、私は安心して、
「ひろ子さん、ともかくお父様を一緒につれて行きましよう」
 と云いながら、ひろ子と共に家に上り、駿三を下の日本座敷へとつれて行つた。
 この時二階から足音がしてガラス戸口の方に行くのがきこえたがそれは林田探偵であつた。
 私は駿三の為にとりあえず木沢医師をよぶようひろ子にそう云つて再び駿太郎の死体のある所にもどつた(すなわちAという地点)
 藤枝と林田が傍に立つている。
「こんな可愛い少年を、ひどい事をする奴だよ。ここの所を石かなんかで一撃やつたんだね。だめだ。全く死んでいる」
 藤枝はこう云いながら少年の脳天を指した。
「それにしても、まつぱだかにするとはどういうわけかね。……猿股までとつて……」
 林田が重々しい調子で云つた。
「ともかく警察の連中が来るまで手が出せないんだから、兇器でも探すかな」
 藤枝はこう云いながら、電燈をてらしつつ、しげつた木々の間を下を見ながら歩き出した。
 これはなかば、彼が競争者たる林田英三に対する紳士的礼儀で、自身は、少くとも私が再び死体の所に来るまでは充分に、死体を観察することが出来た筈だから、おくれて来た林田に、一人勝手に死体を調べさせようという気もちだつたに相違ない。
 それにしても、肝心の懐中電燈をとつてしまつて林田一人を暗闇に残しておくとは藤枝も皮肉なまねをするわいと思いつつ、私もすぐ藤枝のあとをついて行くと、林田もさるもの、ちやんと懐中から小さな電燈を取り出して駿太郎の白い死体を仔細に見ている(この点ではたしかに藤枝は林田に負けたと云つていい。藤枝はこの時、自分が懐中電燈を用意していなかつた事を大変後悔した。だからこれ以後、彼のポケットにはいつでも万年筆形の電燈が用意されていた。さうしてそれを出す時はいつも「東京にも森があるからな」と自分を嘲るやうな調子で笑つた)
 しかし、得意になつていた林田もその調査を長くつづけるわけには行かなかつた。
 私が、藤枝のあとをついて二十間程東へ進んだ時、私は遠くにまた何か怪しいものを認めたのである。
「おい、あそこに何かある!」
 私は藤枝の腕をつかんだ。
 彼はしばらくそこらを光で照らしていたが「ことによると、俺が考えた通りだぞ」
 と云いながらいそいでその方に近寄つた。
「うん、やつぱりそうだ」
「え?」
「佐田やす子が殺されたんだよ」

      3

 驚いて近寄つて見るとまさしく彼が云つた通り佐田やす子がそこに仰向きに仆れている。
 藤枝は死体に手をあてていたが
「いかん、これももう駄目だ。完全に死んでいるよ」
 と私をかえりみた。
 佐田やす子の死体は一見かなり乱れたていをしていた。抵抗したらしいあとも見える。
 着物は、今しがたわれわれが見た通りの物だが襟がはだけて乳房の辺まで出ており、両肩近くまでひろげられている。右手を地上に伸ばし、左手を胸の上においているが、断末魔に何か掴もうとしたらしく、両方とも堅く拳を握つている。頭髪は相当乱れてはいるが、引きまわされたようにはなつていなかつた。
「こりや君、咽喉をしめられたんだよ。ここを見給え。ほら、色が変つているだろう」
 電燈の光で仔細に死体を見つめていた藤枝が私にそう云つた。成程、咽喉のまわりがひどく変色している。何かでぎゆつと引き締められたに相違ない。
 この時、
「おい、何か起つたのかい」
 という林田の重々しい声が聞えた。
 見ると、懐中電燈を照らしながら林田がむこうから近づいて来る。
「女中だよ、さつきの女中がやられたんだよ」
 藤枝がやや興奮して答えた。
「佐田やす子? 畜生、とんでもないことになつたぞ」
 不意に興奮した林田の声が近よると、彼はいきなり死体の所に寄つて藤枝のした通りに手をあてた。
「畜生! 大切な証人を!」
「まつたくだ。まつたくだ。これでわれわれはまた大きな困難に出会《でくわ》してしまつたんだ」
 藤枝はいかにも残念そうに唇を噛んだ。
「僕はひよつとするとこんなことになりやしないかと心配してたんだが……まさかこう早く来ようとは思わなかつたよ」
 藤枝は独り云うようにこう云いながら、はじめてシガレットケースを取り出し、一本ぬき出して口にくわえると直ぐ火を点じた。
「高橋さん、また一つ死体がありますよ。ここです。こつちこつち!」
 不意に林田が木戸の方を見ながら、しきりに懐中電燈を振つて相図をするので、ふりかえると、警部が電話をかけ終つたと見え、手に一つ懐中電燈を携えて、木戸から駿太郎の死体の方に歩いて行くところだつた。
 私はこれから約一時間にわたつて秋川家におこつた検視、捜索、訊問等全部をここに詳述することはできない。それは読者にとつてはいたずらに煩わしいばかりである、と思われるからだ。だから私はごく簡単に事件の進行を敍述して行く。
 われわれが二つの死体を発見したのは丁度四月二十日の午後八時五十分頃のことだ。
 私は、藤枝、林田と共に佐田やす子の死体のかたわらに立つていた際シガレットの火をつけようとしてライターをつけたがその時、左手にはめていた腕時計を見たが、ちようど八時五十二分を指していた。
 それから約七分たつてから、警察から刑事数名と野原医師がかけつけた。一方事件は警視庁に報告されたと見え、二十分ほど経つてから沢崎捜査課長、田中技師及び刑事が現場に登場するに至つたのである。
 月のないこの夜、まつくらな木立の中を、電燈、提灯をともした制服の警察官等が二つの死体をとりまいて右左に動く様は筆につくせぬ異様な恐ろしさを人々に与えた。
 読者の知れる如く、駿太郎、やす子の二人はたつた今七、八分前まで現にわれわれと話をしていたのである。殺人鬼はいよいよその本性を表わしはじめた。僅かちよつとの間に二人の生命を! しかもかくむごたらしく! 夢ではない。事実である。

      4

 現場に当局者が登場して活動しはじめた以上、多少遠慮した方がいいと考えたのか、あるいは外に思う所があつたか、藤枝は急に私を促して、
「君、うちに上つて結果を待つとしようじやないか」
 と、木蔭を出て歩き出した。
「そうだ、僕も主人を慰問してやらなくちやいかん」
 俺だつてお前のあとに残つて種を拾うようなケチなことはしないぞというつもりか林田も木立の間からふらふらと出かけ、母屋の方に池の側を通りながら例のガラス戸の入口の方に向つた。
「ねえ、小川、僕はまだこの家のたてかたを充分研究してないんだ。裏口にまわつて見ようじやないか」
 藤枝が不意に云うので私は同意の旨を顔でしらせると、藤枝は池の方に行かず、ずつと東の方(やす子の死体のあつた地点すなわちBよりももつと東の側)に向つて歩きはじめた。
 まるで林田と藤枝は子供の喧嘩をしているようなものだ。お前がまつすぐに行くなら、俺は廻るぞと[#「廻るぞと」は底本では「廻るぞど」]藤枝が林田に云わんばかりである。
 林田は、どうぞご自由に、と云つた風で、すまして、ガラス戸の入口から家の中にはいつてしまつた。
 死体のあつた茂みから母屋を見ると、実に立派な洋館が東西に横たわつているのが見える。左が玄関で右端が女中部屋である。母屋と女中達がいる所との間にはちよつとした廊下があつてその渡り廊下(図には細くなつて表れている)が母屋につづく所に庭に通う出口が一つある。
 それを左手に見ながら東側の塀に沿うて歩いて行くと立派な裏門に来た。
 不意に闇の中から人が現れて電光をわれわれに浴びせたがすぐ親しげな声が聞えた。
「おや藤枝さんですか」
 それは制服に身を固めた巡査だつた。
「殺人事件が起つちまつてからお邸検分と出かけました。あなたはここで警戒ですか」
「はあ、今ちよつと内外の交通を遮断しております。牛込区内には全部非常線が張られていますから、大抵今夜中にも捕まるでしよう」
 それから二人は私に全く判らぬ暗合か符牒みたいなもので暫く話していた。
 (これは、警察官や犯人達の間に用いられる隠語だと後に藤枝は私に説明してくれた)
「いやどうも御苦労様です」
 藤枝はやがてこういいながらその巡査に別れ、裏門を右手に見廻しながら今度は北側の塀の所まで歩いた。それから暫く外から内のようすを見ていたけれども、別に変つたこともないらしく、再び裏門を左に見て戻り、例の渡り廊下の入口から母屋に上ろうとしたのである。
 藤枝は靴を脱ぎつつ私の方に向つて、
「君これから右手が台所と女中部屋らしいね。こつちには別に異状はないらしい。じや僕等も主人公を慰問するとしようか」
 と云つたが私は彼より早く、母屋の廊下に飛上つてしまつた。そこには、スリッパが無暗にたくさんぬぎ捨ててあつた。
「おやおや、昼間のお客さんがぬぎすてたまんまかい。表玄関を遠慮した連中の為に此の家で出したんだな。一つ拝借するとしよう」
 藤枝がこんな事を云いながら後から上つて来た。
 その時ほんの偶然から、彼は右足をスリッパにつつかけそこねてよろよろとすると同時に、そのスリッパを横の方にはねとばしてしまつた。
 彼はそれで他のスリッパをはいたが、ふとはねとばされたスリッパを見て、独り言を云つた。
「おや、こりやおかしい」

      5

「どうしたんだい」
「いや、何でもないが、一寸このスリッパを見給え、裏にひどく土がついてるじやないか」
 こういうと彼は今度は夢中になつて十五、六もおいてあるスリッパを片つ端から調べて居たが、やがて私に向つて命令するようにこう云つた。
「おい君、そのスリッパをぬいで見せろよ」
 私がいわれるままに両方ぬぐと彼はその時私が左足にはいたスリッパを調べていたが。
「ほら見給え。この裏にもやつぱりひどく土がついているぜ」
 と私の顔を見たが
「まあいいさ。別に君に関係してるわけじやないんだよ。しかしちよつとこれは外のと別にしておいて貰わないと困る。……」
 彼はこう云いながら、その一足のスリッパを手にとつて歩き出したがふと立ち止つた。
「ねえ君、スリッパ一足でも持つてつちや泥棒だね」
「じや黙つてもつていかなけりやいいじやないか。ちやんと主人にそう云つたら……」
「いいや、まあよしにしよう。それ程大切な物じやないよ。しかし君僕が今これに気のついた[#「気のついた」は底本では「気のつい」]ことを断じて誰にも云つちやいかんぜ」
 彼はこういうと、せつかく今探しあてたスリッパをそこにポンと捨て別のをはいてさつさと廊下を歩き出した。
 このスリッパの一挿話はごく些細なことのようだけども、後に思い当る所が非常に多くなつて来るから読者はよく記憶しておいて頂きたい。
 座敷に来ると、中には続く不幸に悩まされ切つた秋川一家の人々が皆青い顔をして集つていた。家族以外の者では、伊達と林田がいるだけだ。
 主人はもう勇気を恢復したけれども、しかし物を云う気にはならないらしい。
 ひろ子もさだ子も、それから三番目の初江もただおどおどしているばかりだ。
「伊達君、君は今来たのかい」
 と藤枝。
「は、ここから急をきいて今しがたかけつけたばかりです」
「伊達君は僕らが来た時、一応ここを辞して自分の家に帰り、和服を制服にきかえて今来た、というわけなんだよ」
 林田が側から説明した。
「さだ子さんは、この騒ぎの時上の部屋にたしかにずつといたんだね」
 かなり無遠慮な質問を、藤枝がさすがに直接ではなく、林田に向つて発した。
 私はこの時さだ子が赤くなつて下をむいたので、ちよつと気の毒なような思いがした。
「ああ、さだ子さんは僕と話をしていた。さだ子さんの部屋でいろいろ質問をしていたんだよ」
「そうそう、君が、窓から顔を出した時、さだ子さんもつづいて顔を出したつけね。それでと、初江さんは?」
「あの初江は、女中部屋で話をしておりましたんだそうです。今日までお調べにまつたく関係がなかつたものですからわざと私があつちへ行つておいでと申しましたので」
 初江にかわつてひろ子がにつこりしながらそう云つたが更に、
「女中部屋にはその時、しまや[#「しまや」に傍点]と久や[#「久や」に傍
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