意をせよ」に傍点]。と。
しかしこれを実際問題に応用するとなると、到底不可能な事に属するではないか。
今自分が注意できるのは林田とひろ子の様子だけである。
さだ子と伊達は婚約者で二人が今二階のさだ子の部屋にいるのだ。まさかそこの戸口で二人の恋人のささやきを立ちぎきするわけにも行かない。
主人は、鎮静剤のおかげで床の中でうとうとしているというのだ、これも二階にねているわけであるがこの一人の所に行くには第一医者に相談しなければなるまい。
初江が一人になつているはずだが、初江は今風呂場にいる。若いお嬢さんの裸体姿の側に行くなんてことは思いもよらぬ事である。
こう考えて来ると、藤枝の註文は全く無理と云わなければならない。
私がいろいろと心の中で考え、結局藤枝の註文を批難している所へ、伊達とさだ子がはいつて来た。見ると、毎日の取調べで伊達は大分やつれているが、でも中々元気だ。
「お話はすんだのですか。どうでした、警察のほうは」
「はい、いろいろご心配下さつてありがとうございます。今やつと許されて来たんですが、どうも警察では私を疑つてるようで困つちまうのです」
「林田先生、伊達さんは今警察からすぐここに来たんだそうでございます。それで用があるから一旦うちに戻つて、また来るというのでちよつとごあいさつにまいつたので」
さだ子がこう説明した。
「おや、もうお帰りですか。じや、またあとでお話を承りましよう、送りましよう」
「いえ、もうどうかおかまいなく」
「まあいいですよ」
林田もわれわれの沈黙にはいささか閉口していたと見えてさだ子と二人で伊達を送り出て行つた。やはり伊達はいつものように裏口から来たらしく、玄関の方へ行かずに反対に裏口の方へ向つて行く足音がきこえる。
「小川さん、ここの家のものが二派に分れているとお思いになりません?」
「というのは?」
「さだ子と伊達さんは全く林田先生を信じて私を信じていないのです。それから私は藤枝先生を信じてさだ子と伊達さんを信じないのです」
「初江さんはどうです?」
「さあ、あれはどつちということはないでしようが……今日だつて藤枝先生が見えていればさつきの電話の話をしたと思いますわ」
私も全く同感である。
伊達を送り出したさだ子と林田は再び応接間に戻つて来た。
「あなた、詳しく警察のようすを伊達君にききましたか」と林田。
「はあ」
さだ子は答えながらちらと私達の方を見て語りかねているらしい。
このさだ子の有様は完全にひろ子を怒らしてしまつた。
「さださん。あんた林田先生とお部屋でお話にならないこと? 私、小川さんとここでお話していますから」
4
ひろ子はズバリとこう云つてツンと横を向いてしまつたが、さだ子もこの時は少しも驚かなかつた。
「では先生、私の部屋においでになりません? いろいろ申したいこともございますから」
ひろ子とさだ子の憎み合いは、林田と私の前に全く露骨にさらけ出されて来た。
「そうですか。じやそうしましよう。ひろ子さんも小川さんとお話があるのではね」
さすがに林田は巧みに二人のどつちにも花をもたせた調子で立ち上つた。
「どうぞごゆつくり」
ひろ子は、林田にも冷やかに云いながら私の方をちらとながめた。
さだ子はこれも珍しくツンとした様子で林田と共にドアから出て行つたが、やがて階段を上つて行く足音がきこえた。彼女は自分の部屋に林田を引きとめて恋人の取り調べられた有様を充分語るつもりなのだろう。
私ははじめて応接間にひろ子とたつた二人、差し向いになつてやつとほつとした。十七日の午後、この令嬢と初対面をして、今日ようやくゆつくり二人で語れるのだ。私は内心の喜びをかくすことが出来なかつたのである。
さだ子が林田を信頼すればする程、ひろ子は藤枝を信じている。その藤枝の代りに来ている私である。ひろ子がひどく打ちとけて語り始めてくれたのは、実は藤枝に対する好意かも知れないけれど、私にとつて決してめいわくなわけではなかつた。
いやな事件を全く離れてわれわれは絵画のことや文学のことや音楽の話をはじめた。藤枝は、二十日の夜、レコードを見て『我が音楽趣味に感謝す!』と独り言を云つたが、今や私もその言葉を心の中で唱えないわけにはいかない。この芸術趣味のおかげで私は約二十分間ほど、ひろ子とたつた二人で語り合つたのであつた。
「ねえ、小川さん、庭に出てごらんになりませんか。ゆつくり私の花壇をまだ見ていただかないんですもの」
「結構ですね。拝見したいですね」
ひろ子が案内をしてくれたので、私は彼女の後から庭に下りたつた。ひろ子がわざわざ玄関から私の靴を例のピヤノの部屋の隣のガラス戸口までもつて行つてくれようとするので、私は恐縮してあわてて自分で靴をはこんだ。ひろ子
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