第四。第一回の事件が起つてから長女のひろ子は積極的にさだ子のことを怪しんでいる。無論その婚約者の伊達も共犯者と信じられているらしい。ここでちよつと参考に云つておくが、ひろ子は非常に探偵小説にくわしいこと。私の所に思い余つてたずねて来たその夜、事件の直前までヴァン・ダインをしきりに読んでいたという性格の女であること。大変に理智的な女性であること。これらは注意すべきことの第五。
次にさだ子自身に脅迫状が一回来た。しかし彼女は事件直後、検事の前に出た途端、自分が殺人犯人と疑われているのじやないかと思つてヒステリカルになつた。と同時に伊達正男の行動に対して嘘を云つた。これが第六。事件後秋川駿三自身は誰を疑つているのか少しも判らない。林田探偵に依頼したのは一体いつだかはつきり判然せぬ、これが注意すべき事実の第七、である。無論まだ注意すべき細かい点はたくさんあるがこれは今までに君に云つたことだからここには省く。
さて右の七つの事実をよく考えて見たまえ。第一の事実は、犯人が家庭外にいることを暗示、もしくは明示しているが、第二以下第七までの事実は反対に家庭内に怪しい人間がいるのを示しているではないか。いやむしろ、犯人は家庭内にありと信じた方が正しい位だ。
ところで愈々昨日の事件、第二の事件を考えて見よう。一体犯人は駿太郎を殺すつもりだつたのだろうか、佐田やす子を殺すつもりだつたのかしら」
「僕にはよく判らないが、例の草笛の一件から思うと、犯人はまず佐田やす子を、さそい出して殺し、それから(もし犯人が一人だとすればね)駿太郎をおそつたんじやないかな」
「何故佐田を狙つたろう」
「そりや判らないさ。しかし痴情とか何とかいうことがあるからね」
「それならどうして駿太郎をやつつけたろう」
「さあ、……こう考える事は出来るね。佐田やす子を殺している所を見つけられたのでこれも一思いにやつちまつたとね」
「じやその時駿太郎はどこにいたんだね」
藤枝は皮肉な目付で私を見た。
4
「君のようなそんなことを云つたつて、僕は犯人じやないのだからそう詳しいことは判らんよ」
「いや失敬失敬。君の考えが一寸ききたかつたものだからね。判つたよ。君の云わんずるテオリーは、つまりこうだろう。例の草笛か何かの相図で佐田やす子が庭に出て来る。相図をした奴は塀を乗り越えてはいりこみ東南の木立の下で話をしたがとうとう談判破裂でやす子を殺してしまつた。これは駿太郎が何かの拍子で庭に出ていて見つけてしまつたのでは今はこれまでというので駿太郎をもやつつけ、来た道から再び外へ逃げ出したとこういうわけだね」
「まあそうだな。それに現にあの塀に足跡があつた以上はね」
「これ
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