張つたり、ぶちこむわけには行かないこと勿論である。
それも、一定の住居のない浮浪人とか、一定の職業もなく偽名を用いているというような相手ならば、ただちに警察に引張る手もあるのだけれども、今まで現れた人達は、実業家として堂々たる邸宅を有する紳士及びその家族、並びに召使と、立派に薬剤師として営業している家の主人及びその雇人なので、警察でもそう高飛車に出ることを遠慮していたらしい。
藤枝、林田両名にすればなお更で、これはしきりに秋川家を訪問はしていたけれども、取込み中とて中々取調べははかどらないようだつた。
私には藤枝が一体誰を疑つているのかさえ知りようがなかつたのである。
無駄と知りつつ十九日の夜、藤枝にその見込みをきいた所、彼は苦り切つて答えた。
「全く判らん。あてもつかない。警察のような権力をもつていないのが残念だよ。あいつ[#「あいつ」に傍点]をもつと厳しくせめなけりや第一方針が立てられん。しかしもう一日待ち給え。明日の、そうだ、夜になればいくらかはつきりするだろう」
あいつ[#「あいつ」に傍点]とは誰だろう。
これは後になつて聞いたことだが、検事は十八日一通り皆を調べた所から、伊達正男、さだ子、佐田やす子の三人に特に目をつけたらしく、その命を受けた高橋警部はこの三人に任意出頭の形をとつて警察に出頭させ、しきりと取り調べたのであつたが、何ら確証を掴まず、ことに佐田やす子にはかなり烈しく当つて見たのだがやはり、これという所が判らず、右に述べた通り、一人の被疑者も拘引されずに二十日となつたのである。
ただこの時分は新聞で例の過失死事件を報道した為、世人も怪まず、警察及び探偵に対する非難は少しもおこらなかつた。
さて、さきに云つた通り四月二十日の午後、質素な葬儀が行われた。
流石に永年実業界に活動した主人の力で大分多数の人々の顔が見えた。藤枝と私は共に式に列したが、やがて式が終ると、家族及び親戚の二、三が棺と共に埋葬についてゆくというので、われわれは一旦帰ることにした。
林田もやはり帰つたようであつた。
私は自宅に戻り、窮窟なフロックコートを軽快な背広にかえるとすぐ藤枝の事務所に行つたが、ちようどそれは夕方四時すぎであつた。
「これからまた行つて見よう、いよいよ肝心なところへ来たぜ。しかしまだ家族も帰つていないかも知れないから、暗くなつてから出かけて見ようよ。君は気がついていたろうが、親戚の人々は御義理で来てはいたものの、皆何となく今度の夫人の死を怪しんでいて不気味に思つているようだつたから夜になれば皆帰つてしまうよ。銀座ででもゆつくり飯をたべてちようどいい時分に行つて見ようじやないか」
二人はそれから暫く銀座で時をつぶして、円タクをつかまえ、秋川邸へと向つたがその時はもう、銀座通りに赤い火、青い火が一杯ついて、ネオンサインの光がいたずらに目を射る頃で、日は全く暮れてしまつて居た。
秋川邸では家族は全部もううちにもどつていた。
取次にきくと藤枝の思つた通り親戚は一人残らず帰つてしまつてたつた一人、林田がやはり一足さきに今来たばかりだという事である。
「今日はこつちがおくれたぜ。林田君におくれちやいかん。すぐ捜査開始だ」
3
藤枝と私は上つてすぐ右手の例の応接間に通されたが、藤枝は何だかおちつかない様子をしていた。
われわれに一歩おくれて警部がまたやつて来て応接間にはいつて来た。
お茶をもつて来た女中に藤枝は一刻も早く主人に会いたい旨を告げたがやがて間もなく駿三が現れた。
一通りの挨拶がすむとすぐ藤枝がきいた。
「秋川さん、林田君がもう来ているのですつてね」
「はあ、今しがた見えたようで私ちよつとお話ししました」
「で、今は」
「今、あの女中を調べておられます」
何故か藤枝は不意に立ち上つてドアの把手に手をかけながらきいた。
「女中つて、あの佐田やす子ですか?」
「そうです」
「そうですか。じや僕も行つて見ましよう」
彼はそういうと私をさしまねいて室を出ようとしたが、それはいかにもあわてた様子だつた。
「いや、藤枝さん、いくら当つても同じでしようぜ。私は昨日も今日も調べたんだが、あいかわらずの供述だ。どうもいつている事に嘘はなさそうです。林田さんだつてやつぱりあれ以上は進みますまい」
こういつたのは警部だつた。
「ここをずつと行つた右手の部屋におられますよ。御案内しましようか」
駿三が藤枝のようすに驚いて腰を浮した。
「いや、いいです」
私が彼につづいて廊下に出ると藤枝は小さな声で、
「うん、やはり林田だけの事はある。僕と同じようにあの女を落そう(自白させる事)としているんだ。先を越されちやいかん。かまわぬから僕にも調べさせてもらおう」
とささやいた。
主人の云つた通りに行くと階段の右側に大きな戸がある。藤枝はノックをしながら、
「林田君、藤枝だ。はいつてもいいかね」
というと中から林田の声で
「うん、いいとも。どうぞ」
という声がきこえた。
それに応じて藤枝と私とは部屋にはいつた。
途端に目にうつつたのは、こちら向きに腰かけている佐田やす子の顔だつたが、相当烈しく林田に問いつめられていたと見え、まつさおになつて目のふちには涙のあとが充分に見える。手にもハンケチが惨《いた》ましくふるえているのがすぐ判る。
「実に剛情だ。こんな女ははじめてだよ藤枝君、一つ君の腕で充分調べて見給え。何なら僕は遠慮しようか」
「いやいや、君の前できいて見よう」
こういつて藤枝は佐田やす子に対してわりにおだやかに質問をはじめた。
「どうも君のいう事が判らないんだがね。度々いう通り、あの日まつすぐに西郷へ行つてまつすぐに帰つたのかね」
「はい……只今全部林田先生に申し上げた通りでございます」
「林田先生に云つた通りとは、このあいだ云つた通り少しもまちがいはないと云うのかい」
「はい……」
彼女の答はこれで終始していた。
私と林田とを傍において藤枝はしきりといろいろな方面からやす子を問いつめていたが、まつたく高橋警部の云つた通り、さすがの藤枝もおとといの検事の取調べの時から一歩も進む事は出来なかつた。
林田はこれもやはり警部の云つたように、不成功だつたと見え、苦りきつて女を見つめている。彼には佐田やす子のようすが余程癪にさわつたらしい。
4
私は藤枝が、相変らずおだやかな調子でやす子に問を出している間にはじめてこの部屋の中を注意して見廻した。
此部屋は居間ではなく、まず客間ともいうべきものだろうか、令嬢達の親しい友人等を通す所と見え、われわれがはいつて来たドアからはいると左手の壁にそうてかなり大きなピヤノがおいてあり、右手の壁には立派な西洋画がかけてある。ドアにそうた壁の下の方にはストーヴが冬中おかれてあるものと見え、そこがくりぬいてあるが今は洋風のついたてでかくしてある。そのすぐ上に四尺に三尺位の鏡が壁にはめこんであつた。
その他部屋の中の道具は皆立派なもので、ほかの部屋の飾りと共に充分富の程度を表わしている。
われわれがはいつて来たドアと反対の側には三つの大きな窓があつてその向うは広い庭らしいが、もう暗いのでよく判らない。
庭に面した窓と右手の洋画のかかつている壁と直角に交わつている隅に、立派なヴィクトローラ(蓄音機)が一台おいてある。
[#客間の配置図(fig1799_01.png)入る]
何故私がいそがしい今、こんな煩わしい描写をしたか。読者は充分にこのピヤノの部屋の有様を記憶しておいて頂きたい。後におこつた惨劇を解する上に甚だ大切なことだから。
さて、藤枝のやす子に対する質問は、もし今までやす子が嘘を云つていたとすれば、一言にしていえば、まつたく不成功であつた。
彼はやはり高橋警部、林田英三を一歩も追いこすわけにはいかなかつた。
とうとうあきらめたものか藤枝は林田に向つて、
「僕はもうこの位でいいと思うんだが、もう君はいいかね」
と云い出した。
「いや、僕もいい。今までやつたんだがやはりよく判らんよ」
「じや、どうも御苦労、もう部屋に戻つてもいいぜ」
藤枝にこう云われてやす子はやつと安心したやうに椅子をはなれて入口のドアの方へとゆきかけた。
藤枝と林田はお互いに不成功を慰めあうつもりか、苦笑しつつ顔を見合わせたが藤枝は左手でシガレットケースを出して林田にすすめながら、自分も一本つまんで、右手でライターをパッとつけると林田が口にもつて行つたシガレットに火をつけてやろうとした。
ちようどその時、庭の方から草笛のような声が聴えて来た。窓があけてあつたので私ははつきりきくことが出来たのだが、別に怪しい音ではない。近所を通る書生か少年がいたずらに木の葉を口にあててふいているとしか思わなかつたのだが私が妙に感じたのは、その時のやす子の顔付だつたのである。
藤枝と林田の二人はちようどシガレットに火をつけてやり、またつけてもらつている瞬間だつたので、あるいは草笛をきいたかも知らぬがやす子の方は見ていなかつた。
やす子はその時入口の所でかるく会釈をして室外に出ようとしていたが(偶然かどうか私にはその時よく判らなかつたが)窓越しに遠くから草笛の音がきこえて来るや否や、はつとしたような顔付をした。一言で云えばそれは驚きと恐怖の表情だつた。
一瞬にして彼女はドアの外へと出て行つてしまつたのである。
この時のやす子の表情とあの草笛の音とを結びつけて考え得る人間は私一人だつたのだ。
もし私がすぐその場でこのことを藤枝と林田に告げればあるいはこの直後に起つた惨劇を防ぎ得たかも知れぬ。
然し事のおこる時は仕方のないものだ。
この時のやす子の表情をすぐその場で二人にいわなかつたばかりに、私は何度藤枝と林田に怒られたことか。
5
やす子が部屋から出て行つてしまうと、藤枝と林田は向きあつてシガレットをふかしていたが暫く何も云わなかつた。
突然口を切つたのは林田だつた。
「ところで僕は、ここのお嬢さんにもう一度会いたいのだが……君はどうするね」
「うん、僕は主人の所に行つて見る」
「主人は今どこにいるんだい」
「応接間に高橋警部と話しているよ。じや君はお嬢さんに会つて来給え。僕は主人に是非ききたいことがあるから」
二人は立ち上つて部屋から出ようとした。
ドアをあけると丁度その外にひろ子と駿太郎とが立つていた。
私は駿太郎を読者に今まで詳しく紹介する機会をもたなかつたからちよつとここではつきり記しておこう。(十八日に私がこの家に来た時、この少年は家にいなかつた。あとできくと主人は、妻の変死事件を外に知らせたくないのと、学校を休むことはいかんというので、あの日、駿太郎はやはり学校に出ていたのだつた)
彼は十五歳で、中学の二年生だが、白い豊頬に幾分紅をおびた上品な美少年である。この時はかすりの着物に兵児帯という活溌な姿だつた。
「おや、先生方ここにいらしつたのですか」
「ひろ子さん、あなたは?」
「あの……父の所にまいります。ちよつと用があるので」
「そうですか。そりやちようどいい、僕も今お父様にあいに行く所です。それに、あなたを前においてお父様にききたい事があるんですがよいでしようか」
こう云つたのは藤枝だつた。
「はい、結構でございますとも。私もそうして頂きたいと思いまして」
藤枝はひろ子と一緒に応接間の方に行きかかつた。
すると林田が、
「さだ子さんはどこでしよう」
とひろ子に訊ねた。
「さあ、私よく存じませんが、多分二階の自分のへやではないでしようか」
「じや私はさだ子さんに会つて来ます……駿太郎君、君も来るかい」
「僕はいやだ。僕ここで蓄音機をきくのさ」
「ほんとに困るんでございますよ。こんな時に蓄音機をやるなんて申すので。この人は毎日毎日レコードをかけてきいているのがすきなので、今日もどうしてもやりたいつて申しますの」
「だつてお姉様。毎日このごろ不愉快なことばかりで僕堪えられないんだもの。フュ
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