依頼人なんだよ。残念ながら、筆蹟から、顔かたちを推理する方程式がないので、美醜の程は判らないが、とにかく若い女たることはたしかだ。君だからかまわない、今朝、僕の所についた手紙を見せようか」
 彼はこういいながらおもむろにポケットに手を入れた。

      4

 私はこの辺で、藤枝真太郎という男の経歴と、それから余り自慢にならぬ私自身の経歴とを読者諸君に一応、御紹介しておく必要を感ずるものである。
 藤枝真太郎とは、五年ほど前まで、鬼検事という名で、帝都の悪漢達に恐れられ憎まれていた、もとの藤枝東京地方裁判所検事の後身である。
 何を感じたか、五年ほど前にとつぜん辞表を出して退職してしまつた。多くの司法官と同じように、すぐに弁護士の看板を出すかと思つていると、これはまた珍しいことに、世人の予期に反して、彼はいつこう弁護士の登録をしない、しばらくすると、銀座の裏通りに小さな洋室を借りて、私立探偵藤枝真太郎という看板をかかげはじめた。じつに彼が検事退職後、二年後の事であつた。
 それから今日までに、彼は恐るべき怪腕を振いはじめた。関係者が現存する為に彼の功績はいつこう世の中に発表されないけれども、それでも牛込の老婆殺しの事件、清川侯爵邸の怪事件、富豪安田家の宝物紛失事件、蓑川文学博士邸の殺人事件などは、人々のよく知る所となつていると思われる。
 鬼検事は依然として鬼である。在職当時よりも、自由がきくだけ一層悪漢らには恐れられているわけだ。
 私、小川雅夫は、実は彼と高等学校が同期なのでその頃から彼とはかなり親しくしていた。
 当時、世の中は、新浪漫派の文学の勃興時代だつた。誰でも当時の読書子は必ず一時は文学青年、兼、哲学青年になつたものである。
 藤枝も私も御多分にもれず、イプセンを論じ、ストリンドベルグを語り、ロマン・ローランの小説を徹夜して読むかたわら、判りもしないのに、一応判つた顔で、ベルグソンやオイケンを語り合つたものだつた。
 実際いまから考えると冷汗ものだが、その頃の高等学校の自分達の部屋には、ニーチェの言葉のらくがき[#「らくがき」に傍点]が必ずしてあり、一方の壁にはベートホーヴェンのあのいかめしい肖像画をかけているかと思うと、ミケランジェロの壁画の写真が片つぽうにはつてあつたものだ。
 だから藤枝も私も将来は大文豪か大哲人になるつもりでいたものである。
 しかし此の芸術病も大学に行くころになるとだんだんうすらいで、大学に入学する時分には、だいぶん足が地について文科をよけて法科へ行くものが殖えて来た。
 藤枝真太郎なんかはまさにその類で、ゲーテの全集の前にいつのまにか判例集が並べられ、イタリー語の辞書などはどこかの隅に入れられて六法全書がはばをきかす事になつてきた。
 愚かだつたのは、かくいう私で、芸術病は一向さめきらず、哲学科に籍をおいて大いに勉強しようとしたのはよかつたが、大学二年のころ、大阪で、貿易商をして多少の産をなした父が死んだのが運のつき、あとを整理しに郷里へ帰つて、二、三ヶ月暮しているうちに、遊ぶ方が面白くなつて、すつかりなまけ者になつてしまつた。
 それでも、一応、文学士という称号はもらつて卒業したが、同窓のある人々はもはや文壇に乗り出すし、法科に行つたものは盛んに高文というのを受けて、立派なお役人になつてゆくといううらやましさ、これではならぬとがんばつても、さてなまけ者の悲しさにいつこう世に出られず、ええままよ、といつたん帰郷し、当分父の商売をついでいたが、さいわい生活の不安もないので一家をあげて上京し、たいして名もない雑誌社に小遣とりで御奉公している今の身分をかえつて気楽だとばかり、まけおしみを云つているわけである。

      5

 平凡な私の生活でたつた一つ忘れられぬ事は、三年前に妻を喪つたことで、それから後は、独身者、子もなし、母と二人きりののんきな暮しである。
 後ぞいをもらわぬ気でもなし、またいろいろ世話をしてくれた人もあるが、古いたとえの、帯に短し襷に長し、でもう四十にまもないのにこのところ、一人者である。
 藤枝真太郎も私と同じ位のはずだから、もう三十七八にはなるだろうが、彼は、この年になつてやはり独身である。それも彼のは私とはちがつて、はじめから結婚しないのだ。
「啖呵にやならないが、俺は女に惚れたこともなし、また惚れられたこともなしさ」
 というのが彼の口ぐせだつた。
「僕は女というものをどうしても尊敬する気にはなれないね。と同時に、信じることが出来ないんだよ」
とよくまじめに云うことがある。自らシャーロック・ホームズを気取つているように思われるが、実はこれは彼にとつては、かなり淋しそうなのである。
 私同様、父は既になくなり、母と二人で家をもつて、たいてい毎日、事務所に出
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