、別に誰もおりませんでした」
「ははあ、先生、そのひまにあなたの茶碗に毒薬を入れたんですよ。ねえ高橋さん、あとであそこにある紅茶を調べてごらんなさい。何か判らないが、劇薬がはいつているにちがいありません。……さだ子さん、あなた少しも呑まなかつたでしようね」
「はい、私別にのどがかわいておりませんでしたので」
「林田があなたにすすめやしませんでしたか」
高橋警部が熱心にきいた。
「いくらあいつがあわてたつて、それ程へまなことはやりますまい。それに第一、そんなひまがなかつたろう」
「ほんとにさうでございます。まだいくらもお話しない間に外がさわがしくなつたものですから」
「それにしてもあいつ、いつの間に鍵をかけたのかしらん」
「さあそれでございます。私が林田さんとお話をしようとしていると、その時、今からおもえば先生方なのでしたが、俄かに階段を上つて来る人の足音が聞えたのでございます。それをきくと、林田さんは、サッと顔色をかえて、ドアの所に走りより、中から鍵をかけてしまいました。鍵はいつもドアの内側に附いているのでございます、私は、まさかあんなことになるとは思わず何か余程重大な話がある為に、そういうことをしたのかと思つておりました。するとドアに鍵をかけてもどるやいなや恐ろしい形相になつて(ほんとうにあの恐ろしい顔は今でも目さきにちらついておりますが)いきなり私にとびかかつて両手で私ののどをしめたのでございます。私は余りのおそろしさに、悲鳴をあげたことまではおぼえておりますけれども、あとは全くおぼえがありませぬ」
語り終つて、彼女はほんとうに恐ろしかつた、という様子をした。
きく者一同、ただ固唾をのんでじつと耳をすましていた。
「そうですか。それで大抵わかりました。つまり僕らの来方が間に合つてよかつたのです。彼はわれわれの足音をきいて最早万事休したことをさとり、かねて用意の毒をのんだのでしよう。首をしめられて未だ幸いでしたよ。あの紅茶をのんだら、今頃はもう死体となつているところだつたでしよう。さてと、僕はもう少しさだ子さんとお話したい。木沢さんにはそばにいていただきましよう。高橋さん、あなた方はどうか御遠慮なく、林田の死体の方の始末をなさつて下さい」
今度は藤枝の方で高橋警部らにさつさとこの室を出てくれという勢なので、警部も素直に引下つて現場の取調べに着手した。私も邪魔になるといけないと思つて、さだ子の室を出て警部らの活動に見入つていた。
間もなく検事がやつて来て藤枝と暫く話をして行つた。
夕方、六時に一同警察に集つてくれ、そこですべてを説明する、という藤枝の言をたのしみに、私はその時間に警察へ行つたのであつた。
藤枝の説明
1
「余りに複雑で、余りに深刻で一体何からお話したらいいか、僕にもちよつと判らないんだが……」
五月三日午後六時すぎ、牛込警察署の一室で、奥山検事、高橋警部、木沢、野原両医師及び私を前にして、藤枝真太郎は、得意そうにエーアシップの煙をゆるやかに吐き出しながら語りはじめた。
「事件の原因、何故に林田英三が秋川一家をあんなに呪つていたか、ということ、及び事件進行中のあの一家族の者の心理状態、更に如何にして僕が、犯人は林田であるとつきとめたか、左様なことは全部あとまわしにして、まず第一に林田英三が如何なる方法であの恐ろしい犯罪を行つたか、ということを述べて見ようと思う。
「彼に、あの殺人を行わせた直接のきつかけは云うまでもなく里村千代の秋川駿三宛の脅迫状である。しかしてその犯行のもう一つの直接の動機は、秋川一家族の、あのいかにも複雑した暗い状態なのだ。
「ひろ子の語るところによれば秋川駿三が無名の脅迫状を受け取つたのは昨年の八月だつた、というが、(ひろ子の話第二回参照)それはひろ子がそれを発見したのがその頃だということを示すにすぎない。だから僕は、もつとそれ以前から千代があの脅迫状を送つていたと考えていいと思う。千代は昨日からの調査によると一昨年夫に死に別れて貧困になげこまれて苦しんでおり、娘がタイピストに出たのも一昨年だというから、少くも昨年のはじめにはもうあの三角印の封筒が駿三宛に送られたと思つていいだろう。
「駿三には千代の遺書にある通り過去がある。彼はこの脅迫状を度々受けとつてどうしたか。警察に訴え出る気にはなれなかつた。それをするにはたとえ時効にかかつているとは云え、浅ましい過去の犯罪――しかも姦通といういまわしい犯罪を云わなければならないのだ。そこで彼はどうしたか。最初のうちこそ一人で悶々としていたかも知れないが、ついに思い余つてこれを世界中でたつた一人の人間につげた。おそらく彼は万事をその男に自白してしまつたのだろうと思う。そうしてその男の助けを求めたのだ。その一人とい
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