ているのだつた。
 こういう彼のことだから、婦人の客が来ると聞かされてもいつこう羨しがるべき理由はないのである。果して私の思つた通り、ロマンスではなく、事件の依頼人とみえる。
「これが今朝着いた手紙さ。速達で事務所に来ていたんだ。大分いそいだとみえて、ペンの運びが乱れてはいるが、相当の金持の、教育のある女だね」
 彼はこう云つてクリーム色の洋封筒を私の前へさし出した。
 私は黙つて中の紙をぬき出したが、それは封筒と同じクリーム色の洋紙で、細かい女文字でこう認められてあつた。

[#ここから1字下げ]
 突然手紙を差し上げる失礼を御許し下さいまし。まだお目にかかつたことはございませんが、先生の御名前はかねてより承つてよく存じて居ります。ある事件につき、特に先生を見込んで御願いいたしたい用件がおこりました。私一身の事ではございませんが、私の家庭のことでございます。今日午後三時半に先生の事務所に伺いますから、御都合がよろしかつたら必ず御会い下さいますよう御願い申し上げます。万事はお目にかかつた上にて。早々。
[#地から2字上げ]秋川ひろ子
  藤枝先生
[#ここで字下げ終わり]

「ねえ、小川、この婦人はどうせ会いに来て、事情を語るつもりだろうから、自分の身の上を少しもかくす必要がないわけだ。だからいそいで平生つかつているレターペーパーを用いたと思つていい。見給え、このレターペーパーは相当贅沢なものだぜ。僕らがちよいちよい買うレターペーパーとは違つて、封筒と用紙とがちやんとそろつて、一箱いくらという奴さ。おまけにそれもかなり高い物だぜ。こんなものをいつも使つているとすりや、一応の金持の娘かなんかだよ。それから手紙の文章がちよつと気に入つた。要領を得ている。ただこの手紙は女の文章としては珍しいといいたいな……さて、そろそろ時間が来そうだから、引き上げるとしようか」
 彼はこういうと、机の上においてあった伝票をつかんで立ち上りかけた。
 私もつづいて立ち上ったが、まだ会つたことのない依頼人のことが、なんだか急に気になり出して来たのである。

      6

「ねえ君、若い女の人が自分の名をはつきり書いて、会つたこともない君にこんな手紙をよこすところをみると、余程さしせまつた事件がおこつているんだろうね」
 私は舗道を歩きながら話しかけた。
「うん、まあ本人から見れば、ずいぶん切迫した事なんだろうよ。しかし若い女の人たちはちよつとした事ですぐあわてるもんだから、話を詳しく聞かないうちは一緒に騒ぐわけにはいかぬよ。このあいだもひどく狼狽して女の人が飛び込んで来て、夫が行方不明になつたというのだ。だんだん調べて見ると、その夫というのが、ある待合でいつづけをしていたというわけさ。あははは」
「しかし、この手紙には自分の名がちやんと出ているね」
「うむ、これがちよつと面白い所だ。これが本名だとすればだね、君は気がついているかどうか知らないが、秋川という姓は、有りそうでいて殆どない姓だぜ。秋川といつて思い出す人があるかい」
 私はそう云われて、自分で暫く考えて見た。
 大阪で貿易商をやつていたころ、いろんな事業家を知つていたが東京の実業家で、そんな姓の人がいたのを思い出したのであつた。
「何とか会社の社長で、秋川という人がいたように思うが……」
「そうだよ、君は割に物をはつきりおぼえているね」
 藤枝は、妙な目つきで私をちよつと見た。
「この手紙がついてからすぐ、僕は紳士録だの興信録をあけて見たんだ。秋川駿三という実業家がある。秋川製紙会社の社長だ、無論外の会社にも関係しているが。そうしてその人の長女にひろ子という人がある事がちやんと出ているよ」
「え? じや秋川ひろ子というのは、その金持の娘かい」
「うん、そうだ、勿論これから僕を訪ねて来るお嬢さんが、その人と同じ人かどうかは未だ判らないが、ともかく秋川ひろ子という人が立派に存在している事はたしかだよ」
 こんな話をしているうちに、二人は藤枝の事務所の前にやつて来た。
「そのお客さんが来るまで、どうだい君、興信録でも見て、あらかじめ予備知識を得ておいては?」
 藤枝は室にはいつて、大きな机の前に腰かけると、側にちやんとおいてあつた大部《たいぶ》の本を私の前にさし出した。
 見ると、成程彼がすでにだいぶ調べたと見えて、アの字の部の所が開かれている。秋という頭字をひろつてゆくと、秋川という姓はたつた一つしかない。
 秋川駿三、なるほどこれだな。私はそう思いながらその項をじつと読みはじめたのである。
[#ここから1字下げ]
秋川駿三(四十五才)
 君は旧姓山田、二十三才のとき、当家先代長次郎氏に認められて、家女徳子(現在の夫人)の婿養子となり、秋川の姓を冒す、夙に製紙事業に身を投じ、成功して今日に至る
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