ーネラルマーチ(葬送行進曲)ならいいでしよう。今やつたつて」
「ほんとに仕方がないのね。じや竹針で内証でするんですよ。お父様に叱られるから」
 ひろ子は仕方がないと云つた顔で藤枝と共に応接間の方に去り、林田は階段の方に上り駿太郎少年はピヤノの部屋にはいつた。
 応接間にひろ子と藤枝と私がはいると、今まで何か話していた主人と警部が、急に口をつぐんでこちらを見た。
「お話最中ですか」
 藤枝がいう。
「いや、もうすんだのです」と警部。
「じや僕がちよつと御主人にお話したい。今日はひろ子さんに立ち会つてもらつて、そうしてお話を承りたいのです」
 藤枝の声音には何か厳としたものがあつた。
 駿三は明らかに驚いたらしいが、強いてその色をかくそうとしていた。
 一同が座につくとはじめて藤枝が切り出した。
「秋川さん。あなたは何故、私達に大切なことをかくしておられるのですか」

      6

「あなたは、非常に重大な問題を私にかくしておられる。私はひろ子さんから詳しくきいているのです」
 藤枝はこういうとじつと秋川駿三の顔を見つめた。
 ちようどこの時、私はピヤノの部屋からレコードが美しいメロディーを送り出したのを耳にした。極めて小さなピヤノの音であるがまさしくそれはショパンの葬送行進曲の最初の部分である。
「私はまず第一にあなたが何故脅迫状を受けてしかもそれをかくしているのかはつきり承りたい。第二に伊達正男という人物……」
「ありや決して怪しい者じやありませんよ」
「そりやそうでしようが……私はあの青年とあなた御自身との関係が承りたいのです」
 秋川駿三はこの時、この言葉をきいて愕然としたようだつたが、何も答えず黙つて藤枝の顔を見返した。
 藤枝も何も云わぬ。この時ちよつとした静寂がこの部屋をおおつた。レコードの音は、一層はつきりと伝つて来る。
「おいひろ子! 誰だ。こんな時にあんな音をさせるのは」
 突然駿三がひろ子にきく。
「駿ちやんよ。だつてどうしてもやると云つてきかないのですもの」
「駄目だよ。早くやめさせて来い。そして駿太郎をここへよんでおいで。ほんとに仕様のない奴だ」
 彼はほんとに怒つたのか、ただしは藤枝の詰問を一時でものがれるために怒つたふりをしたのだか、ともかくひろ子に烈しく云つたのであつた。
 大切な質問の所に来ているのでひろ子もこの場を去りにくいらしく藤枝の方に助けを求めるようなまなざしを送つた。様子をみた私は、立ち上るといきなりドアの方にかけ出して、
「いいですよ。僕が行つて止めて来ます」
「ああ小川君、君行つて駿太郎君にそう云つてくれよ」
 藤枝にこういわれると、私は駿三がしきりに何か云うのもかまわず一人で部屋をとび出してさつきのピヤノの部屋にいそいだ。
 ノックをすると同時に私はドアをあけたが、これは意外、部屋の中には誰もおらず、ヴィクトローラ一人相変らずいい音をさせているではないか。
 私はとりあえず、ヴィクトローラの所へ走り寄つていそいで蓋をあけた。丁度その時レコードはショパン独特のあの婉麗極まりなきトリオの部分を奏ではじめている所だつたが、私はいそいでアームをあげてそれから廻転を止め、そのまままた応接間に戻つた。
 (後に詳しく調べて判つたことだがこの時、駿太郎がかけ放しにしていたレコードはヴィクター版で Ignace Jan Paderewski の演奏にかかる Funeral March(Chopin op.35)で私がとめた所は丁度トリオのはじめの部分、藤枝があとで親しく実験した所では、正規の廻転で、はじめからここまで約一分二十秒の時間を要することが判つた)
「どうも恐れ入りました」
 と駿三がほんとに恐縮したように私に云う。
「いや……しかし駿太郎君はいませんでしたよ、あの部屋には」
「何、駿太郎君がいない? レコードをかけつ放しにしたままか」
 驚いて云つたのは藤枝だつた。
「はばかりにでも行つたんでしよう」
 ひろ子が何でもないようにそう云つた。
「変です。おかしいです。駿太郎君を見て来て下さい。小川君、君も一緒に行つてくれ」
 藤枝は、ひどくあわててひろ子と私をうながした。

      7

 ひろ子と私は急いで、廊下に出た。念の為にもう一度ピヤノの部屋を見たがやはり駿太郎の姿は見えない。はばかりの外から声をかけたが返事がない。階段の中途まで上つて二人で駿太郎の名をよんだけれども、これも無駄だつた。二階にもいないと見える。
 ひろ子は私の先に立つて階段を下りすぐ左に曲つた。つづいてあとから行つて見るとピアノの部屋のすぐ隣、すなわちピヤノのおいてある側の壁の裏側に突出た廊下があつてそこに硝子戸があつてそこから庭に出られるようになつている。
「おや、戸があいている、それにこんな所にスリッパがありますわ」
 ひろ子はその半ば開かれた戸の下にぬぎ捨ててあるスリッパを指した。
「あら、庭下駄がない! じやきつと庭に出たのかも知れませんわ」
 早口に云つた。
「ともかく藤枝君にいいましよう」
 私にはこの場合たいした智慧も浮ばなかつたので、急いでひろ子と共に応接間に戻つて来た。
 藤枝は非常に何か心配な様子で私達が戻るとすぐ立ち上つた。
「おい、見えなかつたかい」
「うん、便所にも二階にもいないらしい」
 私がこういうと傍からひろ子がひき取つて答えた。
「あの、庭に出たんじやないかと思われますの。廊下にスリッパがぬいであるし、庭下駄も見えませんので……」
 藤枝は何も云わずいきなり高橋警部の肩をつかんだ。
「高橋さん、もしかするとこりや大変な事になる。すぐ庭へ出ましよう。一刻も早く!」
 彼はこういうと驚く警部や駿三や私を残して玄関へ飛び出した。
 彼のこのあわて方が尋常でないので警部も駿三も余程驚いたらしく、ことに警部はさすがに、瞬間に藤枝の気持を察したと見え、すぐに玄関へ出て靴をつつかけた。私も、二人におくれじと玄関へ出て自分の靴をつつかけたまま、藤枝と警部につづいた。
 玄関を出てすぐ左に折れ、今いた応接間の窓の下を通ると木戸がある。これをあけると庭である。
 藤枝も警部も私も、木戸をあけた途端、はたと当惑せざるを得なかつた。というのはここから左手にさつきのピヤノの部屋の中がすぐ見えるのだが反対に右側すなわち庭の方は、文字通り真暗で一体どこをどう行くとどこに出るのだかさつぱり判らない。
(あれだけ用心していた筈の駿三がこんな広い庭、しかも、奥には鬱蒼たる森をひかえた庭に一つも電燈をおかないとはどうしてだろう。後できくと駿三も無論ここに気がついていたのだそうだが、種々な説があつて、暗い方が安全だという人もあり、明るいほうが安全だという人もあつて結局彼は暗くしておくことにきめたそうだ。いざという場合自分が闇にまぎれて避難する気だつたのだろうか。ともかくこの事件の結果から考えると家の周囲に燈がついている方が危険が少いに違いないと私は思つている)
「こいつはしまつた。こんなに暗いとは知らなかつた。誰か懐中電燈を……」
 藤枝がこう云つた時すぐ後から駿三が追つて来た。
「懐中電燈? 私の部屋にあります」
「秋川さん、すぐ、すぐ取つて来て下さい」
 藤枝はこういいながら一生懸命に前をにらみながらかまわず二、三歩闇の方に進んだ。
 その時、さつきのピヤノの部屋に降りているガラス戸の所にひろ子の姿が現れた。
「ひろ子! 早く! 私の部屋から懐中電燈をもつて来てくれ!」
 駿三がどなつた。ひろ子はすぐに姿を消した。

   惨死体

      1

 ひろ子が姿を消してからまた現れるまで(それは実に二分もかからぬ間であつたが)藤枝は、一年も十年も待つていなければならぬような顔をしていた。平生に似ず異常に緊張した目つきはただならぬ不安を示している。
 警部も待ちかねたと見えて飛鳥の如くに走つて行つて今ひろ子が姿を表わした入口までゆきついた。
 ほどなくひろ子が下りて来ると、警部はもぎとるように懐中電燈をとつて戻つて来た。
「さ、何でもいい、南の方、奥のほうへ行つて見るんだ。あの森みたいになつている所、あつちへ……」
 藤枝は夢中になつて先へ歩き出した。
 そこで私は一応この家と庭の位置をはつきり記しておく心要を感じる、でないとこれから私の記するところが読者にはつきりしないかも知れないから。
 ここに表わしたのは私がほんの心覚えにノートにとつておいたもので無論正確な図ではない。
 ことに、土地のスペースと建物のそれとの比率が甚だいいかげんなものなのだが大体こういう土地にこういう風に家が建ててあると思つていただけばよい、土地はあとできくと二千坪以上のものだから、図面では家屋に比してもつとずつと大きくなるわけだけれど見易い為に上の如く記した。
[#家屋と庭の配置図(fig1799_02.png)入る]
 すなわち[#「 すなわち」は底本では「すなわち」]われわれは玄関を出て、点線の示す方向に進み木戸をあけて庭にとびこんだのである。
 藤枝が奥の方と云つたのは、南の方の事でABという方向に森のように木がしげつているのだ。(ABが何を表わすか、それはすぐ後で判る)
 距離の観念にうとい私には、木戸から南へむけてわれらがどの位進んだかはつきり記することが出来ないが、何でもおよそ現今《いま》の家の庭の中では、ずいぶん進んだという感じだけはたしかにした。
 警部がパッと照らしている電燈の光が森のような茂みのはしの方に何か白い物を浮び出させた時、さすが鈍感の私も思わずはつとした。
「おい、あそこだ。あそこだ。間にあうだろう」
 藤枝はこういうとその白い物体の方に飛ぶように走つて行つた。つづいて警部がおくれじと走る。私と駿三とはややおくれてかけつけたが、私ははじめて白い物に近づいて思わず、
「こりやひどい!」
 と叫んだのである。
 さつきまであんなに元気だつた駿太郎がここに、見るも無惨な死体となつているではないか。しかもなみたいていの死にざまではないのだ。
 からだは全くすつぱだかである。
 両足を開いてこちらに向けて仰向きに倒れているのだが、あしの下に着物がくちやくちやに敷かれている。両腕は背にまわされ、多分しめていた兵児帯で後手《うしろで》に緊縛《きんばく》されているのだろう、その端がいんこう部に二まわりばかり堅くくくられている。
 きれいな顔の上半分が血まみれになつているのは傷でも受けたものであろうか。
 更に奇怪なのは、猿股がひきちぎられてすてられ更にうすいメリヤスシャツがむちやくちやにむしつてあつて右に述べた通り、身体が全くむき出しになつていることだ。
 私が叫んだと同時に後で、うんという異様な声がきこえた。ふりかえつて見ると駿三がふらふらと倒れかかつて来る。
「いかん。我が子のこんな有様を見せちや駄目だ。脳貧血だよ。君早くかついで行つて介抱してくれ。それからすぐ警察へ……」
「警察は僕がやる。小川さんはすぐ秋川さんをつれて行つて、それから林田君をよんでくれ給え」
 高橋警部がこう云つて木戸の方へとんで行つた。
 私は駿三を介抱しながらガラス戸の入口に向つた。

      2

 私がガラス戸の入口へ向つて進んで来るとひろ子が下駄をはいてこつちへ来ようとする所だつた。
「ひろ子さん、お父様がちよつと脳貧血を起したんですよ」
「まあ」
 彼女はこう云つてかけよつたが、駿三ももう回復しかけたらしく、多少歩けそうなので私はひろ子に駿三を托した。
 ひろ子は不安なまなざし[#「まなざし」は底本では「まざし」]で
「あの、何か起りましたの、弟がどうか……」
 どうせまもなく判る事だけれど、彼女に今真相をつげる手はないと思つたから私はそれには答えず、
「林田君はどこにいます」
 ときいたがちようど此の時、二階のさだ子の部屋にいる林田が騒ぎに驚いて窓から首を出したものと見え、
「おおい、林田君、すぐここへ来いよ」
「何だ。よし、すぐ行くよ」
 という、一方は庭から、一方は二階からの藤枝と林田の問答がきこえたので
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