料理屋で、高等学校時代のクラス会が開かれたとき、最近英米で素晴らしい評判をよんでいる名探偵小説を二、三冊彼に貸したことを思い出した。
「こないだ君に貸した本はどうだつたい」
「あ、あれか、そうそうこないだはありがとう。皆一気に読み通したよ。みんな面白かつた」
「そりやよかつた、……しかし役には立たないかい」
藤枝はこのとき、ちよつと黙つて考えこんだ。
私は、早くも、彼がその小説について何か不満足な点を思い出していると感じたので、すばやく先手を打つつもりで切りだした。
「何も、これはあの小説には限らないけれども、いつたい僕が探偵小説の中で気に入らないのは、出て来る名探偵が偉すぎることなんだよ。シャーロック・ホームズは勿論、ポワロにしろソーンダイクにしろ、またフィロ・ヴァンスにしろ、人間以上じやないか。実際あんな偉大な人間なんてものがあるもんじやないからね」
「そりやそうだ」
藤枝は余り気のない返事をした。
「これは君を前において、ひやかしに云うのでもなく、またお世辞に云うのでもないが、君位なところがまず実際上の名探偵だよ。我が藤枝探偵はシャーロック・ホームズの如き推理力はなく、フィロ・ヴァンスの如くに博学に非ざれども……」
「オイオイもうよせよ」
彼は、でもちよつと恥ずかしそうに顔を赤らめて、私のいうことをさえぎるように云いはじめた。
「君のいう通り、探偵はえらすぎるよ。しかし僕に云わせれば、こないだの小説にしろ、どの小説にしろ、悪人が少々悪すぎると思うね。どうして小説家がほんとの悪人を描かないのかね」
「ほんとうの悪人?」
「そうだ。いつたい探偵小説に出てくる悪漢は大悪人すぎるよ。作りつけの、生れながらの悪人なんだ。たとえば、人を殺すのに、実に遠大な計画をたて、冷静にやつつける。それからあとでも実に平気でその始末をつけている。あれがちよつといやだな」
「じやなにかい。君はそんな悪人はないという気なのかい。そりや少しおかしくはないかね」
3
「どうして?」
「こりや君の方が詳しいはずだが、犯罪学では生来、犯罪人という一つのタイプを認めているんだろう」
「そりやあるさ。そういう犯罪人はある事はある。『オセロー』に出てくるイヤゴーなんかはまずその例さ。しかし、めつたに出てくるものじやないぜ。ことに探偵小説に出てくるような殺人犯人がこの世の中にいるとはまつたく思えないね。今も云つたように、殺すまでに実に冷静に計画し、人殺しをしたあとでも、まるで朝めしでも食べたあとのように悠々として、少しも恐怖心や良心に悩まされてはいない。全くおどろくよ」
「無いとは云えないだろう。君が未だ出会わないだけじやないか」
「ともかく僕はまだ一度もお目にかかつたことはないな。検事をしていた頃だつて、それからやめてからだつて、まだ一度もそんなひどい奴に出つくわしたことはない。詐欺だの横領の犯人になると、ずいぶん悪智慧をめぐらして犯罪を行う奴がいるが、殺人犯人にはちよつとないね。だいたい人を殺すなんて事が、馬鹿な話だからね。智慧のある奴じやできないよ」
彼は紅茶をすつかり呑んでしまつて、次の一杯をまた命じた。
「じや、智慧のある人間は殺人をしないとして、殺人狂なんてものはどうだい」
「殺人狂はたくさんある。しかし、余り智慧がないから、名探偵が出るまでもなく直ぐ捕まるよ」
「生来的に殺人狂で、そうしてすばらしく智慧のある奴が出て来ると、いよいよ名探偵が出動するわけかね。どうだい、そういう犯人と一つ一騎打の勝負をやつては?」
「それは僕も望んでいることなんだが、まあ当分だめらしいな」
藤枝はこういいながら、二本目のシガレットを灰皿にポンと投げこんだ。
人間というものは、どんなに偉くても一寸先も見えるものではない。
こんな会話があつてから、半月もたたぬうちに、藤枝はかねて望んでいた通りの――いやあるいはそれ以上の、大罪人と一騎打の勝負をしなければならなかつたのである。
しかも、その大惨劇の序曲が、この会話から一時間もたたぬうちに、はじまろうとは、全く思いもかけぬ事だつた。
私は、ふと時計を見たが、三時にもう二分位しかなかつた。
「さつき三時半頃にお客が来るといつてたがまだいいのかい」
「まだいいさ」
彼はこう答えたが、意味ありげな笑顔をすると、ちよいと私を見ていつた。
「僕の望みは当分達せられそうもないが、女性礼讃者の君には多少の好奇心を与えるかも知れないお客様だよ」
「女の人かい」
私は、思わず云つてしまつた。
「うん、そうさ」
「どんな婦人だい、若くて美人かね」
「そうせき込み給うな。まだ会つたことはないんだ。今日がはじめての会見さ」
「なあんだ。しかし君のことだから、別に粋筋というわけでもなかろうが……」
「無論だ。事件の
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