おとといと同じく京浜街道を疾駆して横浜にはいつた。ひるにはまだ少し早いのだが、ここで腹を作ろうという事になり、またニューグランド・ホテルに入つたが、初江一人は全く食慾がなく、僅かにスープとパンを少し取つたばかりだつた。
「どうかなさつたのですか、余程おなかがお悪いようですが……」
 私は少し心配になり出してたずねた。
「いいえ、別にたいして……いつこう何もいただきたくございませんの」
 でも食事中は、彼女も、ひろ子や林田の話に加わつて快活に談笑していた。
 食後、車首を更に西に向けて保土ヶ谷、戸塚をすぎ、藤沢の松並木を通つて平塚に出た。
 ここらまで来ると皆、さすがに都の塵をすつかり離れて、いい気もちになつたのだが、初江のようすはだんだんおかしくなつて来た。さつきから一言も云わずに、胸を押えている。
「初江さん、あんたどうしたの。おなかが痛いんじやない?」
「え、たいした事はないの。ただ少し……」
「どう? 痛いの」
「少しね。おなかが痛いような気がするんですの」
 こう云つた途端、胃から何か液がこみ上げて来たらしく初江は顔をしかめた。
「おい、ストップ、ストップ」
 林田が運転手に声をかけた。
 声に応じて車が止ると、初江は口にふくんでいた生唾を傍《かたわら》の砂の上にはいてほつとしたようだつたが、まだ苦しそうに下をむいている。
「帰りましよう。だんだん悪くなるといけません。ねえ小川君」
「ええ、僕も帰つた方がいいと思います」
 初江は自分の為に折角のドライヴがおじやん[#「おじやん」に傍点]になるのをひどく恐縮しているようだつたが、やはり一刻も早く帰宅したいように見えた。
 ひろ子も無論不賛成をとなえるべき所でないので、再び車首を転じて東京の方に向けた。
 私には初江のようすはよく判らないけれども、藤枝真太郎がいつも過度の喫煙で、胃酸過多症にかかつている有様を思い合わせ、初江のようすがやはりどうもそうらしく思われるので、この際、何か制酸剤を与える事はわるくないと思い、林田にひそかに自分の考えを物語つた。
 彼もそれは悪くはないだろうと賛成したので、保土ヶ谷の町でちよつと車をとめ、薬屋で重曹を少々求めて冷水で初江にのましたが、幾分かおちついたようにみえた。
 その後、特に記《しる》すべきこともなく、車は午後、一気に牛込の秋川邸へと着《ちやく》したのであつた。
 丁度午後四時半すぎであつた。
 さだ子がいきなり玄関に出て来た。今朝出た笹田が見えない。
「只今帰りました。笹田君はどこかに出たんですか」と林田がきく。
「はい、なんでも息子の家にとりこみがおこつて今日午後から一晩ひまをもらいたいつて申して帰りました」
「ああそうですか。お父様は?」
「まだ床にはいつております。今、木沢先生がまた見えていらつしやいますが」
「そりや丁度よかつた。初江さんが少々おわるいので早速薬をもらいましよう」

   風呂場の花嫁

      1

 一同が応接間に通ると、木沢氏がやがてやつて来た、早速初江の容体を本人から語ると、
「そうですか。矢張り余りよくなりませんでしたか」
 と云いながら、ポケットから薬の袋を一つ取り出した。
「ここに散薬が三包はいつていますが……今苦しくありませんか? あ、そうですか。じやこれを、今日のお夕食前三十分前に一つのんで下さい。夕食は六時ですか。じや、まあ五時半位に一つのんで見て下さい」
 それからひろ子のほうを見ながら、
「さだ子さんにも申し上げてありますが、お父様はもう大分およろしいようで、うとうとしていられますからあのままにしておおきになつたら、よろしいでしよう。さてと」
 木沢氏は金側の懐中時計をとり出して、
「お父様も初江さんも大したことはないと思いますから、じや私は失礼します」
「おやそうですか、僕もちよつと用事があるんです。何、すぐ戻つて来ますよ」
 林田はこういいながら、木沢氏と一緒に玄関から出て行つた。
 初江はもうすつかり気もちがなおつたらしく、別に自分の居間にひきとつて休もうというようすもない。
 ひろ子が父のようすを見に応接間を出て行つた。室にはさだ子、初江、私の三人が残された。
「伊達君はまだ今日は見えませんか」
「はい、今朝からまた警察によばれているのでございますつて。まだ帰されないのでございます。私ほんとに心配で……」
「お察しします」
 こうは云つたものの、さて、それからなんと云つてこの人をなぐさめてやつてよいものか、私はいささか困惑してしまつた。
 初江も思いは同じと見え、多くを語らない。
 折よくこの時ひろ子が戻つて来た。
「さだ[#「さだ」に傍点]さん、伊達さんがいらしつてよ。早く行つておあげなさい」
「まあ、そう、ありがとう」
 さだ子はおちついて椅子から立ち上つたが、さ
前へ 次へ
全142ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング